008 報告
教会とか聖堂とか現実世界だとちょっと宗派によって呼び方が違うかもしれないけど、作中はファンタジーなので大目に見てください。
ザリオが帰還した翌日。
朝の祈りの時刻。
清めの鐘が三度鳴らされ、香炉の煙が白百合のように立ち上る。
シュトラーの大聖堂、その主祭壇の前で、若き司祭ユーノは静かに祈りを捧げていた。年若くとも整った立ち振る舞いと穏やかな声色で人々の信頼を集める青年である。彼の背筋は真っ直ぐに伸び、手は胸の前でしっかりと組まれている。祈りの言葉は声に出さずとも、深く、丁寧に心の内で響いていた。
彼はこの街の中流階級の家に生まれた。母は織物職人で、父は商人。特に裕福というわけではないが、不自由なく、愛情に満ちた家庭で育った。日々の暮らしの中で、ナスレスクへの信仰は欠かさなかった。朝は感謝の祈りを、夜は無事の礼を、両親は欠かさず捧げていた。
そんな家庭に育ったユーノにとって、信仰はごく自然なものであり、人生の道標でもあった。そして十歳のとき、神聖国から派遣された老司教トゥルパンとの出会いが、彼の生き方を決定づけた。
トゥルパンは、年老いてなお聡明で、厳しさと優しさを併せ持つ人物だった。語りの力、祈りの重さ、神の御業の深さを、少年だったユーノに粘り強く教えてくれた。彼はユーノに言った。
「語りは力だ。同時に祈りは導きでもある。迷ったとき、声にならない祈りほど、神に近いものはない」
それ以来、ユーノは聖職者への道を歩み始めた。修道院で学び、司祭として任命されてからも、大聖堂での日々は決して退屈することなく、彼にとって生きる糧であり続けていた。
だが、その平穏な日々に、ざわめきが忍び寄っていた。
それは、ザリオと名乗る若い紡遣者が森から逃れ、瀕死の姿で衛兵に担がれてシュトラーに帰還したことから始まった。
北の森で"エルフ"と交戦した──そんな報せが、教会の奥深くへ届けられた。
神託を受けていたトゥルパンと、その内容を知らされたわずかな司祭たち、そして福音騎士、衛兵隊の幹部のみが知る、重大な事実。
だが、それを知る者たちの中でも、混乱は避けられなかった。
「本当に……エルフが?」
教会の小さな会議室。ユーノは蒼白な面持ちで、震える手を抑えながら問いかけた。トゥルパンは目を閉じ、重々しく頷く。
「神託は、語った。『語りを宿す影』が森に現れると……帰還した紡遣者の証言は、それを裏付けるものとなる」
「では……やはり、ただの噂ではなかった……」
「彼は、生き延びた。その事実が、我々に次の一歩を示している」
だが、すべてを公にするわけにはいかなかった。人々の恐怖を煽り、街に混乱を招くわけにはいかない。
ユーノはそのことを理解していた。
だが、教会内部でも、ざわめきは広がり始めていた。
「“影”って、本当にエルフなんですか……?」
「でも、もし本当に“語りを宿す影”がエルフなら……我々はどう対応すれば……」
若い司祭たちは不安を押し殺しきれず、廊下の陰や書庫の隅でささやき合った。ユーノは、そんな声を耳にするたび、胸の奥が締めつけられる思いだった。
それだけでなく、衛兵たちの間でも、噂が囁かれ始めていた。
「あの紡遣者、本当に“エルフ”を見たのか?」
「いや、あの怯え方は、作り物じゃない……」
「でも、もし本当にエルフがいたなら……今ごろ街に来てるはずだろう?」
「いや、逆に言えば、もう入り込んでるかもしれないぞ……」
「この前の夜警のとき、北門の方で何かが動いたって話、聞いたか?」
「馬鹿言え、あれはただの風さ……って言い聞かせてるけどな……」
信じたい者、信じられない者。ざわめきは、静かに、だが確実に人々の心に広がっていた。
ユーノはある朝、大聖堂の祭壇前にて老女と言葉を交わした。
「息子が、行商で街を出ておりましてね。今日も、無事に帰ってこられるよう、祈っております」
老女は柔らかな笑みをたたえていたが、その瞳の奥には微かな不安が見えていた。
ユーノはにこやかに頷きながら、老女の手にそっと手を添える。
「必ず、神の御加護がありますよ。ナスレスクの語りは、離れていても、常にあなたと共にあります」
その言葉に、老女は深く頭を下げた。
だが、ユーノの心の奥には、微かに波立つものがあった。
ユーノは深夜、大聖堂の灯の下で独り祈りを捧げながら、思った。
(なぜ、トゥルパン様は……この神託の全てを語ってくださらないのか)
信頼していた。敬愛していた。だが、今、自分は蚊帳の外にいる。
不安と、自身の力不足への苛立ちが胸を満たす。だがそれでも、ユーノは決して祈りを手放さない。
その夜、教会の別棟にある小聖堂では、数人の司祭が密やかに集まり、小声で語り合っていた。
「このまま伏せておいて、本当に大丈夫なのですか……」
「民の混乱を避けるためとはいえ、私たちの間でも情報が限られすぎています……」
「福音騎士たちも、なにか動いているようだが……詳しいことは何一つ明かされていない」
ユーノは、扉の外からそれを聞いていた。だが踏み込むことはしなかった。ただ祈りの言葉を口にして、足音を忍ばせ、その場を離れた。
祭壇に灯る黄金の火を見つめながら、ユーノはそっと呟いた。
「主よ……どうか、我らの物語に、あなたの声を……」
夜は静かに更けていく。