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『失礼しました……』
恐縮して小さくなる私にスタンフォード卿は苦笑する。
『気にすることはない』
微妙に気の抜けた雰囲気になった後、ところで、とスタンフォード卿が姿勢を正した。自然と私も背筋が伸びる。
『ナギも森から抜ける道を探していたと聞いたのだが。あなたはどういった……であそこに?詳しく話してもらえれば力になれるかもしれない』
本題が来た。
『それが、自分でもよくわからないのですが、気がついたら森に居たんです』
そうとしか言いようがない。
『気がついたら?記憶を失くしたのか?それとも、あなたも何者かにさらわれたということか』
訝しげだ。もどかしくてたまらない。どうやって説明すればいいんだろう。
『いえ、なんと言えばいいか。一月半ほど前、雨と風、がすごく強い日で。家の外に出たら、カミナ……空がこう、ゴロゴロピシャーン、と光って、足元が崩れた、と思ったら気を失っていたんです。目が覚めたら、森でした。周りの土、乾いていて、私だけ濡れていたので、そんなに時間、経っていなかったと思います』
必死の説明にも関わらず、部屋の隅に静かに控えているリーヴさんも含めて全員訳がわからないといった顔をしている。会話が不自由なせいもあるだろうが、もし完全に通じても大差ないだろう。なにしろ私自身が理解できないから。
『では、大風で飛ばされたということ?そんな不思議な話は初めて聞いたわ。よく助かったわね』
目を丸くしてエリカが言う。
『アメリカで、昔似たような話があったって、聞いたことあるけど。本当にそうかどうかはわからないけど、森も出たことだし、早く家に帰らないと』
『アメリカ?』
エリカはきょとんとしている。そんなに意外だっただろうか。私なんてアメリカなら何が起こってもおかしくない気がするが。
しばらく黙っていたスタンフォード卿が口を開いた。
『確かに、その頃急に空が光った日があったな。それで、家はどこに?この辺りでは行方知れずになった者がいるという知らせは届いていないのだが』
えーっと、英語の住所表記は逆さまに言うんだったな。
『チュウオウチョウ、エヌシ、エイチケンから来ました』
ことさらにはっきりと区切って口にした。
『聞かない……だな。リーヴ、聞き覚えは?』
『いいえ、恥ずかしながらございません』
胸騒ぎがする。
聞き取れなかっただろうか。それともうちの県はそんなにマイナーだったのか。紙に書いたほうが伝わりやすいかな。エリカとの森での交流で、意味を理解できないまでも文字はアルファベットとよく似ているのは確認済みだ。
「えーっと……」
私が机にペンを動かす仕草をしていると、気づいたリーヴさんが素早くテーブルの上を片付け、書き物机から筆記用具を持ってきてくれた。
羽根ペンなんて実物を見たのは初めてだ。
『ありがとうございます』
リーヴさんにお礼を言ってインク壺に浸したペン先を紙に下ろすが、妙に厚ぼったい紙に引っかかってうまくすべらない。いたずらにインクのシミを作りながら文字を綴る横で、スタンフォード卿とリーヴさんが会話をしている。
『失礼ですが、この方はあまり言葉が……でないご様子。ここまではっきりした……も珍しいですが、……から離れた……辺りの方ではないでしょうか』
『そうか、そこまで遠いと言葉も随分変わってくるからな。……を持ってきてくれ』
『はい』
本棚の方に向かったリーヴさんが長い筒状に丸めた紙を持って帰ってくる。テーブルの空いたスペースに広げ端を文鎮で抑えたそれは大型の地図のようだ。
確かに地図を見て指差したほうが早いと覗き込んだ私は固まった。
ペン先で、念のためJAPANまで書いたNの字が滲んで原型を失くしてゆく。
『エリカ』
震える声ですがるように呼ぶと、同じく地図を覗き込んでいたエリカがこちらを見て声をあげた。
『どうしたの、ナギ』
その声が遠い場所から響いているような感覚がする。
『これは……、ここは、どこ?』
アルファベットに似た文字で街や川の情報が記された地図。街を表す点と点の間は線で繋がれている。
そのどの道を目で辿っても、大きな街を表すだろう二重丸の点を追っても、知っている街の名前はおろか漢字を当てはめることができる地名さえ見当たらなかった。
そして何より。無数の街や道、川、山を有す、見慣れぬ形の土地のぐるりは濃淡の青で描かれた海に囲まれている。海岸線は細かく波打ち、この地図が精密なものであると無言で告げていた。
『スタンフォードはここよ』
エリカが手の先で示したのは地図の東方、密度が低い点の中の一つ。
『そうじゃなくて、この絵は?』
こんなことが
『ああ、地図を見たことがなかったのか?これが』
スタンフォード卿が得心した風に続ける。
こんなことが
『このナノーグ国の姿だ』
現実にあるはずがないのに――
ここにきて主人公初めて確信しました。遅すぎですね。