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いつの間にか眠っていたらしい。ぽっかりと目を開けると何も見えなかった。
起き上がって枕元のランプを点けようとスイッチを探しかけ、火種がなくては点けられないことに気づき苦笑する。そういえば、懐中電灯や服などの私物はどうなったのだろう。
しばらくベッドに腰掛けていると次第に暗闇に目が慣れ、室内の調度品の輪郭が露になってゆく。カーテンのすき間から僅かに明りが漏れているのに気がつき、窓辺に立って音を立てないように開けると、月明かりに照らされた庭園が眼下に広がっていた。背後の建物は窓に灯りもなく、半ば闇と同化している。
なんとはなしに眺めていると、窓の一つが明るく浮かびあがり小さな人影を黒く映しだした。あの位置は確か、昼間案内されたエリカの父スタンフォード卿の部屋だ。
これは好機かもしれない。
服に着替え、手に靴を持って裸足のまま部屋の外に出た。
夜も更けて廊下を通る人も絶え、話し声や水音もしなくなった邸内は静まりかえっている。それでも虫や小動物と自分以外の気配がなかった森の夜とは違い、耳を澄ませれば壁を通して人々の息遣いが感じ取れ、さながら屋敷自体が一個の有機体として呼吸しているかのようだった。
邸内の灯りは一部を除きほとんどが消えていたが、暗闇に慣れた目には月明かりだけでも充分に視界が確保できる。扉が並ぶ前を忍び足で過ぎ、格子の影が床に唐草模様を描く渡り廊下を抜けて、スタンフォード卿の書斎の前で立ち止まった。靴を履いた後、扉に耳をつけて中の様子を窺う。小さな物音がするのでまだ起きているようだ。
今更緊張で高まる動悸をなだめてノックしようとした時、内側から扉が細く開いた。
不意をつかれて拳を上げたまま固まる私に、部屋の奥から声がかかる。
『入りなさい』
入り口で大きく扉を開いたリーヴさんが目顔で促すままに、躊躇いがちに足を踏み入れた。書き物机に座っていたスタンフォード卿が顔をあげて立ち上がりこちらに近づいてくる。
『君か。体は大丈夫なのか?』
『おかげさまで、楽になりました』
どうして私が来るのがわかったのだろう。
座りたまえ、とソファーを勧めながら疑問を察したようにスタンフォード卿が頷く。
『リーヴが、向かいから誰かがこちらに来るのが見えたと言ったのでな』
渡り廊下の窓越しに見えたのか?振り向いた私の視線に、リーヴさんはアルカイックスマイルを浮かべて会釈した。何者だ、リーヴさん。
『夜遅くにごめんなさい』
『いや、こちらも聞きたいことがあった』
リーヴさんが書き物机の上にあったものを応接テーブルに移動させる。昼間見た地図に数冊の厚い本、それに私が書いたメモ。
『あれから君の書いた地名を調べてみたのだが、エイチケンというのは……の名かな?やはりこの地図にも……にもなかった。リーヴは、君はもしかするとガーロンドから来たのではないかと言うのだがどうだろう。その地方の詳しい地図を……ばわかるかもしれない。』
内側が鏡張りになったカンテラを地図にかざしたスタンフォード卿は、南西の端、海に程近い場所を指差す。
『そのことなのですが……。ごめんなさい、この紙は違うんです。』
隠すようにインクが滲む紙を裏返す。
『違う?どういうことだ?』
ここが踏ん張りどころだ。嘘も方便、と良心に言い聞かせながら頭をフル回転させる。
『ガーロンド、は、ずっと前にいました。ここも、前にいた所なんです。ぼんやりしていて、間違えました。知らない間に、森にいたのは本当ですが、その前は旅をしていました』
自分で言っていて、どんなうっかりさんだよ、とつっこみをいれたくなってしまう。
『君のような女の子が一人で?なぜそんな危険なことを』
そうか、危険なのか。しまった。
『いえ、はじめは二人でした。でも途中で、彼が、私を置いて他の女の人のところに行ってしまって……!』
うつむいて拳を握り震えてみせる。実際は恋愛経験自体ないが。
『……君はいくつだ?』
顔を上げた先の相手は、あっけにとられた表情をしている。
『十九です』
正直に答えると驚きの声があがった。背後のリーヴさんも控えめながら驚いている気配がする。
『そうか、すまない。エリカより少し上だと思っていた』
そこまで若くみられたのは初めてだ。ちょっと複雑。
『気にしないでください』
だが話の真偽を疑うより、年齢に対する驚きが大きいようだ。思わぬところで童顔が役に立った。
『辛いことを聞いてしまったな。……どこまで行こうとしていたのか聞いても?』
質問が遠慮がちだ。これはいけるかもしれない。
『サザランドへ。でも、彼と一緒じゃなきゃ、意味がありません。一緒に行こうねって言ったのに!いっそあのまま森へいればよかった』
伏し目がちのまま机上の地図を盗み見て、震える声で手前にあったなんとか読める地名を挙げる。もし発音が変なら方言のせいだと思ってくれるといいのだが。
『そんなことを言わずに。つまらない男のことで自分を苦しめるのはやめなさい。君は可愛くて気立てもいいし、もっといい男があらわれるよ。なあ、リーヴ』
『はい、大変お綺麗です』
やや焦ったように機嫌をとるスタンフォード卿と、とっさに話を振られて相槌を打つリーヴさん。二人ともさっきまで私のことをこどもだと思っていたくせに、と思うとおかしくなって笑ってしまった。それを見た二人がほっとした顔をする。
なんだか自分がとんでもない悪女になったような気がして、居心地が悪い。
『そういえば、私が持っていた荷物はどうなったんでしょうか?』
自然に聞えるようさらりと言ってみた。あの中にはまだ電池の切れていない懐中電灯が入っている。
『ああそうだった、預かっているよ。服はガードナー夫人が洗濯させると言っていた。……は壊れているのだな。少し時間はかかるが、……に出せばなおるかもしれない。こちらで預かっていていいだろうか?その他のものは明日君の部屋まで運ばせよう』
壊れているといったら時計か。レトロな雰囲気が気に入って買ったねじ巻き式のものなので、何なのかわかるなら調べられても特に問題はないだろう。
『はい、ありがとうございます。……これぐらいの大きさの、金属でできた棒はありませんでしたか?』
特に言及がないということはもしかして。
『あったな。中にも金属の塊が入っていたが、あれはどういったものだ?』
生まれかけた淡い期待は数秒でしぼんでしまった。やっぱりね。でも分解までしておいて点灯しなかったのだろうか。
『あれは……逃げた彼に、私を捨てたことを、いつか拳で後悔させてやろうと思って。すき間に砂を入れると、もっと重くなります』
ダンベルは無理があるにしても、あの重さと形状は充分鈍器として通用しそうだ。やけくそで答えると、スタンフォード卿は引き攣った顔で笑ってそれ以上の追求はしてこなかった。
お茶を淹れましょう、とリーヴさんが続き部屋へ消え、沈黙が通り過ぎた。
『スタンフォード卿、これを、エリカからもらったのですが』
胸元でショールを留めていたブローチを外し差し出す。
『見覚えがあると思った。あの子の母親が持っていたものだ』
やっぱり。
『大切なものではないかと、思ったのです。私がここを出て行った後、あなたから、返してもらえませんか』
形見のような大切なもの、私が持っていていいはずがない。
『それはできない』
思いがけずきっぱりと言い切られた。
『母親が亡き今、エリカは仮とはいえこの家の女主人だ。自分の言動には責任を取らなくてはならないし、私もよほどのことでないかぎり彼女の意思を大切にしている』
それに、とスタンフォード卿は語調を和らげて続ける。
『世話になったからだけでなく、エリカは君のことがたいそう好きなようだ。そうは見えないかもしれないが、あの子は我慢強くて人前で強い感情を見せることはあまりないし、我侭も言わない。ナギに接する様子を見て驚いたよ。そのブローチはエリカなりの精一杯の気持ちなのだろう。大切にしてやってほしい』
エリカが健気で我慢強いのは知っている。持っていてほしいと言った必死な表情と、受け取ったときに見せた笑顔が脳裏に浮かんだ。
『わかりました。大切にします』
真っ直ぐな好意に、偽りでしかこたえられない自分が嫌になるけれど。
カモミールが入っているのか、林檎のような甘い香りがする熱いお茶をすすると、いつのまにか冷えていた体が温まった。淹れてくれたリーヴさんはお茶を出すと自分は飲まずに控えている。
私は勧める立場にないが、職務上飲食できないのだろうかと気にしていると、こちらを見ていたスタンフォード卿から声がかかった。
『ナギ』
なんだろう。
『家族がいないと言ったな。旅の目的がなくなったとも』
『……はい』
半分は嘘だけど。
『ここにいなさい』
『え?』
『エリカには友人が必要だし、君もエリカを好いてくれているだろう?』
でも。この場はこんな作り話で収まっても、長く滞在すれば必ずぼろが出てくるだろう。
『私は素性がはっきりしていませんし、まだお話していないことも、言えないこともあります』
何よりこの人たちに対して嘘をつき続けなければならないのが心苦しかった。
『言ったはずだ。覚えていないのか?』
スタンフォード卿は形の良い眉を片方器用にあげてみせた。何か言われただろうか。
『‘素性がどうあれ、どういう事情を抱えているにせよ、君に対する信用が揺らぐことはない’と。無理に全てを打ち明ける必要はないよ』
『……ありがとうございます』
いっそそっけないまでの簡潔さで語られる言葉に、喉が詰まり瞼が熱くなる。そんな私の顔を見ずにスタンフォード卿は懐から鎖時計を取り出し、もうこんな時間かと呟いた。
『もう遅い、部屋に戻りなさい。リーヴに送らせよう』
柔らかく、しかし有無を言わせぬ口調で言われソファーから立ち上がる。
『ありがとうございました。おやすみなさい』
言い尽くせない感謝と口に出せない謝罪を織り交ぜて、深く深く頭を下げ部屋から出た。
渡り廊下の格子窓から空を見上げれば、月は既に夜の端に宿り、黒から藍へのグラデーションの中に溶けゆこうとしている。
カンテラを持つリーヴさんと歩きながら、さりげなく問いかけてみた。
『前に住んでいた所では、月には兎がいると言われていました。ここではどうですか?』
それまで黙っていたリーヴさんの静かな足音が一瞬途切れ、すぐに繋がる。
『月に兎ですか。面白いですね。このあたりでは、……だと言われています』
知らない言葉だった。
『それは、何ですか?』
『ああ、ご存じないですか。体の上半分が人間の女性、下半分が魚という』
人魚か。この世界ではまさか実在する?
『もちろん、実際には存在しない、伝説上のものです』
私の疑問を読み取ったのだろうか。本当に気の回る人だ。
お聞きになりたいですか、という穏やかな声に甘えて頷いた。
『遥か昔、人々が空や海を魚や鳥のように泳げた頃。……や……を進め陸地から遠く遠く離れると、どこからともなく美しい歌声が聴こえることがあったそうです。その歌声に誘われて近づくと、次第に……になり二度と陸へは帰れなくなるとか。危ういところで生き延びて帰ってきた者は、皆こう語りました。‘空に浮かぶ月や、穏やかな水に浮かぶ月が、あまりに美しく明るい夜に歌が聴こえたら、目を塞げ、耳を塞げ。例え命があったとしても、月面に映る美しい人魚の姿と歌声が心に焼き付いて消えず、月を見るたびに涙が止まらなくなるのだ’と』
歩くうちに向かいの棟につく。カンテラの灯りが映る窓の向こうに続く丘は、夜の海に沈んでいた。
『本当に、空の月まで行ったのですか』
空気のない世界に。
私の問にリーヴさんは、困ったように首を傾げる。
『どうでしょうね。でも、私は地面と繋がっている方が好きです』
『私もです』
顔を見合わせて、どちらからともなく微笑んだ。
この世界で根を下ろし、地に足をつけて生きていけるだろうか。
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