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書き遅れましたが、残酷描写の注意書きをつけました。今更ですがご報告まで。
身支度が整い、ミルク粥のようなものを少しいただいた後、部屋の外へと促された。エリカの父であるこの屋敷の主が面会を希望しているという。
あれこれと手間取ってすっかり待たせてしまったのではないだろうか。恐縮する私にエリカは、目が覚めたという知らせを聞いて部屋まで来ようとする父を止めて、身支度を済ませ落ち着いてから私を連れて行くと言い置いたので問題ないと説明した。
先導するマギーさんの後ろについて板張りの廊下を歩く。私が居た部屋の向かいの並びにはドアが一切なく、白く塗られた壁のところどころに設けられている窓から日光の帯が投げかけられていた。
視界の端をやや高い位置で流れる窓を、通り過ぎながらちらちらと横目で眺める。目を引いたのは高く澄み渡る青空にちぎれ雲。対して地面はというと、森の風景に慣れた目には最初何もないように映った。うっそうと茂って視界を遮る木々はほとんどなく、僅かな起伏を繰り返す枯れ草色の地面が延々と続いている。丘を縫うように細い川が横たわり、よくよく目を凝らすと僅かな木々が点在するそばにミニチュアのような家々と畑らしき土地がぽつりぽつりとあった。丘の上に向かって白い家畜らしき群れを追っている人の姿もある。その光景は、いつかテレビの紀行番組で見たイギリスの荒野にどこかしら似ていた。
幾度となく胸をよぎった不安がまた顔を覗かせる。見慣れない土地、人々、言葉。これらが意味するものは?
『こちらです』
マギーさんが通路を右手に折れる。行き過ぎそうになり慌てて後に続いた。方向を変えた拍子に、磨きあげられた廊下を柔らかい皮のショートブーツがきゅっと鳴らす。ちらっと見えた別の通路には階段への入り口があった。
今進んでいる通路は渡り廊下になっているようで左右に扉はない。ガラスではなく蔦を模した格子が嵌まっている右手の窓からは先程の中庭が見える。見下ろした高さから考えてここは二階なのだろう。左手側も同じく中庭になっているようだが、畑のようだった右手の庭とは違い、立体的に構成されたのがわかる華やかな造りだった。
廊下の内壁には等間隔でランプが据えられている。今は点火されていないが、芯の上端はきちんと切り揃えられホヤもよく磨きこまれているのにも関わらず日常的に用いられていることが覗えた。背面を覗いたが電気コードの類は一切見つからない。
『どうしたの?』
無邪気に尋ねるエリカに曖昧に微笑んで答えを濁す。
案外ここは北海道のどこかで、スタンフォードというのも動物王国的なテーマパーク名かもしれないじゃないか。我ながら全く信憑性のない仮説を立てて無理やり気を紛らわすことにした。
例えあとわずかで破られる安穏だとしても。
渡り廊下が終わり、突き当りを左に進む。閉まったドアが左手に幾つか並ぶのを通り過ぎ、行き止まりに程近い一室の前で立ち止まった。マギーさんが扉の横に掛けられている金具を握り控えめに四回打ちつけると、室内からはっきりとした男性の声で応えがある。次いで開錠音がして内側から扉が開いた。エリカが繋いでくれた手を大丈夫、というように一旦強く握り返して放し、マギーさんを残して二人で室内に入る。
書斎らしく壁面の一つが大きな本棚になっており、奥には頑丈そうな木の書き物机が据えられていた。部屋自体の広さは私が寝ていた部屋と同程度だったが、左右に続き部屋らしき扉がある。
窓に向かって立っていた男性がこちらに振り返る。やはり、あの日エリカと抱き合っていたこの人が彼女の父親だったのか。深い茶色の髪と顎鬚に藍色の目をしている。肖像画の女性は金髪に灰色の目をしていたので、どうやらエリカは父親似のようだ。
男性は腕を広げてこちらに近づいてくると私の手を両手で握った。
『娘を助けてくれてありがとう』
力強い手とこちらを真っ直ぐに見据える眼差し、威厳がにじみ出る姿に呑まれてしまいそうだ。
『お父様、こちらがお話したナギよ。ナギ、こちらが私の父、キアン・リムリス』
エリカが私の背に手を添えて紹介してくれる。
『はじめまして、ナギコ・キヨハラと申します。ナギと呼んでください』
さっき歩きながら何度か練習した自己紹介をなんとか淀みなく口にする。
この言語は英語とは異なるものの、文法が似ている。単語の中にも英語と近いものもあり、ある程度慣れれば会話を組み立てることができた。タイムマシンがあったら、英文学の翻訳家になるのが密かな夢だった中学時代の自分の肩を、その努力は無駄ではなかったと叩いてやりたい。こんなところに繋がってくるのだから人生わからないものである。英語と似ていても中には用法が異なったり真逆の意味だったりする単語もあるので注意が必要だが、女性名詞とか男性名詞とかややこしいものがないだけまだましだ。
『では、ナギと呼ばせてもらおう』
リムリス氏は破顔して私達を応接スペースに導きソファーを勧めると、自らも向かいに腰掛ける。
『リーヴ』
『はい』
先程扉を開けてくれた男性が心得たように盆を手にして現れ、テーブルに磁器の茶碗と焼き菓子、サンドイッチなどの皿を手際よく並べた。
流れるような所作に思わず見とれてしまう。五十代後半と思しき男性はきれいな白色をした頭髪を撫でつけ、リムリス氏のものよりやや裾の短い衿の詰まった地味な色の上着をきっちりと身につけている。ショールを纏っていないので、そこだけ鮮やかな布帯の刺繍がよく見えた。目は黒くどこかアジア風の顔立ちをしている。
『起きたばかりのところを、急に呼びつけて申し訳なかった。お腹が空いているだろう。遠慮なくどうぞ』
リムリス氏は簡潔な言葉を選んで私に勧めると、エリカにも促してお茶やお菓子を口にする。私が食べやすいようにとの気遣いだろう。
先程食べたミルク粥で目覚めた胃が思い出したように猛烈な空腹を訴え、お言葉に甘えて目の前の皿に盛られた小ぶりのサンドイッチに手を伸ばした。一口かじると、舌の付け根からじゅわっと唾液が湧き出てくる。やや酸味のある固めのパンに白いチーズと塩気のあるハム、野菜がたっぷり挟まれたサンドイッチが、身震いするほど美味しい。思えば遭難してから肉を一切食べていなかった。
噛み締めながら無言で身悶えていると、エリカが横から焼き菓子を差し出してくれる。マドレーヌのようなそれを二つに割ると、甘い香りと卵色の断面が食欲をそそった。頬張るとふわふわした食感と甘みが口いっぱいに広がる。とても美味しいが粗食に慣れた舌には甘い。とにかく甘い。流し込もうとすすった熱いお茶は薫り高く、湯気で視界が滲んだ。
半泣きになりながら食べる私、せっせとお菓子やパンを勧めるエリカ、素晴らしいタイミングでお茶を注ぐリーヴさん、それを眺めるリムリス氏という奇妙な図がしばし続いた後、沈黙が訪れた。なおも注がれようとしたお茶を丁重にお断りし、頭を下げる。
『ありがとうございました。……食事も……素性が知れない私を助けてもらったことも。それと、勘違いしてしまって、ごめんなさい。私が……刺した人は、無事ですか』
一瞬あっけにとられたような顔をした後、リムリス氏が口を開く。
『礼を言うのも、謝るべきなのもこちらのほうだ。エリカが顔をよく知らない者を先に行かせたのが悪かった。血気にはやった若者が先走るのは考えてしかるべきだったのに。ナギ、あなたは刃を向けられたことなど、ましてや人に向けたことなどなかったのだろう?エリカから色々と話を聞かせてもらった。その話と、出会って間もないエリカを身を挺して守ろうとしてくれたことから、親である私があなたを信用するのは当然だ。素性がどうあれ、どういう事情を抱えているにせよ、その信用が揺らぐことはないよ』
ゆっくりと語られる言葉は温かい。涙腺が緩みそうになるのを必死で堪えた。
『ナギ、私も同じよ。もっと早く父の手の者だと気づけていたら、あなたにあんな思いをさせずに済んだのに。本当に申し訳なく思っているし、いくら感謝してもし足りないわ。森の中であなたに助けられた時どんなに心強かったか。今度は私があなたを助けたいの。私にできることならなんでも言ってちょうだい』
あれは私の自己満足なのだ。エリカが罪悪感を抱くことはない、と言いたかったが言葉にならなかった。
『心配しなくてもあの男はぴんぴんしているよ。もともととても丈夫な質なのだ。彼らこそあなたに謝りたいとしきりに言っている。エリカを思ってしたことだが、責任は雇い主である私にある。充分反省させるのでどうか許してやってくれないだろうか。』
そう言ってリムリス氏が立ち上がり頭を下げるので慌てた。必死で言葉を搾り出す。
『あやしい者を……警戒するのは当たり前ですし、私が先に刃を向けたのですから。仕事に……真面目、なのです。私の首、少し血が出ただけですが、私は、あの人の、お腹を刺してしまった』
手に伝わってきた肉を裂く感触を思い出し慄然とする。青ざめる私の背をエリカが黙って抱きしめてくれた。
『……すまない。あなたの言葉を聞いて彼らも救われるだろう。落ち着いたらぜひ会ってやってくれないか。無事な姿を見れば気に病むことはないとわかるはずだ』
リムリス氏の言葉に頷く。ぜひ。顔を見て謝らないと気が済まない。
『森にいたとき、ナギと一緒にご飯を食べて仲良くなれたから、お父様とも打ち解けられるかと思ってお茶を用意してみたのだけど、どうだったかしら?』
沈んだ空気を打ち消すようにエリカが茶目っ気たっぷりに言う。なんていい子なんだ。
『ばっちり。仲良くなりましたよね、えっと……ミスター・リムリス?』
私も冗談めかして言ったつもりが、一瞬ぴきっと空気が固まった。え、何かまずい事言った?
一番固まっていたのは背後のリーヴさんだったが、いち早く石化を解いてリムリス氏の側に回りこむ。素晴らしい職業精神だ。
『お茶をもう一杯いかがですか、ミ・ロード?』
私の失言をフォローするかのように、何事もなかった風にティーポットを掲げる。
『……ああ、貰おうか。ありがとう』
それに応じて口元に持ち上げたままだった茶碗をソーサーに下ろすリムリス氏。
『リーヴ、私にもちょうだいな』
エリカまで。
ミ・ロード。閣下って……貴族だったのか!紹介のついでに言ってくれ!
『ナギ、仲良くなったことだし、キアンと名で呼んでくれてもいいんだぞ。なんならお父様でも』
平静さを取り戻し、お茶を飲みながらばちんとウインクするリムリス氏もといロード・スタンフォード。
閣下、その気遣いが痛いです。
作中の貴族等にまつわる敬称その他は一応イギリスのものをモデルにしていますが、大層いいかげんですのでご了承下さい。どうしても許せん!という方のつっこみや、その他感想、ご指摘もお待ちしております。