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『秋夜行』

作者: 小川敦人

『秋夜行』


古びたマンションを出でて、

静岡駅へと続く国道へ。

一号線を渡りケヤキ通りを行けば、

水落の交差点、そして北街道。

市民文化会館への小径が現れて、

闇に浮かぶエントランスが待っている。


足腰の衰えを虚空蔵山で知り、

歩くことを決めて一週間。

腿上げを意識して、今宵も歩む。


夜風よ、頬を撫でて行け。

見えない手のように、そっと心を慰めよ。

街灯の光の円を踏みしめて、

足音は静寂に小さく響く。

いつもの道筋に、今宵は深い安らぎが宿る。


文化会館が夜闇に浮かんで、

記憶の扉が静かに開かれる。


二年前の九月、初秋の風、

菜緒子さんと『Cats』を観たあの夜。

人生の黄昏時に訪れた、

思いがけない贈り物のような夜。


胸の鼓動、今も覚えている。

菜緒子さんに観劇を誘った時の、

清楚な佇まいの彼女への想い。

六十を過ぎた男が、まるで少年のように、

心躍らせる自分が可笑しく、切なく。


「あら、素敵ね。ぜひお願いします」


受話器の向こうから届いた声に、

胸の奥で何かが花開いて、

安堵と喜びが静かに心を満たす。

ああ、人はこの歳になっても、

こんなふうに心が躍るものか。


夜道を歩きながら反芻する、

あの時の心境を。

妻・三津子を亡くして十五年、

長く閉ざしていた心の扉を、

菜緒子さんがそっと蘇らせてくれた。

春の訪れに気づいた樹木のように、

静かに新しい季節を迎えて。


コンビニの看板が小さな光を投げかける、

現代という時代の象徴に、

私の心はむしろ温かい。


観劇当日の菜緒子さんの装い、

鮮やかに思い浮かぶ。

特別なものと考えてくれた夜に、

心に小さな感動が宿った。


「初めてなの、ミュージカル」


パンフレットをめくる横顔を、

私は舞台よりも見つめていた。

驚き、感動、喜び、

水彩画のように彼女の顔に、

淡い色を添えていく。


自動販売機の青白い光が、

夜の静寂を際立たせる。

あの夜の幕間にも、

菜緒子さんはアイスティー、私は麦茶。

些細な選択の一つ一つが、

今は大切な記憶の断片。


ミストフェリーズに目輝かせ、

グリザベラの「Memory」に耳澄ませた菜緒子さん。

豊かな感性に心打たれて、

年月を重ねても人は、

こんなふうに純粋に感動できるのか。


菜緒子さんと過ごすひととき、

砂時計の砂が音もなく落ちるように、

時の流れを忘れさせてくれる。

彼女の存在そのものが、

穏やかな時間の贈り物。


「ミュージカルという新しい世界を見た」


終演後の言葉は詩のように美しく、

私が新しい扉を開いて差し上げたなら、

それは人生の晩年の、ささやかな誇り。


民家の窓から漏れる暖かな光、

日常という名の小さな幸福が、

積み重ねられているのだろう。

私にも三津子とそんな時間があり、

今、菜緒子さんとの友情という、

新しい形の幸福を知った。


駐車場での出来事も、

心の宝箱に大切に仕舞われている。


「あれ、どこに停めたかしら」


困ったような表情、きょろきょろと見回す仕草。


「いつも、そうなの。駐車場所がわからなくなるの」


愛らしい諦めの込められた声が、

私の心を温かく包んだ。

人の小さな欠点や弱さが、

こんなふうに愛おしく感じられるとは。


「あった!」


車を見つけた時の笑顔は、

まるで少女のよう。

年齢を重ねた女性の中に、

時折垣間見える無邪気さ。

それは人生の美しい矛盾。


公園のベンチが街灯の光に佇み、

昼間は子供たちの笑い声で賑やかな場所も、

今は深い静寂に包まれている。

でも寂寥感はなく、

むしろ心に安らぎを与えてくれる。


家に帰って受け取ったme-meからのメッセージ、

今思えば運命的な出来事。

三津子の親友が偶然、

あの夜の私たちを目撃していたなんて。


「幸せになっていいんだよ。三津子もきっとそう思ってるわ」


me-meの言葉は深く響いて、

罪悪感という重いマントを、

脱ぎ捨てることを許してくれた。

三津子への愛と、菜緒子さんへの友情、

それは決して相反するものではないと。


それから関係は深まって、

時々のランチ、コメダ珈琲の午後。

先日見た彼女の若い頃の写真は、

太陽のような眩い美しさだったが、

今の彼女には歳月が刻んだ深い魅力がある。


友人として人生の時間を共有する尊さを、

心の底から感じている。

人生の晩秋に巡り合った思いがけない友情、

それは夕陽のような穏やかで美しい光を、

私の心に投げかけてくれている。


文化会館の前で立ち止まり、

もう一度建物を見上げる。

二年前と変わらぬ佇まいだが、

私の心には確実に変化が刻まれて、

あの夜から始まった新しい物語が、

今も静かに続いている。


小さな花屋のシャッターの向こうで、

色とりどりの花たちが明日を待つ。

菜緒子さんは花を愛でる人だろうか。

次にお会いした時に尋ねてみたい。


腿上げを意識して夜道をゆく、

健康であることの有り難さを知り、

いつまでも元気で、

また菜緒子さんと文化会館の座席に。

そんな小さな願いを胸に抱いて。


夜空を仰げば、

街の灯火に遮られて星は見えないが、

きっとあの向こうで三津子が微笑んでいる。

「今日も一日、ありがとう」と、

心の中で静かに手を合わせる。


街の灯りが点々と続く夜道に、

私の足跡がゆっくりと刻まれる。

一歩一歩が人生という名の長い物語の続きを紡いで、

そんな想いを抱きながら、

今宵も私は静かに歩み続ける。

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