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027 後悔

――シュトラーの街門


門前で異変が起きたのは、夜半を回った頃だった。

霧が濃く、月も雲に隠れたままの夜。静まり返った外壁の上、塔に詰めていた衛兵が、遠く揺れる影に気づいた。


「……あれ、なんだ?」


目を凝らす。濃霧の切れ間、揺れる松明の明かりに照らされて、不規則な影が四つ。足元はふらついている。武器を持っている者もいたが、全体にどこか異様な気配をまとっていた。


「誰だ!」


門上から鋭く呼ばわる声が響いた。

返答はなかった。

その沈黙が、かえって緊張を高めた。


「弓構えろ。合図があるまで撃つな!」


衛兵たちが弓を引き絞り、警戒を強める。矢尻が音もなく霧に沈み、城門の上から数本の影が張り詰めた線のように狙いを定めていた。


そのとき──


「……こちら、グライス……衛兵長グライスだ……!」

低く、かすれた声が霧の中から届いた。

「ベランも、いる……通してくれ……ッ」


その声に、塔上の衛兵が目を見開いた。

「……あれ、衛兵長じゃねえか!? 門を、門を開けろッ!!」

警戒が、次の瞬間に急変する。


ギィィ……と音を立てて鉄の門がゆっくりと開き、衛兵たちが駆け寄る。

霧の中から現れたのは、泥と血にまみれた男たちだった。

先頭には、左腕に傷を負いながらも剣を杖代わりにして立っているグライス。表情には疲労と痛み、そして苛烈な後悔がにじんでいた。


その隣には、担がれるようにして歩くベラン。左手首から先が失われ、血を吸った布が幾重にも巻かれている。意識はあるようだったが、瞳に光はなく、唇は乾いていた。


「グライス殿……!」

「ベラン殿……っ、しっかりしてください!」


駆け寄る衛兵たちの声は、切羽詰まっていた。


「担架を! 診療所に連絡を! 福音騎士殿にも知らせろ!」


怒号のような命令が飛び交い、松明の影が何本も行き交う。紡遣者たちはその後ろにいたが、誰も気に留める者はいなかった。

この街の盾──その象徴である人が帰ってきた。それだけが、すべてだった。

誰も言葉を交わさないまま、血と霧の中、担架が手早く組まれ、ベランの身体が丁寧にそこへ横たえられた。


グライスは、担架の傍に立ったまま、ふと門の外を振り返った。

何かを確認するように、あるいは──見送りたかった何かを探すように。


その目は、数秒ののちに伏せられた。


「……判断を、誤った……」


ぽつりと、誰にともなくつぶやかれたその声に、誰も返事はできなかった。


ベランの唇がかすかに動いた。


「……守らなければ……街を……」


その呟きは、風に攫われそうなほど細かった。

だが、確かな痛みと、後悔を孕んでいた。


「……馬鹿なことをした……我々は……」


グライスが口を開いた。

口調は淡々としていたが、その奥にあるものは明白だった。


「……出征を急ぎすぎた。……福音騎士の到着を、ただ待っていれば……」


ルディアが、ゆっくりと顔を伏せる。


「……グレズが……まだ、森に……」


その名に、衛兵の誰かが息を呑んだ。

だが、ルディアはそれ以上を語らなかった。


イェラの名は、誰の口からも出なかった。

もう、戻ってこない者の名として。


誰かが問いかけた。

「……他の……紡遣者の方々は?」

その問いに、誰も答えようとしなかった。

ベランも、グライスも、ただ前を見据えたまま歩を進める。


その沈黙が、何よりも雄弁だった。


彼らの影が門の奥へと吸い込まれていく。

その背を見送る者たちの胸中にも、重いものがのしかかっていた。


もし、あのとき何もしなければ。

あの森へ足を踏み入れなければ。

エルフと呼ばれた“何か”を、目覚めさせなければ──


もしかしたら、あの怒りも、あの殺意も。

この街に向けられることはなかったかもしれない。


何もせず、ただ待っていれば。

犠牲は、出なかったかもしれないのに。


――虎の尾を踏んだ。


誰もがそのことに、気づいていた。


だが、もう戻れなかった。






衛兵たちの慌ただしい動きが、城門周辺に広がっていく。


「そっちだ、担架を! 二台、いや三台! すぐに治療院へ!」

「福音騎士殿に連絡を!」

「司教殿にも! 教会経由でいい、急げ!」


怒声と叫びが入り混じり、霧の朝にこだまする。

だが、運び込まれるその姿を見て、言葉を失う者も少なくなかった。


「……イェラは……もう……。置いてきた……」

その言葉はかすれていたが、明確だった。


誰も口を開こうとはしなかった。ただ、空気が重く沈む。


イェラのことを知る者たちは、無言で胸に手を当てた。


「すまない……」と、誰かが呟いたが、それは誰に向けたものでもなかった。


一方、グライスはといえば、まだ戦いの余韻を身に纏いながら、ただ黙っていた。

盾を失い、返り血に染まったまま、まっすぐ城内の坂道を歩く。


護送ではなく、帰還。


それがどれほど辛く、惨めなものであるか、本人が最もよく知っていた。


(……俺は、間違えた)

(待つべきだった……騎士たちが揃うまで……何もしなければよかったんだ)


後悔は、足元の石畳よりも重かった。


ルディアは、グライスの後ろを歩きながら、その背に何も言わなかった。

ただ、拳を握ったまま、一歩一歩、重い足を運ぶ。

スリグは無言でベランの傍に付き、左手を失ったその肩に、そっと手を添えていた。


ベランはふと、顔を上げた。


見慣れた街の家々、染みついた霧と煤の匂いが、ほんのりと鼻に戻ってくる。


(……帰ってこれた、のだな……)

そう実感しながらも、胸に押し寄せてくるのは罪悪感ばかりだった。

(……我々が……何もしなければ……グレズも、イェラも……)

まるで、静かだった水面に、石を投げてしまったかのようだった。

(……我々が動かなければ、もしかしたら……やつらの出現は、まだ先だったのではないか……)


ただ黙って、警戒を強めるだけでよかったのではないか。

森に入らず、挑まず、知らないままで――よかったのではないか。


後悔は、冷たい霧のように心にまとわりつき、消えることはなかった。






治療院の一室。

昼とも夜ともつかぬ淡い光が、厚手の帳を透かして静かに差し込んでいる。


グライスは寝台の上で、己の左手の包帯を見つめていた。

視線は空虚だった。

目に映っているのは傷ではなく──積み重ねた過ちだった。


扉が勢いよく開いた。


「グライス!」


空気が一変した。

声と共に入ってきたのは、銀鎧を纏った福音騎士・セレファ。

目に怒りを宿し、迷いのない足取りで寝台に迫る。


「……セレファ殿……」


起き上がろうとするグライスを、怒声が遮った。

「座っていろ。貴様には、その程度の礼すら不要だ!」


グライスはその言葉に、ただ従うしかなかった。


「貴様……! なぜ、待たなかった!」


声の鋭さが、部屋の壁を震わせる。

見舞いに来たはずの司祭が扉の前で立ちすくみ、引き下がった。


「なぜルゼルトとファランスの騎士たちが到着するのを、ただ待てなかった……!」


「…………」


グライスは何も言わない。

言えるはずもなかった。すでに、その問いの答えを自分自身に向けて呪うように繰り返していたのだから。


「貴様の軽率な出立によって、仲間が死に、敵がこの街の存在を知った。まだ潜んでいたものを、掘り起こしたのだぞ!」


セレファは机を拳で叩いた。金属の音が鳴る。


「……街の盾だなんだと、民に持て囃されていたようだが、結果はなんだ。民の命を危険に晒しただけではないか!」


「全て……私の、判断の誤りです……」


「わかっていたはずだ。我らが討つべきは、ただの山賊ではない。エルフだ! それほどの相手に、たった数人で挑むなど、正気の沙汰ではない!」


セレファは拳を握りしめ、言葉を絞り出すように続ける。


「貴様の軽挙妄動で、貴重な戦力の紡遣者が失われた。……そして、敵にこの街の存在を気づかせた」


「…………」


「貴様が“何もしなければ”、よかったのだ!」


叩きつけられた言葉に、グライスの顔が歪んだ。

だが反論はなかった。


「貴様の自己満足の“先走り”で、我々は虎の尾を踏んだのだ。……まだ敵がこちらを注視していなかったかもしれない、まだ災厄を遅らせる余地があったかもしれないのに……!」


セレファの声がわずかに震える。


「それを、貴様は奪った!」


「…………申し開きは、ございません……」


かすれる声。

目を伏せ、グライスは小さく息を吐いた。


だが、セレファの叱責は終わらなかった。


「――ことここに至っては、もはや私一人の感情では済まぬ」

セレファはグライスを真っすぐに睨みつけた。


「領主殿、トゥルパン司教、レオヴァン殿──三者にて、貴様の責任と処罰を正式に協議する。命令違反の越権行動により街の安全を著しく損ねた罪は、決して軽くはない」


グライスはその言葉に、ついに深く頭を垂れた。


「……その裁に、従う覚悟はございます」


「当然だ」


怒気を押し殺しながら、セレファは背を向けた。


「──二度と勝手な判断はするな」


そう吐き捨て、扉の方へと向かう。


だが、あと一歩というところで、ふいにその足が止まった。


「……この街の命は、今や綱の上にある。その一本を揺らす者がいれば──福音騎士として、私はそれを斬る」


振り返ったセレファの目は、怒りを超えて冷たく澄んでいた。


執行者の目。

迷いなき裁きの覚悟が、その一言に込められていた。


グライスは静かに、深く頭を垂れた。


セレファはそれを確認すると、沈黙のまま扉を閉じて立ち去っていった。


残された部屋には、薬草と血のにおいと、深い悔恨の沈黙が残っていた。

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