006 接敵
──竜人族の首が、音もなくねじ切られた。
英雄として街に凱旋し、群衆の喝采を浴びる──そんな妄想に浸っていた矢先だった。
一瞬、誰も何が起きたのかわからず、ただ彼の首から下だけがその場に立ち尽くし、数拍の後に崩れ落ちる。
誰も声を上げられなかった。風の音すらない。
風が止み、枝は揺れず、鳥の声も消えていた。
空気は重く、肌にまとわりつくような冷気が、ひたひたと足元から這い上がってくる。
凪は、しゃがみ込んだまま身動き一つ取れずにいた。
──何かが、来る。
そんな確信だけが、脳髄を冷たく締め付けていた。
遠くで誰かの足音。茂みの揺れる気配。
「……ッ!」
突如、風を裂く音。振り向いた竜人の男が呻き声を上げる間もなく、肩口から深々と何かが突き刺さっていた。
《ッ、くそッ! 構えろ!》
紡遣者たちが叫び、武器を構える。
しかし次の瞬間、別の男が何の前触れもなく倒れ込む。
《どこだ!? 見えねえ──ッ!》
木々の間から放たれる、見えざる矢。意志ある殺意。
そこにあるのは、無貌魔のような本能的な暴力ではない。冷静で、計算され尽くした、“狩り”。
「……あれは……何だ……」
ナギの口から、かすれた声が漏れる。
そしてその目に、ようやく姿を捉えた──“それ”。
全体は煤けたように黒く、だがその体表には、血管にも似た赤い筋が幾重にも浮かび上がっていた。
異様に長く人間に似た腕を持ち、手先は細く鋭く、まるで鋼線のように研ぎ澄まされている。
下半身は蜘蛛のような短い四本の脚で支えられており、不規則な歩法で音もなく地面を滑る。
背中には、竜のなり損ないのような退化した翼──破れ、萎びた皮膜が揺れていた。
その姿は、既知のどの種にも当てはまらない。
凪は伏せる。地面に顔を近づけ、呼吸を殺す。
身を隠す術など知らない。
だが──死ねない。ここで死ぬわけにはいかない。
《ザリオ! 援護しろ!》
《呆けてるんじゃねぇ!こっちに魔法を撃て! 火球でも氷結でもいい、何でもいいから!》
《お前だって斥候の端くれだろうがッ! 戦え、今ここで!》
そう叫ぶ声が飛ぶ。臆病そうな若者──ザリオ。
彼は目を見開き、口をぱくぱくと開閉させながら、後退りした。
「ひっ……あ、ああ……」
喉の奥から嗚咽とも悲鳴ともつかない声が漏れ、次の瞬間、彼の股間から生暖かい液体が染み出した。
濡れた布が脚に張りつき、震える脚がもつれ、彼はその場に尻もちをついた。
腰が抜け、手足は痙攣のように震え、呼吸すら乱れていた。
目は泳ぎ、口はうわごとのように動いていたが、言葉にならない。
彼の脳裏には、目前の恐怖しか存在しなかった。
《チッ……くそ、使えねぇ!》
《あんな奴、もう見捨てて戦え! それよりこっちが死ぬ!》
一人が、エルフの影に向かって短剣を投げる。もう一人が呪文を唱え、魔法の障壁を張る。
しかし、そのどれもが“それ”の動きに追いつかない。
異形の影は、まるで風そのもののように滑り、切り裂き、捕食する。
その中で、ザリオの足はすくみ、腰は上がらず、ただ涙と鼻水で顔を濡らして震えるばかりだった。
(生き延びたい……死にたくない……!
でも……でも、仲間を置いて逃げるなんて……そんなの、卑怯者じゃないか……
……けど、怖い。足が震える。あんなのと戦うなんて無理だ……!
そうだ……神託……神託で言ってた。森に語りを宿す影が現れるって……
それが……コイツだったんだ……!
だったら、俺は……伝えないと……知らせないと……!
そうだ、俺が逃げるのは──使命なんだ……!)
自分の弱さを直視することはできなかった。
だからこそ、ザリオは必死にその行為に意味を見出そうとした。
そうだ、自分はただの臆病者じゃない。生き延びて“使命”を果たすんだ──そう心に何度も言い聞かせながら、這うようにして立ち上がり、よろよろと、やがて必死の形相で森の奥へと逃げ出していく。
その足音が、凪の近くを駆け抜けていく。
(あの方向……)
凪は思う。彼の向かった先には、きっと“外”がある。
(行くしかない。俺も──)
だがそのとき、凪の背後を何かが通った。
音もなく、ただ空気の流れだけが肌を撫でる。
凪は咄嗟に、息を止める。
──その存在は、彼を一瞥し、鼻をスンスンとするような仕草をした後、何もなかったかのように見向きもしなくなった。
まるで最初から、そこに“誰もいなかった”かのように。
(……なぜだ)
もはや視線すら、感じなかった。
他の紡遣者たちは次々に倒れているというのに──自分には、まるで“興味すら示されていない”。
恐怖ではなく、違和感。
身体が冷え切るよりも早く、心に疑問が芽を出した。
(どういうことだ……)
その答えは、まだ誰も知らない。
異形の影が森に消え、静寂が戻る。
凪は、ゆっくりと顔を上げた。
そして、ザリオの走り去った方角へと──一歩を踏み出した。