第20話 片耳の無い獣人幼女
第一章を書き終えたのが約一年前、第二章を書き始めたのがつい数日前なので、この回から多少文章の癖が変わっております。
ご了承ください。
意識が浮上すると同時に、頬を切るような風が突き刺さってきた。肌寒さは本物。
勘違いじゃなければ――いや、どう考えても私は空中にいる。
けれどその実感を振り払って、私は何よりも先に、手を首元へと伸ばしていた。
……傷は、ない。
当たり前だ。
目が覚めても、ぎゅうぎゅうに体を抱きしめてくるエメアの姿も、耳元をくすぐる寝息もない。
そのことが、今は少しだけ――寂しい。
「……駄目ですね、これ」
こうなったのは私が不甲斐なかったから。受け入れなきゃいけないのに。
思考が渦を巻くのを止めようと、私は瞼を押し上げる。
見えたのは濃く透き通った青と、遠ざかっていく雲の白。
すぐに視線を下へ向ける。
地平線が膨らんでいくように、ぐんぐんと近づいてきていた。
「やっぱり……」
目が覚めたら、なぜか空に投げ出されていた。
意味が分からないし、心の底から理解できない。
だけど問題はない。
高度からして、着地までおよそ――二分。
魔術を使えば、どうとでもなる。
それならば……
しばらく――愛、という概念について考えてみるのも良いかもしれない。
こんな別れ方をしてしまった上、今の今までエメアに対して、まともな愛情表現をしてこなかったし。
それ以前にどう接すれば良いか分からない。
『ねぇ、一つだけ残念なお知らせがあるの。聞いて』
思考を巡らせようとしている中、どこからともなく声が聞こえてきた。
「確かゼレシアさんでしたよね? 今は大事な事を考えているので邪魔しないでください」
確かこの人は、私の魂に居座っているんだったか。
つまり体の中から話しかけられているという事になる。
そう考えるとやっぱり少し気味が悪い。
『……はぁ。言いたい事は腐るほどあるけど、大事な事だからすぐに言うね』
「仕方ないですね。一つだけ聞いておきます」
『アイラ、あなたの能力は――もう使用不可だよ』
何を馬鹿な事をなどとは言い返さず、すぐに体に力を入れて確認した。
本当に……使えない。
それどころか、魔力を上手く体内で回すことが出来ない。
今すぐ自分で出せる憶測だと…………これはおそらく、肉体を変えた弊害だと思う。
なんでこの事に気が付かなかった――なんて嘆くのは流石に傲慢がすぎるか……
普通は気づけるわけない。
「これってまずいですよね……」
『別に命の危機ってほどでもないけど、これまで通りの便利な生活は送れないかな』
「まず何で私が空から落ちてるんですか!おかしいですよこれ!!」
思った以上に状況が酷かった……!
愛について云々の悩みごとに頭を回している余裕なんて無い。
このままだとまた死んでしまう!
『自由落下の原因について答えてあげても良いけど、その前に地面とセカンドキスする事になりそうだよね』
セカンドキス?
ファーストキスもした事が無いのにセカンドとは……?
いや、こんな事を考えている場合じゃない。
「そうですね!その通りです!分かってるなら早く解決策を教えてください!!」
『簡単な話だよ。体全体に魔力を循環させて衝撃に備える』
…………?
この状況でよくもまあ、そんな嘘を平然と。
肉体を変えた直後で、まともに魔力の制御もできないのに。
そんなので助かるわけない。
『なに、不満?』
「当たり前です!その嘘で対応策を取れる時間が消えていくんですよ?!」
『だったら大人しく空を飛びなよ――でも、出来ないよね?」
「でき……ないみたいですね……」
『でしょ。分かったら全力で回せるだけ回して。死んじゃうよ?』
……え?
まさか、本当にこれしか手段が無い……?
『ちょうど下は滝みたい。良かったね』
「地面も滝も似たようなものです!!」
『妾の見立てでは激突まであと25秒。残りのフライト、精一杯楽しんで』
視界がどんどん鮮明になっていく。
白銀の大地、岩肌、揺れる草、点在する木々――そのすべてが、距離を失って迫ってくる。
脳が震える。
あと数秒ですべてがゼロになると。
逃げ場は無い。
覚悟を決めるしかない。
とにかく生き残れ。
三度目の死は絶対に回避するんだ、私。
ゼレシアさんが涼しい顔してるからって、安心していい理由にはならない。
けれど――
「いやだああああああああああああああああああ!!!!!!」
――白い大地が視界を満たし、世界が弾けた。
全身に鈍く重たい衝撃。音も痛みも、一瞬で消え失せた。
最後に見えたのは、どこまでも青い空と、その中に浮かぶ、白い雲。
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――ドン、と何かに叩きつけられた。
まず最初に鈍い衝撃と、肺が縮んで空気が押し出される感覚。
それが全身に伝わったと思った瞬間、私の身体は滝壺へと吸い込まれていった。
頭の中がグラつく。
だが、死んではいない。
それどころか水流に巻かれながら、妙に落ち着いている自分がいた。
一番の危機を脱したからだろうか。
「……う〜ん」
それにしても自由落下のせいもあって、非常に身体が重い。
というか、手足が言うことを聞かない。さっきまで以上に。
肉体を変えてから、まだろくに動き方を把握していないせいだろうけど。
「なんでこう次から次へと……これじゃあ陸に上がることも出来ませんよ。魔術が使えないってだけじゃなかったんですか?」
『妾達の魂の繋がりがまだ安定してないの。もう少し時間が経つか、あなたがこの体に慣れないと歩く事もできないでしょうね」
「はぁ……」
川の水は容赦なく流れ、私の身体を巻き込んでいく。
足先に岩がぶつかり、泥が脇腹を撫でる。
それでも私の体は止まらない。
顔を水面に浮かせるのがやっとだ。
雪の影、岩の裂け目、流木の影――すべてを通り過ぎていく。
「……なんだかんだ、一番危ないところを抜けたので余裕がありますね」
溜息混じりの独り言が、川に溶けていく。
このまま一度眠るのも、それはそれで穏やかでいいかも――
なんて考えかけたときだった。
――誰かが、見ている。
水の音、風の中、それでも確かに“視線”を感じた。
顔を上げる。
川岸に小さな影が立っていた。
子どもだ。
背は低く、種族は人間ではない。
腰には尻尾、首には布を巻いている。
そして何より――片耳が、なかった。
左の頭は平らで、髪の中に傷の線が一本。
右の耳だけが、ピクリと揺れていた。
何も口にせず無表情。
けれど、確かにこちらをじっと見ている。
『あの子は……』
「エメア……じゃないみたいですが、つくづく私は獣人に縁があるようですね」
少女は雪を踏み、音もなく川辺へ降りてきた。
そして迷わず水へ。
冷たい水に足を沈め、胸元まで濡らしながら、少女はまっすぐこちらへ向かってくる。
細い体で流れに足を取られず、まるで水に慣れているようだった。
そして、その手が私に触れた。
しっかりとした手である。
私の腕を抱くようにして、引き寄せ……
水の勢いと体重を使い、少女は私を岸へ運んでいく。
「……ありがとうございます」
声をかけてみたが、返事はない。
ただ、耳が小さく揺れた。
岩に足が触れ、水の中で膝をつく。
そして、引きずられるように泥と雪の岸へと放り出された。
顔を上げると――濡れた衣のままの少女が、じっと私を見下ろしていた。
「…………あんた名前、なに」
「え?」
本人は何の反応も見せず、私の言葉をじっと待っている。
子供の扱いにはそこそこ自信があるつもりだったけど――これは……苦手なタイプだ。
孤児院で一緒にいた子達はみんな元気で、騒がしくて、感情が顔に出るタイプばかりだった。
この子は……まるで水底に沈んだ石のように静かで、何を考えているのかまるで読めない。
「なまえ」
「失礼しました。私の名前はアイラです」
その瞬間――少女は、わずかに眉を動かした。
気のせいだろうか。
ほんの少しだけ失望したような、そんな空気が流れた気がした。
だけど私はそれを気にせず問い返す。
「助けて頂いた身で申し訳ないんですけど、私も貴女の名前が知りたいな……と」
寝転んだまま、できる限り丁寧に。
上からではなく、あくまで下から。
こちらの姿勢を見せることで、彼女の機嫌を損ねないよう、細心の注意を払った。
状況はあの時とかなり違うが、私がこの世界に転生した頃と同じで、今回もまともに体を動かすことができない。
やはりここは、人の手を借りておきたいところだと私は考える。
「……ヴュステ」
「ヴュステさん……良い名前ですね。その助けて頂い――」
礼を言い切る前に、少女――ヴュステは踵を返し、音もなく歩き出した。
「あっ!ちょっと待ってください!」
「…………?」
彼女は『これ以上何か用があるのか?』と言うような顔で振り向く。
「すみません! 本当に厚かましいお願いだとは分かってるんですが……! しばらく、数日だけでいいので、私の面倒を見てくれませんか!?」
ここで置いてかれるのはどう考えてもまずい。
1人になったところを獣に狙われるのがオチだ。
……この人形の体?を狙う生物がいるのかは甚だ疑問だが、リスクは少ないに越したことはない。
「なんで?溺れてるところ助けたんだし、その先はあんただけでどうにかしてよ」
「私は今、わけあってまともに歩けないんです。恩はきっちり返すのでどうかお願いします!!」
ヴュステは少し考えるような仕草をとった。
そして……
「私の家、ぼろぼろ……」
「全然問題無いですね」
「食べ物、ない」
「それも大丈…………」
いや、どうなんだろう。
中で引き篭もってるうちの神様は、この身体が成長しないと言っていたが、食事が必要ある無しは分からない……
そんな疑問を抱いた直後だった。
腹の奥――いや、魂の底から、ぼやけた声が響く。
『引き篭もってるわけじゃなくて、あなたの魂を繋ぎ止める役割を担ってるんだけど、そこ、ちゃんと理解して』
内側から響くその声に、私は自然と腹の方へ目を向けて答えた。
「それは別にどうでも良いんですが、私って食事する必要あるんですか?」
『ある。その体は殆ど人間に近づけてあるけど、原動力は魔力だから、魔力濃度の高い土地にでも住まない限り、何か食べてエネルギーを補給するしかないでしょうね』
「便利なのか不便なのか、だいぶ微妙なラインですね。これ」
とりあえず食事は必要らしいのは分かった。
呆れ交じりに呟きながら顔を上げると――
ヴュステが、明らかに引きつった顔でこちらを見ていた。
「一人で何を話してるの?怖いんだけど。やっぱり置いて行っていい?」
「あー、待ってください……違うんです。私の中に棲んでいる神様とお話していてですね……」
「……もっと怖くなった。あんたみたいな人を他に見たことあるけど、みんなおかしい人ばかり」
「私は正常な人間だと思いますよ……?」
そう言うと、彼女は小さく首を横に振った。
「存在しない人を崇めてるのって本当に気持ち悪い」
う〜ん……
正直彼女の言葉は間違ってない。
外から見れば、私は空に向かってぶつぶつ喋ってる怪しい人間にしか見えないだろう。
『アレ……言わなかったっけ? 念じるだけでも妾に声が届くんだから、わざわざ口を開く必要は無いって』
『それ、聞いてないんですけど……』
ならば、問題は解決したようなものだ。
次から声を出さなければ、1人で話している変人とは思われない。
この一点に尽きる。
「すみません。話は戻るんですが、食事はやっぱり必要みたいです」
少しでも軌道修正を図るため、声を整えて告げた。
だがヴュステの目はまだ警戒の色を宿していた。
しかも、あからさまに嫌そうな顔で呟く。
「…………あんたを家に入れるの、嫌なんだけど」
「料理は私がするので、それで手を打ちませんか?」
そう言葉を返すと、少し間を置いてヴュステは腕を組み、唇を噛んで――
「……分かった。なら、アイラが美味しいごはんを作れるかどうかで決める」
願ったり叶ったりな条件だ。
これで私の命は保証されたも同然。
「決まりですね。ではこれからよろしくお願いします」
「ん」
それだけ言うと、ヴュステはあっさり私の元へと歩み寄り、ぐい、と私の首根っこを掴んだ。
「えぇ……」
次の瞬間、気づけば雪の上を引きずられていた。
抱きかかえるでもなく、せめて服の裾を掴むわけでもなく、まるで濡れた獣の死骸でも引き取ってやるかのような扱いで。
……首を掴まれてようやく気づいたけど、そういえば今の私は何故か裸なんだった。
元の体は消滅しているらしいから、当然なのかもしれないけど、流石に服くらい欲しいものだ。
後で彼女に借りるか、そこら辺に転がってる適当な物で繕うとしよう。
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そうして暫くの間、ヴュステのあばら家にお邪魔する事になった。




