019 三体
エルフのようじょをいぢめる悪い大人
ノスの猟犬は、軽やかに霧の森を駆けていった。
その毛並みは濡れてもなお艶やかで、どこか嬉しそうに鼻を鳴らしながら、ときおり後ろを振り返っては、グライス一行を確かめるように先導していく。
「まるで遊びに来たみてぇだな……」
グライスが苦々しげに呟く。
だが、その軽快さに惑わされることはなかった。
紡遣者たちも皆、無言で森を進む。弛緩した空気の裏に、潜む気配があると知っていた。
やがて、猟犬が一度立ち止まった。
草をかき分けた先、視界が開ける。
そこには、広がる谷の一角。
陽光に照らされた草地。その中心に、いた。
煤けたような黒い肌、赤黒く光る筋が全身を這い、蜘蛛のような六本の脚が地に根ざす。
そして、上半身は人型に近く、小さな腕。
顔のあるべき場所には、ただぽっかりと空洞が開いていた。
さらに二体の無貌魔がいた。三体とも似ても似つかぬ異形だった。
一体は、獣のように背を丸めた四足歩行の姿で、胴体は煤けた岩のようにざらついた質感を持ち、肩から背中にかけては太い棘のような突起が並んでいる。その体表は常に波打つようにうごめいており、まるで皮膚の内側を何かが這っているかのようだった。顔の位置にあたる部分は、ただの滑らかな黒い凹面で、表情も器官も存在しない。ただ、そこから視線のような圧を感じる。
もう一体は、逆に異様に縦長の二足歩行で、手足は細く、関節が異様に多い。その動きはまるで絡まった糸を解くように、ねじれるような動作を繰り返していた。腹部は異様に膨らんでおり、そこだけが不自然に温かく膨張しているように見えた。やはり顔はなく、頭部は卵のように滑らかな球体で、感情の気配すらない。
「三体……無貌魔か? ……いや」
ベランが息を呑む。
そのうちの一体が、舌っ足らずな声で何かを口ずさむように、体を左右に揺らしていた。
「……あれが、エルフだな」
グライスが呟く。目を細め、じっと観察する。
「……でも、ザリオ殿の報告とは少し違います」
ベランが言う。「足の本数も、声も。もっと獰猛で、鋭い印象だったと……」
「動転してたんだろうな」イェラが低く言う。
「実際にやり合えば、足の本数なんて数えてる余裕ねぇよ」
グレズが続ける。「赤黒く光る筋、蜘蛛の脚、あの不気味な空洞。ここまで合ってれば、アレは報告にあった“エルフ”で間違いない」
ルディアはすでに背を低くし、風を読むように周囲を見渡していた。
「三体同時に相手取るのは無謀。数を削る」
「なら、まず俺が一撃入れる」
グレズが大槌を肩から引き抜いた。
グライスが頷く。「グレズ、手前の”トゲ”の無貌魔をぶっ叩け。スリグ、分断を頼む。ベランはグレズと共に機動を削れ。イェラ、ルディアは残りの二体を攪乱。俺が援護に回る」
「了解」
静かに構えを取る。
魔導槍を掲げるスリグの手元に、淡い光が集まる。
戦いの火蓋が、静かに――だが確かに、切られた。
◆
草の合間を吹き抜けた風が、戦の始まりを告げる号令のように森に響く。
スリグの魔導槍が空を裂き、導術の光が谷を横断するように奔り、地面に光輪のような帯を刻み込む。
その光はすぐさま術式へと変わり、立ち上る結界が三体の異形を隔てた。分断されたのは、”トゲ”と”タテナガ”の無貌魔二体とエルフ一体。
その瞬間、グレズが地を蹴った。
金属繊維を織り込んだ重衣が唸り、竜人族の筋肉が鋼のように引き締まる。砂色の翼が背からわずかに広がり、空気を巻き込みながら、巨体を押し出した。
砂色の翼が風を切り、彼の背に担がれていた巨大な鉄槌が振り抜かれる。
「うおおぉッ!」
先頭にいた”トゲ”の側頭部に、質量そのものが叩きつけられた。
轟音。
地面が大きく震え、斜面の草が一斉に倒れる。無貌魔の身体がのけぞり、脚が崩れる。煤けた体表からモヤが立ち上り、内部から波打つような蠢きを見せた。
「ベラン!」
「はいっ!」
即座に反応したのは、衛兵のベランだった。獣のように低い姿勢で駆け出し、鎧に包まれた体躯が低く、素早く異形の横へ滑り込む。
その手に握られた剣が、関節の内側を的確になぞるようにして突き刺さる。
甲高い金属音。黒い液体が霧のように飛び散る。”トゲ”の無貌魔は呻くこともなく、脚のひとつが止まった。
「脚を潰せ、動きを奪え!」
グライスの怒声が響く。大盾を高く掲げたまま、彼は背後から迫るもう一体の”タテナガ”の無貌魔に正面から向かっていく。
「イェラ!」
「了解!」
前衛の女紡遣者――イェラが、短く返事をして剣を構える。
彼女の構えは無駄がなく、受けるよりも倒す意志が前面に出ていた。踏み込みの瞬間、斜め下から胴を裂くように一閃。
”タテナガ”の動きがわずかに止まった刹那、ルディアが影のように背後へと滑り込む。
短剣を左右逆手に持ち、研ぎ澄まされた気配を撒かぬまま接近する。
「背後、狙う」
一閃。刃が走る寸前、無貌魔の細い脚の関節がねじれ曲がり、地を蹴って跳躍する。
「速い!」
ルディアの短剣は空を切る。空気が震え、”タテナガ”の膨張した腹部が明滅する。
「分断が効いてるうちに押し切るぞ!」
グライスが大盾を持ったまま前方に突き出し、飛びかかろうとする”タテナガ”を押し返す。
盾が地にめり込み、土と草が弾け飛ぶ。
「ルディア、下がれ!」
「了解!」
即座に距離を取り直し、イェラも一歩下がる。
「隙ができた! グレズ、左に回れ!」
グレズが地面を抉るように踏み込み、二撃目の鉄槌を構える。
風が巻き起こり、重い打撃が”トゲ”の脚を狙って振り下ろされた。
その脚が音を立てて砕ける。”トゲ”がのけぞり、動きが明らかに鈍る。
「いける……!」
その横で、スリグは導術の壁の向こう、エルフの動きをじっと観察していた。
「……どして……? なに、これ……」
その声は、子どものような震えと、涙交じりの困惑を孕んでいた。
「どして……みんな、いじめるの……?」
エルフの巨体がわずかに後退し、六脚が不安定に地を踏む。
「動揺してる……!」
グライスの声が低く響く。
「ここで畳み掛けるぞ!」
スリグが一歩踏み出し、魔導槍の穂先が導術の光を帯びる。
「魔力、揃います。分断維持、あと五十秒!」
「全員、前進!」
ベランが剣を構え、グレズが三撃目の鉄槌を構える。
ルディアは回り込み、イェラは再び距離を詰める。
グライスが前に出る。盾を構え、エルフの挙動を読み切るように低く声を上げた。
「この戦は、“語り”の代わりだ。やるぞ!」
その声を合図に、全員が再び躍動した――。
無貌魔とエルフ。
祈りの届かぬ森の奥、静寂が破られ、ついに剣が言葉を超えるときが来た。
森の谷に、泣き声が響いた。
「……やめて……やめてぇっ……! やめてよぉぉ……!」
エルフの叫びは、舌っ足らずな幼子のものだった。
だが、そこに込められた感情はあまりにも濃く、深く、胸をえぐる。
空洞の顔の奥から絞り出されるその声は、涙を含んで震え、
まるで息が詰まるような嗚咽となって森を震わせた。
「もぉ……やめてぇ……みんな、いじめちゃ、だめなのにぃ……」
六脚が不安に震え、巨体がしりもちをつきそうになりながらも、
エルフはその場から動けずにいた。
その嗚咽が、まるで合図だったかのように、
分断された先の無貌魔二体――“トゲ”と“タテナガ”の動きが急激に変化した。
「来るぞ――ッ!」
グライスの叫びが飛ぶ。
“トゲ”の無貌魔が、のけぞった体勢のまま、
煤けた背中の棘を一斉に波打たせた。
その一本一本が皮膚の内側から押し出されるようにして膨張し、
瞬時に無貌魔の姿がさらに巨大に膨れ上がる。
「っ、自己強化か……!」
スリグが魔導槍を掲げ、魔力の充填を急ぐ。
同時に、“タテナガ”が縦にねじれるようにして身をくねらせ、
膨れた腹を抱えながら四肢を奇妙な角度に折り曲げて飛び込む。
「グレズ、足元警戒しろ!」
「任せろ!」
二撃目、三撃目と続けて“トゲ”の脚部に叩き込んでいたグレズが、
最後の一撃を狙って重心を低く構える。
そこへ、ベランが前に出る。
一瞬の隙を突いて、膝関節の裏を斬り払った――
乾いた音。関節が砕け、”トゲ”が体勢を崩す。
「今だッ!」
グライスが吼える。
大盾を叩きつけるように前に出し、
その衝撃で”トゲ”の巨体をぐらつかせる。
直後、グレズの鉄槌が真上から振り下ろされた。
「喰らえぇええッ!!」
大気が震えた。
“トゲ”の頭部が、鉄槌の直撃を受けて押し潰された。
鈍く重い音が、まるで岩塊を粉砕するかのように戦場に響き渡る。波打っていたざらついた皮膚が音を立てて裂け、中から黒く濁った煙のような気体が噴き出した。熱も、光もないその煙は、何かが終わったことを静かに告げていた。
それは叫びすらあげなかった。
呻きも、抵抗も、最期のあがきさえもなく――その異形は、ただ崩れた。
脚が折れ、背がくずれ、棘の並んだ巨体が地に伏す。岩に似た皮膚は割れ、内部からこぼれた黒い粘液が地を濡らす。その姿は、もはや生き物ではなく、ただ“討たれたもの”に過ぎなかった。
静寂が、一瞬、戦場を包む。
そして――
「……εζδραさまを……いなく、させたのも……あなたたち……ね……」
その声が、エルフの空洞の顔から、ぽつりと漏れた。
音としてはかすかだった。だが、その“気配”はあまりにも強烈だった。
まるで耳元で誰かが囁いたかのような近さで、まるで胸の奥に直接突き刺すような哀しみで。
舌っ足らずで、子どものような声色はそのままだというのに――そこに込められた感情はひどく歪んでいた。
濁ったような、深い、呪詛めいた声色。
明確な怒りと、憎悪、そして――悲しみが入り交じる”波”
「……εζδραさまを……返してぇ……っ……!」
その名だけは、音が歪み、ねじれ、誰にも聞き取ることができなかった。だがそれが、ただの個体名ではなく、エルフにとって“かけがえのない存在”であったことは、誰の耳にも伝わった。
沈黙が、また戻る。
だが、今度のそれは、戦いの終わりではなかった。
「聞くな。意味なんてない。あれは“心”を揺らそうとしてるだけだ」
イェラが頷く。
「意味があろうがなかろうが、敵の叫びに耳を貸してる暇はない」
そして、エルフが叫んだ。
「いじわるッ……いじわるいじわるいじわるぅぅぅ!!」
空洞の顔から放たれたその叫びは、
呪詛というよりも、泣き喚く幼子のそれだった。
だがその音は、周囲の空気を震わせ、草を揺らし、
確かに“呪いの波”のように戦場を覆っていく。
その”波”には、悲しみと怒りが混ざりきらずに残っていた。それがかえって、その叫びを本能的で、制御の効かないものにした。無邪気な声の中にある、どうしようもない“情動”が、空気の密度を変えていく。
そのときだった。
“タテナガ”が、まるでその呪詛に呼応するかのように、突如として動いた。
関節が音もなく捻じれ、異様に長い脚が地を蹴る。その膨れ上がった腹部が前のめりに落ちかけたような瞬間、地面を裂くような勢いで跳躍し、螺旋を描くようにねじれながらグレズへ突進する。
それは意志ではなかった。あまりにも衝動的で、あまりにも獰猛な一撃。
エルフの涙と、叫びと、その哀しみに共鳴したように、異形の魔は獣のような凶暴性を剥き出しにして、襲いかかる。
「来るぞ、備えろッ! 分断、維持しろ!」
グライスの怒声が、ふたたび戦場に響いた。
その瞬間、スリグの導術が再び奔り出す。彼の魔導槍の穂先から、淡い青白い光が編まれ、空間に紋様が刻まれていく。導術結界――敵と味方を切り分けるための繊細な構造だ。
だが、空気は既に不穏に揺れていた。
「……分断、あと十秒――もたん……ッ」
術式は、エルフの怒りに満ちた波動に押し返されるようにして、わずかに軋み、揺らいでいた。 光の輪郭がかすれ、保持されていた結界が崩壊寸前にまで近づいている。
ベランは素早く剣を構え直し、距離を取りながら戦線を再調整した。 その目は、エルフと”タテナガ”、どちらにも油断なく向けられている。
グレズは力を溜めるように、大槌を肩に担ぎ直すと、一歩、地を踏み鳴らした。 そのたび、周囲の草がぱらりと震え、地面がわずかに軋む。
ルディアが、風のように左へと展開する。 イェラも即座に察し、ルディアの死角を補うように右へ跳ぶ。
二体の敵。 だが、放たれる殺気と圧は、その数を遥かに超えていた。 まるで五体、十体が迫っているかのような感覚すらある。
そしてその中心に――エルフがいた。
黒い巨体はゆっくりと揺れていた。脈動するように赤黒い筋が明滅し、まるで“感情”が肉体に溢れ出しているようだった。
空洞の顔の奥から、再び声が漏れる。
「εζδραさまがね、εζδラさまが……っ! おまえたちがぁっ!!」
言葉は破綻していた。 何かの名を呼んでいたのか、何かを恨んでいたのか――それすら聞き取れないほど、感情が言葉の輪郭を飲み込んでいた。
みんな大好きギリシャ文字




