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与えられた自室に近づくと、扉の前でリーヴさんが影のように佇んでいた。とうにこちらに気がついていた彼は、真っ直ぐに伸ばした体躯を折って、綺麗に撫でつけた白髪の頭を下げる。
『ナギさん、少々お時間をいただいても?』
穏やかな表情を湛えてはいるものの、上げた視線には、剣呑とはいかないまでもほのかに含むものが感じられた。
『ええ、もちろんです』
ノブに手を掛けようとすると、すっと前に出たリーヴさんが扉を開け、自然な動作で室内へと促す。
ううむ、プロだ。
応接テーブルの上には風呂敷のような布が広げられ、その上に私の所持品が整然と並べられていた。
きちんと畳まれたぼろぼろのリクルートスーツ、無骨な木の椀、ゴミにしか見えないカッパ。木の実や棒などのこまごまとした品までとっておいてくれたようだ。
自分で編んだ歪な籠の縁を指でなぞりながら、サバイバル生活に思いを馳せる。
森にいたのはほんの数日前の事だというのに、不思議なほど現実感がなかった。況や日本での生活となっては、まるで白昼夢の中で別世界を垣間見ていたような心地さえする。
いや、実際異世界なんだったっけ。
不自然な品は早々に処分しなければ。小さな籠は何かに使えそうだから、部屋の隅に置いておこうか。
脳内で個々の処遇を振り分けるうち、見覚えのない布包みが目に留まった。
『これは……?』
手を伸ばしたのをリーヴさんに制される。慎重に包みを開く彼の手元を覗きこむと、鈍く光るナイフが現れた。
ドクン、と心臓が音をたて、指先が冷たくなる。
刃についた血は既に拭い去られているにも関わらず、脳裏に焼きついた光景がまざまざと思い返されて、思わず手の平を凝視する。
背後から強い腕に支えられて漸く、自分がふらついていたことに気づいた。
導かれるままにソファに腰を下ろして自嘲する。
なんの覚悟も持たずに凶器を人に向けるとは、なんて愚かな。
先程厩舎からの帰りに出会ったネルロの眼差しを思わせる、ぬめりを帯びた刃の輝きを見つめていると、不意にリーヴさんが尋ねてきた理由が知れた。
『エリカを、攫った人、のことですね?』
頷いたリーヴさんの気遣わしげな視線を受け、ひらひらと手を振る。
自失している場合ではない。もし黒幕がいるとすれば、つきとめられなかったせいで、エリカがまた攫われたりしたら大変だ。
『……ありがとうございます。どのような事でも構わないので、お聞かせ願えますでしょうか?』
エリカが言うこととあまり変わらないと思うが、と前置きして、つっかえながら知っている限りのことを証言した。
事実として知っていることは多くないが、リーヴさんが刑事ドラマの補佐役並みに辛抱強く巧みに話をひきだしてくれるので、私も断りを加えた上で推測を交えて話す。
エリカに見せなかった誘拐犯の遺骸にまつわることについても、捜索に来た人々は当然見たのであろう、私の話を補足されながら幾つか質問を受けた。
ひとしきり話し終え、荷物の中から誘拐犯の男の所持品をまとめて籠に入れ差し出す。
『何か、お役に立てることが、あればいいのですが』
一応犯人の屍骸の第一発見者であるにもかかわらず、現場を荒らしまくってしまったので責任を感じる。
軽く目を見張ったリーヴさんは、ゆるゆると首を横に振った。
『いいえ、大変重要なお話を伺いました。旦那様も喜ばれるでしょう』
偽りのないねぎらいの言葉に少し気が軽くなった。
『あの、ネルロさんという人なんですけど……』
おずおずと発した私の言葉に、ナイフを布で包みなおしていたリーヴさんが振り向いた。
『お会いになったのですか』
思いがけず真剣な口調にたじろぐ。どうにも拭えない不安を消したくて聞こうと思ったのだが、まずいことを言っただろうか。
『はい、先程、庭で』
『……彼について、どうお感じですか?』
お世話になっている人の部下を悪し様に言うのは気がひける。無難な言葉を探していると、率直におっしゃってください、と畳みかけられた。
仕方ない、腹を括ろう。
『私の、気のせいだと、思うのですけれど』
聞き終わったリーヴさんは難しい顔をした。
『ナギさんにも事情を知っていただいた方がよろしいでしょうな。旦那様にお話ししますので、念のためネルロには近づかないようにしていただけますか』
深刻な雰囲気に、ごくりと唾を飲み込む。
『何か、あるのですね』
無言の頷きが答えだった。
恐るべし本能。