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かざなぎの記  作者: 藤原ゆかり
異文化見聞録
22/29

 早朝、カーテンから漏れる光で久しぶりに爽やかな寝覚めを迎えた。


 大きく伸びをして身体中の空気を入れ換える。水差しに入っていた水を少し飲み、残りを盥に注いで顔を洗った。昨夜椅子の背に掛けておいた服に着替え、鏡台に座り、上に並んでいる瓶の蓋を端から開けて嗅いでみる。

 片手で包めるほどの桃色の小さな瓶はクチナシの花のようなやや強い香り、中くらいの青みがかった瓶には、すこし鼻にツンとくるとろみのある液体が入っていた。一番大きな茶色の瓶からはほのかにハーブの香りがする。手のひらに少量を取り腕につけてみると、さらりと肌に馴染み特に刺激もないようなので、両手に伸ばして顔に塗る。

 引き出しを開けるとブラシや櫛、綺麗な色の紐など雑多な小物がきちんと整頓されて入っていた。その中から目の粗い木製の櫛を選んで少しずつ梳かしてゆく。以前は顎のラインで切り揃えていた髪も肩に届くまでに伸び、毛先が不規則に跳ねていた。前髪を切り揃えるぐらいしかしたことがないので不安だが、後でハサミを借りて切らせてもらおう。




 盥を持って廊下に出たところでマギーさんと鉢会った。

『おはようございます』

『おはようございます。具合はいかがですか?』

 元気ですと答えると、安心した顔をして、たくましい腕で私が持っている盥を受け取る。

『これは、置いたままにして下されば私達が集めて回りますから』


 いつまでかはわからないがしばらくお世話になるのだから、自分の身の回りのことで他人を煩わせたくない。


『私、こんなに大きなお家のことは全然知らないので、どんな風に仕事をするのか、覚えたいんです』

 いずれ職を探さなければならない。土地も持っていないし、畑仕事よりは家事のほうが向いていそうだ。


 マギーさんは少し驚いた後、あっさり頷いた。

『それもいいかもしれませんね。でもどちらにせよ、旦那様にうかがってからにしましょう』

 確かに居候の分際で勝手はできないので、そのほうがいいだろう。

『よろしくお願いします、ガードナー夫人。私からも、スタンフォード卿にお話ししてみますね』

 マギーでいいですよと言う彼女に、私のこともナギと呼んでくださいとお願いして後からついていく。



 階段を降り、建物の脇にある通用口から外に出た。まだ昇りきる前の柔らかい太陽の光が、草木についた水滴にはじかれてきらきらと踊っている。ちょうど昨日私が最初に目覚めた部屋から見下ろした、畑のような中庭だ。寝巻きのまま窓を開けて怒られたときに目が合ったおじさんがこちらに背を向けて立っている。


『マース!』

 呼びかけに振り返った彼は、私を見て昨日と同じようにひょいっとかぶっていた帽子をあげた。

『夫のマース・ガードナーです』

 マギーさんの紹介にびっくりした。引き締まった体つきをしているせいかあまり大柄に見えないのだが、二人が並ぶと背丈はマースさんの方が頭半分ほど高い。夫婦だと聞いて昨日カーテンを閉めたときの遠慮のない態度にも合点がいった。もっとも、マギーさんを見ていると誰に対してもあまり遠慮というものを感じられないのだが。

『おはようございます。ナギコ・キヨハラです。ナギと呼んでください』

『マーガレットから聞いているよ。大変な目に会ったそうだな』

『ええ、まあ……』


 一瞬誰のことだろうと思ったが、マギーさんのことだと気がついた。失礼だけど随分と可愛らしい名前だ。

『マギーは見かけはこんなだが、優しいんだよ』

 態度に出ていたのかと、ぎくりとしてしまった。恐る恐るマギーさんの方を見ると、顔を真っ赤にしている。

『またあなたはそんなことを!いい加減にしてちょうだい』

 眉を吊り上げている妻をよそに、マースさんは飄々とした顔で萎んだ花を摘んでいた。いつものことらしい。熟年バカップル恐るべし。



 盥の水を、畝に沿って設けられている樋が繋がっている台に乗った大樽に空ける。その樽には軒先にある雨どいを受けている更に大きな樽から、木の樋が伸びていた。マースさんが小さい方の樽についているコックをひねると、水が少し傾いた樋を伝って畝の間を流れてゆく。樋には小さな穴が沢山開いており、そこから水がシャワーのように植物の上へと降り注いだ。

『今の季節は、あまり水を撒かんでもいいから楽なんだ』

 まんべんなく濡れてゆく様子を感心して眺めていると、マースさんがすぐ隣に来ていた。

『花が好きなのかい?』

『はい。でも、花だけじゃなくて、草や木も好きです』

 私の言葉に相好を崩すと、マースさんはコックをひねって水を止めた。

『それは嬉しい!また遊びにおいで。庭を案内しよう』


 行かなくていいのかい、と指差された先に誰かに呼ばれて建物の方へ向かうマギーさんの姿を見て、私も慌てて後を追う。

『ありがとうございます!』

 振り返りながら叫ぶと、マースさんは片手を挙げて見送ってくれた。




 マギーさんは通用口から入ったところで、腕にシーツのような布が入った籠を抱えた女の子と話している。私に気がついた二人は会話を中断しこちらを向いた。

『ガードナー夫人、この人が?』

 私と同年代ぐらいの彼女は、鼻の頭にそばかすの散った愛嬌のある顔立ちに空色の目を輝かせている。頭を覆った布からはふわふわの赤みがかった金髪がはみ出していた。

『メリー』

 とがめるような声を出したマギーさんにちょっと肩をすくめてから、話しかけてくる。

『あたし、メリー・マーシャルって言います。よろしくね』

『ナギコ・キヨハラです。ナギと呼んでください。こちらこそよろしく』

 お決まりになった自己紹介をすると、メリーは口を開けて笑った。

『住み込みの若い女の子が他にいないから嬉しいわ。話し相手が少なくて寂しかったの』

 マギーさんが呆れたようにため息をつく。

『メリーのおしゃべりについていける人なんか、めったにいないよ。弟のしゃべる分までとりあげてるんじゃないかい?』

『コリンは静かなのが好きなのよ。あたしたち、それで釣り合いが取れてるからいいんです』


『ああ言えばこう言う。さあさ、行った行った』

 マギーさんは笑いながら手を振ってメリーを追いやる。メリーはまた後でね、と言いながら通用口から出て、建物の裏手に歩いていった。

『にぎやかな子ですね』

 あっけにとられて見送る私にマギーさんは苦笑する。

『弟と一緒に近くの……から出てきてね。悪い子じゃないんですよ』

 気に障ったらごめんなさいと謝られて、慌てて手と首を横に振った。



 ナギさん、と呼ばれて振り返ると、廊下の向こうからリーヴさんが歩いてくる。

『おはようございます。ガードナー夫人とご一緒でしたか。そろそろ朝食の準備が整いますので、参りましょう』

 今七時前頃だろうか。


『おはようございます、リーヴさん』

 昨夜はありがとうございました、と小声で伝えると、リーヴさんは人差し指を口唇に当て目を細めてみせた。



 マギーさんと別れ、スタンフォード卿の書斎のある棟へ向かう。どうやらこちらが母屋らしい。

 リーヴさんに促されて部屋に入ると、既にカトラリーが並んだ大きなテーブルに向かってエリカと知らない女性が座っていた。


『おはようございます』


 エリカがこちらを向き、顔を輝かせる。

『おはよう、ナギ!』

 そのまま立ち上がって駆け寄りそうになるのを、斜向かいに背筋を伸ばして座る女性にやんわりと止められ、エリカは再び腰を落ち着けた。


『はじめまして』

 静かに立ち上がりこちらへ近づいてくる二十代後半に見える女性は、すらりとした立ち姿が美しい。長身の彼女に濃紺のドレスと白いショールはよく似合っていた。

『サラ・クルーと申します。こちらでエリカ様の……として雇われております』

 眼鏡ごしに茶色の瞳で微笑むと、同じ色のきっちりとまとめられた頭を絶妙な角度で下げる。つられて背筋が伸びた私も肘を曲げて腹の前で手を組み、腰から三十度のお辞儀をした。

『ナギコ・キヨハラと申します。よろしくお願いします』

 面接官の前に立っている錯覚に陥ってしまう。


『私に勉強やお行儀を教えてくださるの』

 家庭教師か。エリカの仕草が心なしかいつもより上品だ。


 室内に控えていた男性がエリカの隣の席へ促し、椅子を引いてくれる。一瞬挙動不審になりかけたが、相手を困らせるだけだと気づいてありがたく腰掛けた。いきなり椅子を引き抜かれて尻餅をつきそうで怖いと言ったら、怒られるだろうか。小学校のときそういうアホな男子がいたのだ。

 クルー先生ももう一人の男性に椅子をひかれて向かいの席についた。彼女の顔が微妙に強張っている気がする。


 なぜだろうと思っていると、扉が開いてスタンフォード卿とリーヴさんが入ってきた。立ち上がろうとする私達を手で制して窓を背にした席に着く。互いに挨拶を交わす間に先程の男性二人がワゴンを押して入室してきた。一通り料理を並べると、彼らは再びワゴンを押して帰ってゆく。


『天と、地と、全ての恵みに感謝を』

 スタンフォード卿の静かな声が響く。他の二人は目をつむっており、私もそれに倣う。郷に入っては郷に従えだ。心の中でいただきますと呟いていると、目を開けたエリカが囁く。

『‘イタダキマス’よね?』

 覚えていたんだ。確かに森の中では口に出していた。うん、と頷いておく。


 食事はたっぷりと量があった。籠に盛った丸いパンと金色のバター、パセリの浮いたジャガイモのポタージュスープ、人参とたまねぎ、ベーコンの炒め物。よく漬かったきゅうりのピクルスは歯ざわりが良く、スクランブルエッグを口に含めばとろりと溶ける。牛乳は今まで飲んだことがないほど濃厚で、思わずおかわりを貰ってしまった。


 リーヴさんが淹れてくれた食後のお茶を飲んでいると、スタンフォード卿がクルー先生に話しかけた。

『クルー先生、お願いがあるのですが』

『なんでしょうか』

 クルー先生はティーカップを受け皿に戻し、姿勢を正す。

『エリカと一緒に、ナギにも色々と教えてもらいたいのです。ここから遠く離れた所から来たので、習慣や言葉に大分違いがあるようなのだが、すぐに呑み込むでしょう』


 お茶が気管に入ってむせそうになるのをなんとかこらえた。いやいや、一からならともかく、エリカと一緒にはどう考えても無理だろう。


『かしこまりました』


 えっ、あっさり引き受けちゃうの?


『確かに違いはあるようですが、基礎ができていらっしゃるので大丈夫かと存じます。足りない点は個別に補うとして、ご一緒に勉強することでエリカ様の励みにもなるでしょう』


 助けを求めて隣のエリカを見ると、嬉しそうに頷いていた。

『あの……』

 遠慮がちに声をかけると、皆がこちらを見る。

『お気持ちは、とても、ありがたいです。でも、お世話になりますし、これからの役に立つかと思って、マギ……ガードナー夫人に、仕事を習おうかと、考えているんです』

 エリカと同じことを学ぶより、そちらの方が実践的な気がする。


『ナギ、行儀作法や読み書きは習っておいて損はないぞ。せっかく少し字が書けるのだから、すぐ上達する。確かに家事を覚えることも役立つだろうがな』

 ちょっと難しい顔をしたスタンフォード卿は、ぽんと手を叩いた。

『では、こうしよう。昼まではガードナー夫人について家事を習う。昼からはエリカと一緒に読み書きの勉強をする。行儀作法は食事やお茶の時間に学べば良い。合間は人と話したり、自由に過ごしたまえ』


 どうやら決定事項のようだ。


 でも、よく考えるとこれは願ってもない話だ。衣食住に加え職業訓練と教師までつけえてもらえる環境なんて、この機会を逃せばもう巡ってこないだろう。


『ありがとうございます。よろしくお願いします!』


 その場に居た全員に勢い良く頭を下げる。


 直後、髪が乱れない程度に、とさっそくご指導を賜ってしまった。

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