イリスの章
争いを憎んだ者は、なぜ争いを願ったのか。
祈りとは、いつも“あと”に生まれる。
語りの御方は、それすら語りとして拾い上げる。
語りの御方は、未来を教えてはくださらない。
だが、未来を“語る”ことはある。
語りを選ぶのは、常に語られる者の方なのだ。
* * *
イリスは、若く、まっすぐな梢のような娘だった。
戦士として育てられた樹人族の娘。
水を読むより、剣を振る方が得意だった。
「語りより、戦だ」「語りは過去だ、わたしは未来を斬る」と言っては、森の者たちを困らせた。
けれど、一族の誰もが彼女を憎めなかった。
イリスはただ、自分の“語り”を持っていなかっただけだ。
だから彼女は、何かを守ることで、自分の語りを刻みたかった。
◆
その日もイリスは森の奥で、ひとり剣を振っていた。
陽の差さぬ根の間に立ち、落ち葉を蹴って、音を立てずに振る。
誰に教わったわけでもない剣。だが彼女は、剣とともに語ろうとしていた。
「ねえ、ひとつ、面白いものを見せてあげようか」
声がした。振り返ると、若木の姿をした子どもが立っていた。
まだ芽吹いたばかりのような体。けれど、その瞳はあまりに無邪気で、澄んでいた。
イリスは目を見開いた。
その声には力があった。理屈ではない。
魂に語りかけてくるような、語りの御方――ナスレスクの声だった。
彼女は膝をつき、剣を伏せた。
主君に忠誠を誓う騎士のように。
いつか父が語っていた、天律騎士の物語のように。
その瞬間、森が揺れた。
目の前の景色が滲み、歪み、燃え、やがて別の風景が開いた。
* * *
それは、森を離れた人族の街。
しかし、語りはそこでも蠢いていた。
疫病。
呻き声。赤子の泣き声。
清潔な布もなく、火も足りず、薬は底をついていた。
民は救いを求めていた。
「子を……子を助けてくれ」
「せめて、冷たい水を……」
「この子は、まだ御方の祝福すら与えられていないのに……」
街の民は、領主の館へと詰めかけていた。
怒りと不安の声が交錯する。
そして――領主は嘘を吐いた。
苦し紛れの、咄嗟の、そして根も葉もない嘘だった。
「これは森の呪いだ。
……森の樹人族どもが、我らに祟りをなしているのだ」
その言葉は、雷のように民に落ちた。
「呪いだって……?」
「うちの子が死んだのは……?」
「あの赤ん坊まで呪われたというのか……!」
憎悪は、弱き者の中にこそ芽吹く。
罪なき民の中に、復讐の芽が燃え上がった。
怒りと飢えが、道を選ばぬ刃となり――
彼らは森を目指した。
そして、イリスはそれを迎え撃っていた。
イリスは剣を抜いた。
その瞳に凄まじい光を宿し、恍惚とした表情を浮かべながら、飢えと疲労に苦しむ無辜の人族たちを、次々と――
「これが私の語りだッ!!」
叫び、斬り伏せ、なぎ払い、倒し、血を浴びながら、
彼女は“守る”という名のもとに、語りを刻んでいた。
誰かの父。
誰かの娘。
誰かの、まだ語りすら知らぬ者たちを。
炎が上がる。血が染みる。
剣が、語りの筆となる。
それは戦ではなく、儀式だった。
ナスレスクの御前で捧げるような、自身の語りを刻むための舞いだった。
「誰も私の語りを奪えはしない。
私が、語りとなるのだ――!」
その姿は、英雄にして悪鬼だった。
守るために振るわれた剣が、いまはただ興奮のために振るわれていた。
* * *
イリスは息を呑んだ。
目の前の光景が、ゆっくりと闇に還る。
それは幻ではなかった。ナスレスクが見せた未来。
まだ語られていないが、もう存在する語りだった。
手は震えていた。
けれど、その震えが怒りか悲しみか、自分でもわからなかった。
そして、その耳元に、
静かな湖面にひとひらの葉が落ちるような声で、ナスレスクがそっと囁いた。
「君の“幸せ”は、まだ途中なのさ」
◆
翌日。
空気が濁っていた。
風が、土の匂いではなく、遠くの焚き火の煙を運んできていた。
里の門番が、慌てた声で駆け込んでくる。
「イリス! 人族の軍勢が、こちらに向かってる……!」
イリスは、剣に手を伸ばした。
けれど、抜けなかった。
体が動かない。
脚がすくんでいた。
語りを見てしまった。
その“重さ”が、剣の柄に圧し掛かっていた。
「わたしが……それを……やるのか……?」
叫ぶような息が、森に溶けた。
仲間が準備を始める中、ただ一人、イリスだけが動けなかった。
「……何が、正しいのだ……?」
そう呟きながら、イリスは声を震わせて祈った。
「語りの御方……ナスレスク様……
どうか……どうか、この手を導かないでください。
もしも、語らずに済む未来があるのなら……どうか、そこへ……」
膝に額をつけ、ただひたすらに聖句を唱えた。
『語りは選ばれるものではない。
語りは選び、語られる。
それでも抗う者よ、祈りを止めるな。
語りの御方は、その沈黙さえも語りと見なすだろう。』
その姿を見ていた里の若者たちは、困惑し、やがて苛立ちを募らせた。
「……なんだよ、あいつ」
「普段はあんなに剣を振り回しておいて……」
「いざというときには、何もできねぇのかよ」
誰かが、つぶやいた。
「……弱虫だよ。情けねえ」
冷たい言葉が、イリスの背を越えて通り過ぎた。
けれど彼女は、顔を上げなかった。祈りをやめなかった。
彼女の声は、微かだったが、森よりも深く、湖よりも静かだった。
◆
人族の影が、森の端に姿を現したとき、
最初に動いたのは樹人族の若者たちだった。
剣を構えた。
守ろうとした。
けれど、襲撃してきた人々の目は、何も映していなかった。
彼らは飢えていた。
疫に疲弊し、嘘に騙され、怒りを抱く余裕すらなかった。
それでも手には刃があった。
それでも、足は森へと進んだ。
そして、火が投げ込まれた。
それはもはや戦いというより、衝突だった。
燃えた。
倒れた。
叫んだ。
斬った。
泣いた。
刃を向けた。
血を浴びた。
倒れた。
森が赤く染まり、
大地が沈黙し、
空すらも焚き煙で閉ざされた。
火と怒りと死の中で、
誰が語り手だったのか――もうわからなかった。
そして戦が終わったとき、
残っていたのは、焼け落ちた森と、
混ざり合った人族と樹人族の死体だけだった。
そのなかに、ただひとり――
イリスが座っていた。
虚ろな目で、両手を組み合わせ、
唇を動かしながら、なお祈っていた。
「……語りの御方、我らが主よ……
わたしの……
争いを望む心が……この惨状を呼んだのです……
どうか、もう……
わたしに、争いの語りを与えないでください……
もう二度と……争いを……」
焼け焦げた枝の上に、
血の混じった灰が積もっていた。
それでもイリスは、剣を持たず、ただ祈っていた。
火が静かに消える頃、風が吹いた。
そして、あの声が背後から届いた。
「ねえ、イリス。君の“幸せ”は、まだ途中なのさ」
その言葉は、まるで枯れ木を踏み折るように、静かに胸を貫いた。
イリスは、はっと息を呑んだ。
涙の跡も焼け焦げも、もう気にしていなかった。
その瞬間、彼女は悟った。
これはナスレスクの試練なのだ、と。
幸福を願った者が、
幸福を得られぬまま、なお祈りを続ける。
それを見届けるために、語りの御方は試練を与えるのだ。
自分が選ばれたのではない。
ただ“語りに適うかどうか”、試されたのだ。
イリスは、手を合わせたまま、かすかに微笑んだ。
イリスは、すすだらけの顔で微笑んだ。
そして、まるで全てを赦されたように、静かに言った。
「……ナスレスク様。
わたしに争いを与えてくれて、ありがとうございました。
わたしはもう……二度と剣を望みません。
あなたのおかげで……やっと、わかりました」
ナスレスクは肩をすくめ、あくびをしながら小枝を拾った。
それを火に投げ入れて、ぼそりと呟いた。
「ふぅん……。
君も、まだ“そういう語り”に辿り着くんだね。
つまらないなぁ、ほんと」
そして、ふらりと姿を消した。
* * *
夜が深まり、森は完全に音を失った。
誰の語りも響かない。
誰も、彼女の祈りを聞いてはいなかった。
けれどその静寂の中で――
イリスは、それでも祈りをやめなかった。
「争いを望んだ私を、
争いで終わらせてくださり、
ありがとう――唯一にして絶対の我らが主、語りの御方ナスレスク様……」
語られなかった語り。
誰にも届かなかった祈り。
それでも、それを拾い上げるのが――




