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007 遁走

──それは、ほとんど錯乱と呼べるほどの疾走だった。


枝を掻き分け、泥濘を蹴り、棘に顔を裂かれながらも、ザリオはただひたすら前へと進んだ。足元の石に躓き、何度も転倒し、膝や掌から血を滴らせ、それでも止まることなど一度として考えなかった。


脳裏に焼き付いたのは、仲間の断末魔。そして、あの黒い怪物──“エルフ”の異形の姿。


「た、たどり着かないと……っ、シュトラーに……っ」


喉は潰れ、呼吸はひび割れた硝子のように乱れ、視界は涙と汗と恐怖で滲み切っていた。


──だが、ただの本能だけではなかった。彼の身体には、まだ“技術”が残っていた。どう逃げるか。どう隠れるか。どう足音を殺すか。どう息を潜めるか。


一度、倒れ込むようにして身を伏せたザリオは、呼吸を整え、手に取った土を掌で強く擦り合わせた。荒く湿った土の匂いを確かめ、まるで祈るような仕草で、自分の腕や首筋、顔にそれを塗りつける。

皮膚に沁みる土の冷たさ。鼻を刺すような匂い。しかしそれが、あの“エルフ”の感覚から自分を守る唯一の盾だと信じていた。


土にまみれ、匂いを隠し、葉の陰に体を押し込める。身を低くし、息を潜めながら、ただ音もなく這うように進む。

それは、かつて彼が故郷アッシドの町で出会った、ある男に教わった技術だった。



その男は、斥候として生きる紡遣者だった。寡黙で、無駄を嫌い、派手な武勲や誉れとは無縁の存在だった。名声も求めず、ただ任務に忠実で、次の依頼へと淡々と身を投じる日々を繰り返すような男だった。


「お前に一流の才はねえ」


初めてそう言われたとき、ザリオは驚きもせず、悔しくもなかった。ただ、その言葉が妙にしっくりと胸に落ちたのを覚えている。


「でもな。二流どころとしては十分だ。器用だし、覚えも悪くない。要領がいいし、基礎も丁寧にこなせる。……大成はしないが、潰れない奴だ」


褒め言葉に聞こえなかった。だが、その評価はむしろザリオにとって、真っ直ぐな救いだった。


自分のことは、よくわかっていた。何事にも最初の飲み込みは早い。だが、伸び悩む。あと一歩が、どうしても届かない。努力をしても、限界の壁にぶつかるのが早い。いわゆる“器用貧乏”。

それでも、その男は静かに告げてくれた。


「一番長く生き残るのは、そういう奴なんだ。目立つ奴は先に死ぬ。大器は燃え尽きる。器用貧乏ってのは、ある意味、生き残る才能だ」


それを聞いたとき、ザリオは初めて、自分の在り方に価値を見出した。

やがて、彼は地元アッシドで知り合った悪ガキたちとパーティを組んだ。


──アッシドの風。


誰が言い出したのかも思い出せない。だが、その名前は妙に肌に馴染んでいた。

無鉄砲で、無計画で、口が悪くて、でもどこか憎めない連中だった。馬鹿なこともした。無茶もした。けれど、生きて笑って、無事に帰ることだけは守り続けた。


任務も多くこなし、失敗も経験した。逃げたこともあるし、命からがら這って帰ったこともあった。それでも彼らとなら、何度でもやり直せると思っていた。

だからこそ、今だけは──死ねないと思った。


「まだ……俺は、死ねねぇんだよ……あいつらのためにも……」



森は、無貌魔たちの気配で満ちていた。風も音も、異様な気配に濁されていた。


だが、ザリオは斥候としてのあらゆる技術を動員し、風下を選び、匂いの流れを読み、太陽の傾きから時間を測り、足音を草木に吸わせながら歩を進めた。葉の揺れ方、鳥の警戒音、土の感触、すべてが道標だった。


生き残ること。それだけに集中した。


何度も足が止まりそうになった。体力は限界だった。意識は霞み、胃の中は空で、口の中は乾いてひび割れていた。


それでも、彼の心だけは折れなかった。

長い道のりを経て──ついに、彼は見た。

灰色の石で築かれた、あの高い城壁。天を衝くような、マグナ王国最北の都市──シュトラーの姿を。


「……たどり、着いた……」


ザリオは膝を折り、地に伏した。その手は泥にまみれ、傷だらけだった。

倒れ込んだ彼に、城門の見張りに立っていた衛兵が気づき、駆け寄った。


「おい、しっかりしろ! おい、誰か来てくれ!」


仲間の衛兵たちが集まり、ザリオの身体を抱え上げる。


「このままじゃ……衛兵長のところへ運べ!」


男たちは手早く担架を用意し、瀕死のザリオをシュトラー守備隊の詰所へと運び込んだ。



衛兵長室──


そこにいたのは、鎧を脱ぎかけた中年の衛兵長グライス。戦場の臭いを纏うその男は、担ぎ込まれたザリオを見るなり、厳しい声で命じた。


「水を持ってこい! それと、治癒の者を呼べ!」


ザリオはうわ言のように、かすれた声で言った。


「……北の森に……いたんだ……本物の……エルフが……あいつら……やられた……みんな……みんな……」


グライスはその言葉に目を細める。


「エルフ……だと? まさか、噂は本当だったのか……」


ザリオは、震える指を握りしめ、崩れるように顔を両手で覆う。


「でも……でもあいつらは……アッシドの風のみんなは……もう……エルフの餌食になっちまった……」

嗚咽が漏れた。

「すまねえ……すまねえよ、みんな……俺、逃げた……助けられなかった……」


グライスはしばし沈黙し、やがて冷静な口調で言った。


「……お前は報せを持ち帰った。それだけでも、価値がある。だが……つらかったな」


ザリオは何も言わず、ただ肩を震わせ続けていた。


それは、彼の罪と弱さを、唯一肯定する言葉だった。

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