007 遁走
──それは、ほとんど錯乱と呼べるほどの疾走だった。
枝を掻き分け、泥濘を蹴り、棘に顔を裂かれながらも、ザリオはただひたすら前へと進んだ。足元の石に躓き、何度も転倒し、膝や掌から血を滴らせ、それでも止まることなど一度として考えなかった。
脳裏に焼き付いたのは、仲間の断末魔。そして、あの黒い怪物──“エルフ”の異形の姿。
「た、たどり着かないと……っ、シュトラーに……っ」
喉は潰れ、呼吸はひび割れた硝子のように乱れ、視界は涙と汗と恐怖で滲み切っていた。
──だが、ただの本能だけではなかった。彼の身体には、まだ“技術”が残っていた。どう逃げるか。どう隠れるか。どう足音を殺すか。どう息を潜めるか。
一度、倒れ込むようにして身を伏せたザリオは、呼吸を整え、手に取った土を掌で強く擦り合わせた。荒く湿った土の匂いを確かめ、まるで祈るような仕草で、自分の腕や首筋、顔にそれを塗りつける。
皮膚に沁みる土の冷たさ。鼻を刺すような匂い。しかしそれが、あの“エルフ”の感覚から自分を守る唯一の盾だと信じていた。
土にまみれ、匂いを隠し、葉の陰に体を押し込める。身を低くし、息を潜めながら、ただ音もなく這うように進む。
それは、かつて彼が故郷アッシドの町で出会った、ある男に教わった技術だった。
◆
その男は、斥候として生きる紡遣者だった。寡黙で、無駄を嫌い、派手な武勲や誉れとは無縁の存在だった。名声も求めず、ただ任務に忠実で、次の依頼へと淡々と身を投じる日々を繰り返すような男だった。
「お前に一流の才はねえ」
初めてそう言われたとき、ザリオは驚きもせず、悔しくもなかった。ただ、その言葉が妙にしっくりと胸に落ちたのを覚えている。
「でもな。二流どころとしては十分だ。器用だし、覚えも悪くない。要領がいいし、基礎も丁寧にこなせる。……大成はしないが、潰れない奴だ」
褒め言葉に聞こえなかった。だが、その評価はむしろザリオにとって、真っ直ぐな救いだった。
自分のことは、よくわかっていた。何事にも最初の飲み込みは早い。だが、伸び悩む。あと一歩が、どうしても届かない。努力をしても、限界の壁にぶつかるのが早い。いわゆる“器用貧乏”。
それでも、その男は静かに告げてくれた。
「一番長く生き残るのは、そういう奴なんだ。目立つ奴は先に死ぬ。大器は燃え尽きる。器用貧乏ってのは、ある意味、生き残る才能だ」
それを聞いたとき、ザリオは初めて、自分の在り方に価値を見出した。
やがて、彼は地元アッシドで知り合った悪ガキたちとパーティを組んだ。
──アッシドの風。
誰が言い出したのかも思い出せない。だが、その名前は妙に肌に馴染んでいた。
無鉄砲で、無計画で、口が悪くて、でもどこか憎めない連中だった。馬鹿なこともした。無茶もした。けれど、生きて笑って、無事に帰ることだけは守り続けた。
任務も多くこなし、失敗も経験した。逃げたこともあるし、命からがら這って帰ったこともあった。それでも彼らとなら、何度でもやり直せると思っていた。
だからこそ、今だけは──死ねないと思った。
「まだ……俺は、死ねねぇんだよ……あいつらのためにも……」
◆
森は、無貌魔たちの気配で満ちていた。風も音も、異様な気配に濁されていた。
だが、ザリオは斥候としてのあらゆる技術を動員し、風下を選び、匂いの流れを読み、太陽の傾きから時間を測り、足音を草木に吸わせながら歩を進めた。葉の揺れ方、鳥の警戒音、土の感触、すべてが道標だった。
生き残ること。それだけに集中した。
何度も足が止まりそうになった。体力は限界だった。意識は霞み、胃の中は空で、口の中は乾いてひび割れていた。
それでも、彼の心だけは折れなかった。
長い道のりを経て──ついに、彼は見た。
灰色の石で築かれた、あの高い城壁。天を衝くような、マグナ王国最北の都市──シュトラーの姿を。
「……たどり、着いた……」
ザリオは膝を折り、地に伏した。その手は泥にまみれ、傷だらけだった。
倒れ込んだ彼に、城門の見張りに立っていた衛兵が気づき、駆け寄った。
「おい、しっかりしろ! おい、誰か来てくれ!」
仲間の衛兵たちが集まり、ザリオの身体を抱え上げる。
「このままじゃ……衛兵長のところへ運べ!」
男たちは手早く担架を用意し、瀕死のザリオをシュトラー守備隊の詰所へと運び込んだ。
◆
衛兵長室──
そこにいたのは、鎧を脱ぎかけた中年の衛兵長グライス。戦場の臭いを纏うその男は、担ぎ込まれたザリオを見るなり、厳しい声で命じた。
「水を持ってこい! それと、治癒の者を呼べ!」
ザリオはうわ言のように、かすれた声で言った。
「……北の森に……いたんだ……本物の……エルフが……あいつら……やられた……みんな……みんな……」
グライスはその言葉に目を細める。
「エルフ……だと? まさか、噂は本当だったのか……」
ザリオは、震える指を握りしめ、崩れるように顔を両手で覆う。
「でも……でもあいつらは……アッシドの風のみんなは……もう……エルフの餌食になっちまった……」
嗚咽が漏れた。
「すまねえ……すまねえよ、みんな……俺、逃げた……助けられなかった……」
グライスはしばし沈黙し、やがて冷静な口調で言った。
「……お前は報せを持ち帰った。それだけでも、価値がある。だが……つらかったな」
ザリオは何も言わず、ただ肩を震わせ続けていた。
それは、彼の罪と弱さを、唯一肯定する言葉だった。