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かざなぎの記  作者: 藤原ゆかり
異文化見聞録
20/29

『ナギ、ナギ!』



 私の肩をゆするエリカの声で、飛びかけていた意識を取り戻す。

 危ない、なんとか気を失わずにすんだ。お姫様じゃあるまいし気絶なんて一度すれば充分だ。



 頭の片隅で覚悟はしていたのだ。



 テーブルの向こう側にいたスタンフォード卿とリーヴさんも、心配そうにこちらを覗き込んでいる。

『顔色が悪い。熱が収まったばかりなのに無理を言ったのが悪かったな。リーヴ』

『はい』

 リーヴさんは屈んでいた背を伸ばして一礼すると、静かに扉を開けて足早に部屋を出て行く。微かに何かを言いつける声が聞こえた。名前を呼ばれただけで指示がわかるなんて。まさに阿吽の呼吸というやつだ。


 スタンフォード卿は地図を巻き戻し、私の手から羽根ペンを取りあげる。



 ああ、まだ持ったままだったのか。


 紙の上ではインクのシミが広がり、JAPANの文字が半ば消えかけていた。



『ナギ、続きはまたにしよう。……に部屋を用意させるから、今は休みなさい。』

『でも』

『焦る気持ちはわかるが、無理をしてはいけないよ』

 父親の言葉にエリカも真剣に頷いている。

 二人のその表情が驚くほどよく似ていた。やはりエリカは父親似だ。


『ご家族も心配しているだろうから、字がわかるなら後で……を書くといい。寝ながら……を考えておきなさい』



 幼いこどもに言い聞かせるような口調。私が幾つに見えているんだろう、と少しおかしくなった。



『いえ、家族はいません』

 私の言葉に、視界の端でなぜかエリカが泣きそうな顔をしている。


『そうか……。では、ここを家だと思ってゆっくり眠ると良い』

 大きな手が伸びてきてそっと頭に置かれた。なんと。この年にして本日二回目だ。


 感慨に浸っていると、静かな足音とやや重量感のある足音が連れ立ってきて止まり、扉が開かれる。

 振り返るとリーヴさんの後ろに、たった今思い描いていたマギーさんが立っていた。


『まだ静かにしていたほうが良いと申し上げましたのに』


 非難が含まれた口調に思わず首をすくめる。


『すまない、ガードナー夫人』

 驚くべきことにお叱りはスタンフォード卿に向いているようだ。

 遠慮のない物言いを咎めることはせず簡潔に謝って苦笑した彼は、私と同様首をすくめて軽く両手をあげている。


『まったくですわ』

 どっしりした腰に今にも両手を当てそうな様子で立っているマギーさんと、もの静かにたたずむどちらかといえば小柄なリーヴさんの遠近感がおかしく見えて、思わず目を擦った手をマギーさんに掴まれた。

『ああ、こんなに冷たい手をして。早くいらっしゃい』


 そのまま半ば引きずられるようにしてエリカとマギーさんについて行きかけ、扉を出る寸前で慌てて振り返る。


『スタンフォード卿、ニホン……ジャパンというところ、知っていますか』


 インクが滲んだ紙をためつすがめつしていた彼はしばし考えた後、首を横に振った。

『いや。この地図には載っていないのかもしれないな。……に聞いてみよう。』



 知っている人はいないだろう。そんな予感がした。



『ありがとうございます。おやすみなさい』


 頭を下げた私に、スタンフォード卿は藍色の目を少し見開いた。そんなところまで本当にエリカとそっくりだ。


『……ああ、おやすみ』


 その温かな笑みも。




 再び目が覚めた部屋に連れて行かれるのだろうと思っていたら、渡り廊下を通った後、今度は逆に右手の通路を進み別の部屋に通された。


 広さや部屋のつくりこそほぼ同じだったが、雰囲気が随分と違う。



 なんというか、ファンシー?



 シンプルといった言葉がぴったりだった先ほどの部屋に比べ、ごてごてはしていないものの明らかに装飾に気合が入っているのが感じられる。


 入り口から入ってすぐのソファーやテーブルにはざっくりとしたレース編みの布がかけられ、その脇の壁には草花が描かれた額が掛かっている。書き物机の上には可愛らしい置物や表紙の美しい本。鏡台の木枠には蔓薔薇のレリーフが施され、その前には綺麗な色の瓶が数本並ぶ。ピンクベージュのカーテンがかかった窓の向こうには、渡り廊下から見えた庭園が広がっていた。


 いかにも少女が好みそうな空間だ。

 私の背を押すように部屋に入ったエリカを振り返ると、期待を込めた目でこちらを見ている。


『この部屋、エリカが用意したの?』


 少なくともマギーさんの趣味ではなさそうだ。


『ええ。ナギが眠っている間に急いで用意したの。気に入ってもらえるといいのだけれど』


 痛んだ畳張りのアパートの部屋とは全然方向性が違うが、この手の少女趣味は嫌いじゃない。何より居心地よく過ごしてもらいたいという彼女の気持ちが、部屋の随所から伝わってきてこそばゆいほどだ。


『すごく、いい。嬉しい、ありがとう』

 ボキャブラリーが少ないのがもどかしいが、感謝の気持ちは通じたようだ。緊張気味だったエリカの顔が柔らかくなった。


『さあ、さあ。おしゃべりはそのくらいにして横になってくださいな』

 会話が一段落したところでマギーさんが促す。その言葉にエリカも使命感を思い出したようで、表情を引き締めた。

『そうよ、ナギ。まだ調子がよくないんだもの』


 二人がかりで心配され、大人しくベッドへ向かう。

 小鳥のモチーフがちりばめられた衝立の向こうにあるベッドには、見る角度によって細かい模様が浮かび上がる淡い緑色のカバーがかかっており、同系色の紗の天蓋で覆われていた。これがピンク系だったらもろお姫様ベッドになるところだった。羞恥心と葛藤しながら眠る事態を避けられたことに、密かに胸を撫で下ろした。

 ベッドサイドのドイリーが敷かれたテーブルには薄紅色のランプと、ここにもラベンダーが挿された花瓶。安眠できるようにとの心遣いだろう。


 服を脱ぐのに少し手間取っていると、あれよあれよというまにマギーさんに脱がされてしまった。シンプルなワンピース型の寝巻きを着ながら、こうやって意識がない間に着替えさせられたんだろうなぁと遠い目をする。


 カーテンを閉めて衝立をひき回し、天蓋を下ろすとマギーさんは静かに寝ているようにと言い渡して部屋から出て行った。エリカはというと、薄布を透かして、鏡台から椅子を引きずってきて枕元に据え、腰掛ける様子が窺える。


『エリカ?』

『眠るまでここにいるわ。森の中でナギがそうしてくれて、嬉しかったから』

『……ありがとう』


 眠気は全くといっていいほど無かったが、真剣な面持ちで座っているエリカの言葉が嬉しくて素直にお礼を言った。


 目を閉じて口をつぐみ、意識して徐々に深い呼吸に持っていく。

 昔幼いこども達を寝かしつけるとき使った、必殺狸寝入り。完全に無反応だとバレるので、しつこく話しかけられてもくすぐられても、本当に眠りかけているかのように時折むにゃむにゃと返すのがコツだ。

 自分も本当に寝てしまうこともあるのがリスキーだが、今日は雑念がありすぎるのに加え散々眠った後なので心配ない。


『ナギ?』

 反応を確かめるようにエリカが囁く。


「ん……」

 ごく小さく鼻を鳴らして身じろぎした後、深く息を吐いて黙り込んだ。

 しばらくして薄目を開けると、エリカがそうっと立ち上がり、忍び足で去っていくのが見える。





 ドアノブがゆっくり回る微かな音が響いたのを確かめ、私はぱっちりと目を開けた。



 物音を立てないように気をつけながら、混乱する頭を抱えて広いベッドの上をごろごろ転がり悶える。



 どうしようどうしようどうしよう。

 というか、どうなってるの?



 まずここは、日本ではない。

 なぜならば言葉が違う、人が違う。そして、この屋敷の住人が嘘をついているとは思えなかった。


 だったら、ここはどこ?


 スタンフォード卿は地図を見てナノーグ国と言っていただろうか。そんな国、聞いたことがない。

 大陸の中の小さな国や南海の小さな島国ならば私の知らない国もあるだろうし、日本語と現地語で呼び方が全然違う国もたくさん存在するが、あの地図のような規模の島国を全く知らないということは考えがたい。これでも地理は得意だったのだ。

 それとも、国というのは聞き違いで、どこかの国の一地方か?文化的にはヨーロッパ風だけど、この屋敷内しか見ていないのではっきりとはわからない。



 そもそも私はどうやってここに来たか。問題はそこに集約する気がする。



 人間が風で飛ばされて日本列島から外に出るなんてやっぱりありえない。戦時中は日本から気流に無人の風船爆弾を乗せてアメリカまで飛ばしたそうだが、それは気球の浮力があってこそできたことだ。

 じゃあどうやって?


 思考は堂々巡りを繰り返す。


 あの日は風、雨、雷が凄かった。風力、水力、電力か……

 自然災害って本当にエネルギーの氾濫だよなぁ。


 現実逃避しかけた頭の片隅で、何かが引っかかった。



 エネルギー?



 思い浮かぶのは、微妙に古い映画のワンシーン。

 爆発したような髪型に瓶底眼鏡をかけた白衣の老人が円盤状の台の上に立っている。突如銃声が響き、扉をこじ開けて突入しようとする特殊部隊。そんな彼らを尻目に狂ったように高笑いをしながら、音を立てて巨大なスロットルレバーを下ろす老科学者。次の瞬間装置の上下を結んで筒状に青白い電流が行き交い……ようやく扉が開き、機関銃の弾幕が静まった後には未だ僅かに電流の名残が光る壊れた無人の装置だけが残される……


 今まで観た中で五本の指に入る駄作だったが、それは置いておいて。


 雷のエネルギーによる瞬間移動。これだ!



「はぁ――」



 今までの人生で一番長いため息をついた。思考が徹夜明け並みにぶっとんでいる。

 私は完全文系人間だが、文系理系取り混ぜた百人にアリかナシか真剣に聞いても、九割九分の人がナシというだろう。残りの一人はUFOとか呼んじゃうような人だ。おそらく。

 風で飛ばされた説と大差ない。




「ああ、そうだった」



 意識的に考えないようにしていたが、たぶんこの世界のどこにも日本はないのだ。


 なぜかはわからないが、頭の奥ではすんなりとそれで納得している自分がいた。だったら風で飛ぼうが雷だろうが原因はどちらでも同じことだ。むしろ外国に飛んだというより、異世界に飛んだというほうが現実的にさえ思えた。UFOに興味はないが、それに近い属性の人格が潜んでいたのかもしれない。



「だったら」



 心配する家族がいるじゃなし。迷惑をかける職場があるじゃなし。財産もこれといってないし、借金もない。図書館の本も返してある。



「もうそれでいいや」



 だがこのままではここの人にとって、私は実在しない国に帰りたいと主張する厄介な居候だ。

 スタンフォード卿には、記憶が曖昧で勘違いをしたと謝ろう。

 そして一人で生きていけるように、この国のもろもろについて学ぼう。


 私は明日から、優しい人たちをあざむいて、過去を持たないナギになる。




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