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かざなぎの記  作者: 藤原ゆかり
遭難日記
14/29

12

グロテスクな描写を含みます。たいしたことはないかもしれませんが、苦手な方やお食事前後の方はご注意下さい。

 赤や黄色の葉が静かに舞い落ちる森を行く。


 地面には枯葉が積もっており、エリカの足跡を辿るのは容易ではなかった。

 数日前まではぬかるんでいたであろう今は固く乾いた土に残る指の跡や、荊に絡んだ数本の長い髪の毛、枯れ枝に引っかかる鮮やかな赤い糸、それにエリカが微かに覚えている特長的な岩や地形などを手がかりにし、慎重に獣道を進む。


 私の後ろを転ばないよう俯きがちに歩くエリカは、口数が少ない。

『足、疲れた?』

 と訊くと、ふるふると首を振って否定する。

 病み上がりなのだ、無理をさせてはいけない。向き直って目を合わせ、無言でどうしたのか問う。

 エリカは少し躊躇うようにした後、小さく何事か言った。ひどく怯えているようだ。

『怖い?』

 たぶんこの意味で合っているだろうと身震いのジェスチェーをしながら繰り返すと、肯定が返ってきた。

『何、怖い?』

 私がそう尋ねると、エリカは幾つかの単語を並べた。私が理解していないのがわかったのだろう、身振りを交えながら繰り返す。

 両手を掲げて指を鉤状にし、喉を反らして吠えるような動作。


 はっとした。彼女の身振りから察するに、私が幸運にも遭遇しなかっただけでこの森には凶暴な獣がいるのか。

『エリカ、見た、これ、ここで?』

 と、私も獣の真似をしながら恐る恐る訊いてみる。できることなら否定してほしい。

 私の願いも虚しく、答えは是だった。


 なんということだろう。こんな丸腰の状態で獣と鉢合わせしたら、こちらに勝ち目はない。

 思わず引き返したくなったが、ここで戻っても状況に変わりはないことを考え思い直した。

 新たな事実を知った今、これまで以上に一日も早く森を抜けなければならない。

 武器になりそうなものなど黒曜石の小さな欠片しか持っておらず、うつほに戻ってもそれは同じだ。松明を持とうにも、それこそ獣でも仕留めないことには大量の油など手に入れようがない。ならばこのまま手がかりが残っているうちに、少しでも情報を集めたほうが生き残る確立が高まるのではないだろうか。

 せめてもの気休めに、目についた太めの枝の先端を削り携える。

 いざとなったらこれで威嚇して注意をひきつけ、僅かなりとも隙を作ってエリカを逃そう。

 仕方ない、遭遇したらそれまでだ。


 歩き続けて窪地に出ると、何かを見つけたのかエリカが枯葉の吹き溜まりに駆け寄る。膝をついた彼女の前に皮でできた靴の片方らしきものがあった。

 ここしばらく手がかりらしい手がかりがなく不安だったが、確かに彼女はここを通ったのだ。傍らの地面には張り出した木の根が顔を出している。私の視線を辿ったエリカは、

『ここで転んだの』

 と呟く。その両手は、先程拾った靴をきつく握りしめている。

『わかる?どっち、来たか』

 私の問いかけに彼女は少し考えた後、迷いなくある方角を指差した。


 エリカの示した方向に進み、小さな流れを越えてしばらくすると、違和感を感じた。

 腐葉土の嗅ぎ慣れた湿った匂いに混じり、微かにおかしな臭いがするのだ。

 足を進めるにつれてそれはますます濃くなっていった。

 ここに来てから絶えて嗅ぐことのなかったゴミ捨て場のような臭い。それも夏場に放置された生ゴミの汁が日に照らされたような腐臭だ。

 脳がこれ以上近づくな、と警告音を発する。


 後ろから上着の裾を引っぱられ足を止める。

『行っちゃだめ』

 エリカは真っ青な顔をしてがたがたと震えていた。足がすくんで動けないようだ。

 目を閉じて耳を澄ませ、辺りの気配を確かめる。大きな生き物は近くにいない。エリカの手を優しく外し、努めて笑いかける。

『ここで、待ってて』

 背後でエリカが何事かかすれた声で叫ぶのを耳にしながら、目の前の斜面を登る。

 この先にあるものを、私は多分知っている。それでも大きな手がかりを見逃すわけにはいかなかった。


 小さな斜面を登りきり、少し下った先にその光景はあった。


 酸っぱいものが胃から込み上げてくる。

 季節柄羽虫がたかっていることはなかったが、肉食の小動物に食い荒らされたのだろう、骨が露出した断面が群がる蛆や昆虫によって細かく波打っているのを間近で見ると、覚悟していたことながら我慢できなかった。

 屍骸から顔を背けて地面に嘔吐しながら考えていたのは、場違いにも食べたものがもったいないということだった。あんなに苦労して食糧を集めたのに。


 胃液しか出なくなるまで吐いてから、何とか気をとりなおして正視する。

 横たわっている屍骸は二体。一体は人間、もう一体は獣だった。

 変色した血が大量にこびりついたぼろぼろの獣の毛皮は、かつて灰色であったらしい。体長は大人の背丈ほどで、血に染まった口元からは鋭い牙が覗いているのが判別できた。

 その姿は、かつて小学校の遠足で見た狼に酷似している。しかしニホンオオカミはとっくに絶滅したはずだ。これはやはり大型の野犬なのだろう。

 もう死んでいるとはいえ、背筋が寒くなった。犬、特に野犬は私が唯一大嫌いな動物なのだ。

 次に、うつ伏せで半ば獣の下敷きになっている男を検分する。こちらの死因は明らかだった。背後から圧し掛かった牙が半ば首筋に埋まっている。手には血脂に曇った大振りなナイフを握ったままだ。

 この状況を鑑みるに、とどめを刺したと油断した男が背を向けたところ、最後の力を振り絞った野犬に背後から襲われたというところだろうか。

 彼が何者かは不明だが、エリカと関わりがあることは間違いない。


 えずきながら大柄な男を獣の下から苦労して引っ張り出し、仰向けにする。下敷きになっていたことで胸から下の損傷は比較的少ないようだ。

 とりあえず手を合わせてから懐を探ると、口を縛った皮袋が幾つか出てきた。一番大きな袋には、ビーフジャーキーのような干し肉とシリアルバーを圧縮したような固い食品が入っている。問題なく食べられそうな状態だ。他の袋の中身は、金属の小さな板と石、小さな壺に入った固形の脂らしきもの、くすんだ金色のブローチなど。

 携帯電話や地図を持っていないかと全身を調べたが、それらはおろか財布すらなかった。

 それにしても、変な格好をしている。血と泥に汚れて定かではないが、男は粗いホームスパンのような毛織のズボンを穿き、同じような生地のやけにざっくりとしたカットの裾が長い上着を着ていた。腰にはエリカのものほどには繊細でないにせよ、刺繍の入った布帯を巻いている。

 私は流行にうといが、こんな格好をしている人を見たことがない。

 エリカを除いて。


 そうだ、エリカのところに戻らなくては。


 追いはぎのようで申し訳ないが、死者に荷物は必要ない。男の手からナイフを引き抜き、布袋を一つにまとめて手にする。枯葉なりとも上からかけて埋葬するべきだろうかと考えていると、斜面のすぐ向こうで声がした。

 駆け上がり、顔を覗かせようとしているエリカの頭を抱え込んで視界を塞ぐ。こどもが見るべきものではない。

 小さく抗うエリカを半ば持ち上げるようにしながら、屍骸が見えない場所まで連れて行った。

 エリカはまだ戻ろうともがいている。私は抜き身のナイフを持ったままなので、危ないことこの上ない。

 ナイフを一緒に持っていた皮袋もろとも地面に投げだした拍子に、袋の中身が散らばった。木漏れ日に金のブローチが光る。

 腕の中のエリカが急に大人しくなり、吸い寄せられるようにブローチを手にした。震える手で留め金をはずす。内部はロケットになっていたらしく、人物の絵らしきものが見えた。

 そのままブローチを胸に押し当ててすすり泣いていた彼女は、しばらくして涙を拭いながら

『ごめんなさい』

 と謝った。


 ブローチについて訊くべきかどうか迷ったが、今は触れないことにした。

 エリカ本人が話してくれるまで待とう。

 それよりも日が落ちかけてきたことが気になる。懐中電灯は一応持ってきているが、夜行性の動物が活動を始める前にねぐらに戻りたい。


『あれ、知ってる人?』

 私は屍骸のある方角を指して尋ねる。

 エリカの表情は複雑だった。一緒に来たが知らない人だと言っているようだ。

 身内ではなかったのか。

 辿ってきた足取りの手がかりも途絶えており、この地点までどの方角から来たのかということもわからなかった。どうやら目隠しをした状態で連れてこられたらしい。

 ということは、もしかしなくても誘拐!?

 訊きたいことは山ほどあったが、やはりここでも言葉の壁が邪魔をする。


 遠くで獣の鳴き声がして、二人同時にびくっとした。

 今日のところは出直して、また明日探索を続けよう。

 帰り道は道しるべをこまめにつけていたので、小一時間ほどで戻ることができた。


 その晩食事の後、焚き火にあたりながら改めて事情を訊き出す。


 目隠しをされ連れてこられたので、今日の屍骸発見現場までの道のりはわからないこと。

 獣に襲われて誘拐犯と二人乗りしていた乗り物から振り落とされたこと。

 拘束が緩んだすきに無我夢中で逃げてきたこと。

 誘拐された理由は本人もよくわからないこと。


 これだけのことを認識するのに多大な時間と労力を要し、エリカと私はぐったりしていた。

 理解力がなくてごめん。


 件のブローチは今、ストールの留め具としてエリカの胸元で光っている。

 彼女は不安をなだめるようにそれを固く握りしめていた。

 私の目線に気がついたのだろう、大切なものを扱う手つきでブローチを外し、そっとこちらに差し出す。

『見ても、いいの?』

 彼女が首肯するのを確かめてから、繊細な彫金がなされたロケットの蓋を慎重に開いた。

 昼間ちらっと見えた女性の肖像画は、こちらを見て包み込むような笑みを浮かべている。

 絶世の美人というわけではないが、片手に納まるほどの小さな絵ながら内面の美しさがよく描きだされている。

 髪や瞳の色こそ違ったが顔立ちにエリカと似通ったところがあり、血縁関係があるのは明らかだった。


 そういえば、エリカは父親の話はしたが母親については触れなかった。

 目顔で問うと、彼女は肖像画に目を向けたまま言葉を発した。

 多分、母という意味だ。

『お父さんと、オカアサンの、こども、エリカ?』

 ブローチの隣に手で人型を描き、次いで肖像画を指差し、二点を結びつけるように辿って最後にエリカを指差す。

 切なげな微笑がその答えだった。

 おそらく彼女の母は既に鬼籍の人なのだろう。


 ほんの数日共にいただけだが、エリカは年齢にそぐわず驚くほど健気で我慢強い。

 その微笑を見て、何とはなしにその理由の一端を知った気がした。

『お母さん、きれい。エリカ、きれい。よく似ている』

 ブローチを返しながらの私の言葉に頬を染めてはにかむしぐさは、ごく普通の幼い少女のものだ。


 この笑顔を守りたい。


 熾火に浮かび上がるエリカの寝顔を眺めながら、私は決意を新たにした。

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