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018 谷遊

やりたかったことの一つ。

谷は、息をしていた。


緩やかな傾斜の先に広がる草原には、朝露が降り、陽光がそれをやわらかく照らしていた。揺れる草の合間には、シロツメクサの白と薄桃色が静かに咲き、空を映すような清らかな小川が、谷底を緩やかに流れている。


木々の枝には鳥たちが舞い、遠くでは鹿の親子が用心深く水辺に近づく。そのすべてが、呼吸のように整っていた。


その静かな楽園に、異形の“それ”はいた。


表皮は黒く、煤けたような色をしており、全身に血管のような赤い筋が微かに光っていた。上半身は人間に似た輪郭を持ちながら、顔のあるべき場所には空洞がぽっかりと穿たれ、その内側は闇に溶けたまま、何も映さない。左右には、子どものように未発達な柔らかい腕がついていた。


そしてその下には、蜘蛛のような六本の脚が、大地を支えていた。関節の動きはどこか優美で、見る者が目を逸らす隙もないほどに滑らかだった。背には、折れたようにも見えるコウモリのような皮膜の小さな翼がついていたが、風を受ける様子はない。


だが、“それ”――エルフは、陽の光を背に受けながら、実に楽しげだった。


「ふふ、みてみてーっ、うさちゃ、ぴょんぴょん!」


舌っ足らずな声が、草のなかに弾ける。


エルフは明らかに人ならぬ異形でありながら、動きも声も、まるで四歳児ほどの幼子のようだった。


草原の中をどすんどすんと跳ねながら、小さな野ウサギを追いかけていた。腕を広げ、六脚で器用に地を蹴りながら、獣たちと無邪気に戯れる。野ウサギは逃げるでもなく、ころころと転がって遊ぶように跳ねていた。


だがそのたび、背後では――


踏みしめた草が潰れ、勢い余って茂みが薙ぎ倒される。時には石が砕け、地面に抉れた跡さえ残る。


だが、当の本人はまったく気にしていない。


動物たちは、そんな彼女にも怯えることなく、寄り添うように跳ね回っていた。


近くには、毛並みの美しい栗毛の馬が一頭。警戒の色はまったくない。むしろ、エルフが近づくと鼻先をすり寄せ、撫でられるのを待つようにじっとしている。


「ふわふわぁ……あったかいのぉ……んふふ、すきー……」


エルフはその首筋に頸を寄せ、くすぐったそうに笑った。背中のいびつな皮翼がぱたぱたと震える。


そのすぐ傍ら、草の上に二体の影が寝そべっていた。


無貌魔。


黒くねじれた身体。貌のない頭部。全身が煤けたような黒い色、だがいまはその体表も陽光の下穏やかに燦いている。


二体の無貌魔は、それぞれ地面に身を投げ出し、のんびりと昼寝をしているかのようだった。草の香りに包まれ、風を受けながら、時折のびをするように体をくねらせていた。


エルフはその傍に腰を下ろすと、未発達で小さな子どもの手で草を編み始めた。指先は不器用で、何度もつるりと滑りながら、それでもやがてシロツメクサの花冠を一つ仕上げる。


「できたぁー……っ、はい、どーぞ!」


そう言って、無貌魔の一体の頸部に、花冠をちょこんと載せた。


無貌魔は動かない。だが、その仕草を受け入れるように、わずかに体を沈ませる。草の中に揺れる花の影が、その黒い体表にちらちらと映る。


「にあってるよぉ。えへへ……」


くすくすと笑いながら、エルフはもう一つ、別の冠を編み始めた。ときおり花を落とし、拾い、また落とし、それでも機嫌は変わらない。節のない鼻歌のような旋律を奏でていた。


その動きはまるで、姉に遊びをねだる幼子のようだった。


無貌魔たちは何も語らない。だがその沈黙のなかには、確かな“見守り”の気配があった。


そんな広場には、エルフや無貌魔の存在以外にも、もう一つだけ異様な光景があった。


谷の隅――草の合間に、動かぬものが横たわっていた。


狼のような肉食獣の死骸だった。


その躯は、まるでとてつもない力で引き裂かれたかのように、無惨に裂けていた。毛皮は泥にまみれ、骨が露出し、筋が引き千切れたままの姿をさらしている。


だが、エルフも、無貌魔も、それに興味を向けることはなかった。


まるで最初からそこに“なかった”かのように。


草を食む草食獣たちも、その死骸を恐れるどころか、むしろ安心したようにその周囲で草を食んでいた。肉食の影が消えたことが、本能に安らぎを与えていたのかもしれない。


異形は、彼らにとって“脅威”ではなく、“強い味方”として受け入れられていた。


エルフはふと、遠くの草むらを見つめる。


「んー……きょおは、わんわん、いないねぇ……?」


言葉というよりは、つぶやき。


舌っ足らずで、どこか眠たげな調子の声だった。


手を止め、周囲を見回し、ひときわ背の高い茂みに近づいて耳を澄ます。草のざわめき、鳥の声、水の音――そのどこにも、求める音はなかった。


「わんわん、きょおも、あそびに、こなかったぁ……」


その声は寂しさを含んでいた。


ぺたりと草に腰を下ろし、無貌魔の足元に寄りかかる。やはり、その拍子に倒れた木の枝が一本、ぐしゃりと潰れた。


「まいにち、くると、いいのにねぇ……おなか、へったら……かわいそお、だよ?」


二体の無貌魔は、身じろぎ一つしない。


エルフは目を細め、くすぐったそうに笑った。


「うん、きっと、またあそべるよねぇ……」


そして、また小さな花を摘み始める。次は花束を作ってみようと思ったのか、器用とは言えない手でいくつもの花をまとめ、無貌魔の前に差し出した。


「はいっ、だいじに、してね?」


無貌魔は受け取ることはしない。ただ、彼女――あるいは“それ”の作業を見守っていた。


妹を慈しむ姉のように。


面倒見のいい家族のように。


そこにあるのは、命令でも支配でもなく、“寄り添い”だった。


異形たちは、森の谷にただ在り続けていた。



突然、草むらを跳ねていた一羽の野ウサギが、ぴたりと動きを止めた。


空から、影が滑り降りてくる――。


風は凪いでいたはずだった。だが、何かが空を裂いて滑空し、わずかに葉を揺らした瞬間、場の空気が変わった。


エルフが気づいたときには、もう遅かった。


鋭い叫びと共に、猛禽が舞い降り、ウサギの背に爪を突き立てる。鋭利な鉤爪が胴を貫き、鮮やかな血が地に散った。空を切り裂くその音と同時に、ウサギの小さな体が地面から浮かび、空へと連れ去られそうになる。


「……や、やめてっ! いじめないでぇええ!」


エルフの声は、叫びというよりも、悲鳴に近かった。その”波”が広場に響いた瞬間――


反応するよりも早く、ひとつの影がすでに動いていた。


無貌魔の一体が音もなく跳躍する。草を弾き、枝を裂き、地を蹴ってその身を放つ。


空を裂くようにして飛翔する猛禽に向かって、一直線に。


その影が空を駆けるとき、音はなかった。ただ、空気だけが引き裂かれたように揺れた。


次の瞬間――


翼が引きちぎられ、裂ける音が大気に刻まれた。


空を舞っていた鳥は、まるで布切れのように地へと叩き落とされた。


だが、それで終わりではなかった。


ばさり、と羽を折り畳んだまま、猛禽はまだ生きていた。


その身体は激しく痙攣し、折れた翼をばたつかせ、喉から苦しげな鳴き声を漏らす。


その音に、エルフがふいに顔を上げ、鳥のほうをじっと見た。


黒い体に浮かぶ赤い筋が、かすかに揺れる。仮面のような空洞が、猛禽のもがく姿を静かに見つめていた。


「……うさちゃを……いじめちゃ、メッだよ……!」


舌っ足らずな声とは裏腹に、そこにははっきりとした意思が宿っていた。


その言葉に応じるように、もう一体の無貌魔が動いた。


ゆっくりと、だが確実に地を踏みしめ、哀れな鳥のそばまで歩く。


羽ばたき、逃れようとする猛禽を、何のためらいもなく――踏み潰した。


乾いた音。骨が砕け、肉が裂け、肺が潰れたのか、猛禽は最後に「キュウッ」と短く、細く、命の残り火のような声を上げた。


次の瞬間にはもう、その声も途絶え、羽も音も止まっていた。


地には、ぐしゃりと潰れた鳥の肉塊だけが残された。


だが、エルフはもう、その死骸を見ていなかった。


彼女の視線は、すっかり別のものへと向けられていた。


「うさちゃ……こわかったねぇ……もう、だいじょうぶ、だよぉ」


六脚が草を砕き、茂みをなぎ倒しながらも、彼女の巨体はまるで母のようにウサギへと寄り添う。


小さな手が、ウサギの血のついた背をそっとなでる。


「ねぇ、あったかいの、まもってくれたの」


ウサギは震えながらも、目をぱちくりと開き、エルフの足元に身を寄せる。


その様子を見守る無貌魔の瞳なき頸には、ただ闇のみが覗いていた。


そしてもう一体の無貌魔が、もぞりと再び草の上に寝そべる。


エルフは安心させるように笑い、その小さな声で囁いた。


「だいじょうぶ、まもってくれるよ。あったかいのと、”まま”が、いるから、ね」


空は再び静かになっていた。


谷は、ふたたび静けさを取り戻す。


だが、その中心にあるものは――あまりに奇妙で、あまりに純粋で、あまりに異様な“優しさ”だった。

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