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あまり汚い表現ではありませんが、トイレの話題がでます。
朝食後マギーさんをつかまえて、スタンフォード卿の許しを得たことを告げる。
『わかりました。でも、旦那様がおっしゃるようにお作法や読み書きの勉強も大切ですからね』
既に話が通っていたようで、濃い色のワンピースと白いエプロン、頭を覆う布を手渡された。
『他の者には行儀見習いのお嬢さんを預かっていると伝えておくようメリーに言いましたから、今頃屋敷中に知れ渡っているでしょう』
余計な尾ひれがついていないといいのだが。
部屋に戻って着替えてから階下に降りると、階段の下で小さな木のバケツと素焼きの壺を持ったマギーさんが振り向いた。
『もう会った者もいますが、屋敷を案内がてら働いている者を紹介しましょう』
『お願いします』
しっかり顔と名前を一致させなければ。
『もう食事の片づけが落ち着いた頃でしょうから、まずは……へ』
歩きだしたマギーさんのバケツに慌てて手を伸ばす。
『片方持たせてください』
中には茎が水に浸かったいい匂いのする草が数種類入っていた。
『ありがとうございます。それは料理用の香草ですよ。マースから預かってきました』
スペアミントにローズマリー、オレガノ。柑橘系の香りが混じるのはタイムだろうか。ここで出される食事はハーブが巧みに使われていて、素朴ながらとても美味しい。
一旦外に出て母屋に向かい、食堂や書斎があるのとは反対側の裏手に回る。軒先にはコックのついた天水桶が設けてあり、そこから伸びた木の管は格子窓の隙間から壁の中に吸い込まれていた。
小さな扉から中に入ると、そこは厨房になっているらしく、棚には鍋や木の鉢が並び、漆喰で白く塗られた壁にはフライパンが掛かっている。
『アリアン、今いいかい?』
マギーさんが声をかけると、エプロンで両手を拭きながら奥から女の人が出てきた。ふっくらとした頬と小さい鼻を持つ顔立ちは優しげで、肌の色は少し浅黒い。
『マギー、その方がナギさんね?』
目尻を下げると細い目が糸のようになる。
『ガードナー夫人からお話は聞いています。料理長のアリアン・キーツよ。今朝の食事はどうでしたか?』
『とても、美味しかったです。特に、ジャガイモのスープが、最高でした』
滑らかでさらりとした舌触りが朝食にぴったりで、少し変わった風味がした。
『嬉しいわ。この香草を入れたんですよ』
ありがとう、と私が持っているバケツを受け取った彼女は、その中の一つを指先でちょんとつつく。嗅いでみるとぴりっとした香りがした。
『お待たせ。今月分の……を持ってきたよ』
マギーさんが素焼きの壺を手渡すと、戸棚から別の壺を取り出したアリアンさんは持ってきた壺の中身をそこに移した。うっすら茶色がかった細かい粒がさらさらと流れ落ちてゆく。
『前のがまだ少し残っているから、今日は……を焼きましょう』
その言葉を聞いて、マギーさんは嬉しそうな顔をした。
『キーツ夫人の作ったお菓子は絶品なんですよ。ナギさんもお茶の時間を楽しみにしていてくださいね』
それは楽しみだ。どうやら壺の中身は砂糖だったらしい。どんなお菓子を作るんだろう。
『もしよかったら、手伝わせてもらえませんか?』
恐る恐る聞いてみる。専門職みたいだし、軽々しく職分を侵すのは気がひけた。
『いいですよ』
アリアンさんはあっさり頷く。
『昼食の仕込を終えてから始めますから、またその頃に来てください』
『キーツ夫人、野菜が届きました』
扉が開いて小柄な女の子が入ってくる。両腕に抱えた大きな籠には瑞々しい青菜や縞模様のナス、大きなズッキーニなどが山盛りになっていた。
彼女は厨房の隅にあるテーブルに籠を下ろすと、リスを思わせるくりくりしたはしっこそうな茶色の目でこちらを見る。
『さっきメリーに会って聞いたわ。あなたナギさんでしょう?あたし、アン・スミスです』
すごい、本当に知れ渡っている。
『アン。遅いと思ったわ。立ち話もほどほどにしなさい』
軽く睨みつけてみせるアリアンさんに謝ったアンは、肘まで捲り上げていた袖を下ろした。
『メリーが放してくれないんですもの。それよりキーツ夫人、聞いてください!』
なにやら憤慨している様子だ。
『昨日……も持ってきてって頼んだのに、ケインったら、すっかり忘れてたって言うんですよ!』
『まあ、どうしましょう。夕食に使うつもりだったのに』
別のものを考えるしかないわね、と言うアリアンさんに、アンは胸を張る。
『大丈夫です!昼からトムさんが……を持ってくるので、一緒に運んでもらうよう頼むように言っときました。もちろんお礼はケイン持ちで。遅れるんだから、って多めにおまけすることも承知させましたから』
うわあ、たくましい。
あとの二人も、感心半分呆れ半分というふうに聞いている。
『その……が料理に向いたらいいのにねぇ。今朝の食事はなんだい、私は卵の殻が歯に挟まったよ』
マギーさんが顔をしかめる。アリアンさんを見ると、練習でアンに使用人の食事を作らせているのだ、と小声で教えてくれた。
『すみません』
アンは可哀想になるぐらいわかりやすく落ち込んだ。
『それでも、前よりはましになったわよ』
アリアンさんが慰めるようにのほほんと言う。
『壺に入っている砂糖を全部入れたり、たまねぎを皮ごと茹でたり、右手に持っている刃物で右手を切ったりしていたものね』
『そんなことをしていたのかい』
フォローになっていない。アンは更に縮こまってしまった。
アリアンさんが床に置いた手桶を指差す。
『アン、今朝はあれだけよ』
『わかりました』
覗き込むと、二つの手桶には野菜クズや卵の殻などの生ゴミが入っていた。どこに捨てに行くのだろう。
『マギーさん、アンについて行っていいですか?』
了承を得てから手桶を一つ持ち、連れ立って勝手口を出て母屋の裏手を壁沿いに進む。しばらくして立ち止まり外壁に取り付けられた梯子段を登ったアンは、人間の背ほどの高さに設けられた蓋を開けて手桶の中身を素早く放り込んだ。
『その穴は何?』
私の質問に、降りてきたアンは簡潔に答える。
『お手洗い』
え、トイレ!?
怖いもの見たさで梯子段を登り、息を詰めながら蓋を開けて穴を覗き込む。内部は暗くてよく見えないが、覚悟していた腐敗臭はしなかった。むしろ森の腐葉土に杉や檜のような木の香りが混じったようないい匂いがする。
そういえば、共同のトイレは水洗ではなかったが嫌な臭気はなかった。田舎の汲み取り式をよく知っているので、逆に違和感を覚えたものだ。
『あんまり頭をつっこむと、上のお手洗いから降ってくるわよ』
慌てて頭を穴から引き抜いた。
『冗談よ。そんな位置に穴を開けないわ』
アンはけらけらと笑う。それもそうだ。
『でも、どうなってるの?こんなところに、捨てて大丈夫?』
疑問に思っていると、あれを見て、とアンが上を指差した。
視線の先、赤茶色の屋根の上で何かが回転している。今まで気がつかなかったそれは、よく見ると風車だった。離れの屋根の上にも同じものがあるようだ。
『ここは丘の上だから風がよく吹くの。粉を挽くみたいに、あれが回るとこの穴の中がかきまぜられるみたいね』
脇にあった物置からずだ袋を取り出し、アンは再び段梯子を登る。ざざっと穴に開けた中身は、どうやら木屑のようだ。
『部屋に置いてあるお手洗いの中身も集めてここに捨てるの。しばらく経つと良い……になるらしいのよ。野菜がよく育つんですって』
使っていないが、確かに私の部屋にも引き出し式の簡易トイレがあった。
『へえ、すごいね』
コンポストか。人糞を肥料にする国はあまりないと以前読んだことがあるけど。
『……にも同じものがあるわよ。あたしのいた村にも一つあったけど、ここまで立派じゃなかったわね。家では使うたびに手で回していたわ』
アンは手でハンドルを回す仕草をする。この設備自体は珍しいものではないようだ。
割と清潔な世界で良かった。私は潔癖症と言うわけではないが、もしヴェルサイユのように庭に垂れ流し状態だったら我慢できなかったかもしれない。
『使い終わったものを、この新しい木屑と交換に持っていく人もいるのよ』
ちりがみ交換みたい。確か昔の日本でも屎尿は売買されたんだったな。
『私の住んでいた所でも、ずっと前は、お金で売っていたみたい』
『お金になるの!?』
しまった、食いついてきた。
『いや、でも、そうしたら、これも買わないとだめなんじゃない?』
木屑の入った袋を指差すと、アンはがっかりしたようだった。
『そうよね。今ならタダなんだし』
さっきといい今といい、本当にたくましい子だ。
『これは、どうするの?』
まだ手桶一つ分の生ゴミが残っている。
『ああ、それはね。……に持って行くのよ。……が食べるの』
アンは空の手桶を持って歩き始めた。
今度は離れの裏手に回って干されたシーツがはためくロープの間を抜け、踏み固められた小道を進む。ほどなく柵で囲まれた広い草地が姿を現した。草地の横には長屋のような背の低い建物があり、茶色や黒の大きな動物が数頭草を食んでいるのが見える。
馬だ。
近づくにつれてその姿は大きくなり、柵のすぐ側までたどり着くと、ちょうどそこにいた馬の背中は私の肩ほどもあった。
「うわあ、大きい」
思わず大きな声を出すと、馬は耳をピクリとさせた後立て、落ち着きなく足踏みする。どうやら警戒しているようだ。
建物から少年が出てくるのを目にしたアンが声をかけた。
『コリン!』
私以上の大声に、馬は耳を後ろに伏せ、歯をむき出しかける。少年は急いでこちらへやってきて馬の胴に手を当て、低い声で囁きながら鼻筋を優しく撫でた。しばらくそうしていると馬は鼻息を鎮め、少年の頭に首を擦りつける。
『アン、馬がびっくりする』
呟くように言った少年は馬から目を放し、初めて気がついたというように私を見た。私よりも頭半分背が低い。
『ごめんごめん。紹介するわ、ナギ。メリーの弟のコリンよ』
ナギのことはメリーから聞いてるでしょ、と言うアンに、コリンはこくりと頷いた。メリーと同じく赤みがかった金髪に空色の目をした彼は、まつげの長い繊細な顔立ちをしている。
不意に鐘の音が響いた。風に乗って遠く近く流れるそれを聞いて、アンの顔色が変わる。
『大変!もうこんな時間。昼食の仕込みを手伝わないと叱られちゃうわ』
アンは柵越しのコリンに中身の入った手桶を押し付けると、踵を返してもと来た小道を駆けあがる。
『コリン、ナギに……を見せてあげてー!』
途中振り返って叫ぶと、一目散に走ってゆく。その姿は、あっという間に生垣の向こうへ消えていった。
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