001 ナギ、邪神と会う
サブタイトルは適当につけてます。
──落ちたはずだった。
確かに五階の窓を突き破って、重力に引かれて落ちていったはずだった。
けれど次の瞬間、凪が目を覚ましたのは、まるで別の世界だった。
空気は重く、静謐だった。
息をするたび、喉の奥がひりつくほどに乾いた冷気が肺を刺す。
遠くから微かに、鐘のような音が響いている。
それは風に鳴らされるわけでも、誰かが鳴らしているわけでもなく、ただ世界の底からじわじわと滲み出すような、音の幻影だった。
天井は異様なまでに高く、仄暗く、まるで夜そのものを石にしたかのような黒い岩でできていた。
ところどころからは蔦のようなひび割れが走り、天井を支える柱のいくつかは根元から傾き、今にも崩れ落ちそうだった。
壁面は、かつては彩色されていたであろう神聖な図像の残骸が広がっており、
その多くは風化し、時には意図的に削り取られているようにも見えた。
床にはモザイク状に敷き詰められた石タイルが、禍々しい幾何学模様を描いており、円形の中心へと視線を誘導する。
その中央には、巨大な円卓が鎮座していた。
表面には無数の刻印と環状文字が掘られており、まるで何らかの契約や誓約を記録しているかのようだった。
その周囲を囲むようにして、意匠の異なる五脚の椅子が静かに佇んでいた。
椅子一つひとつには異なる紋章や彫刻が施され、素材も異なる──竜の背を模したもの、金属板の鋲が打ち込まれたもの、蔦の彫刻が絡むもの……、滑らかな黒曜石で削られたもの、そして装飾を持たない無垢な石椅子。
それぞれが“何か”を象徴していることを、直感的に理解できた。
そして円卓そのものにも、ただならぬ気配が宿っていた。
その表面には幾重にも重なる環状の魔法文字が刻まれ、中央には複雑な幾何学模様が浮かび上がっていた。
それはただの装飾ではなく、明らかに“魔法陣”だった。
凪が目覚めたのは、まさにその円卓の上だった。
凪は、その円卓の上に仰向けに寝かされていた。
石の冷たさが背中に伝わる。
「……夢か?」
呟いた声は、妙にくぐもって聞こえた。
口の中は乾いており、呼吸が妙に重い。
椅子のうち、神殿の入り口を背にした一脚──そこだけは石像が立っていなかった。
しかし、他の四脚の背後には、それぞれ巨大な石像が立っていた。
その石像は四体。
いずれも人型でありながら、明らかに人間を超えた“神格”を備えていた。
一体目は、両腕が異様に長く、背には翼を模した装飾が大きく広がっている。
二体目は、全身を甲殻に包まれており、重厚な盾を片腕に、反対の手には槌のような武器を構えていた。
三体目は、肢体が枝のようにねじれ、全身に木の葉や蔦を象った彫刻が施されていた。
足元からは根が広がり、台座を飲み込むように絡まっている。
四体目は、顔の周囲に光輪のような意匠が浮かんでいた。
その衣は精緻な文様で覆われ、見る者を威圧する神聖さと神秘に満ちていた。
それらの彫像は一見して畏怖と威厳に満ち、神々の姿を模した存在であることは疑いようがなかった。
しかし──そのすべての像の顔が、鋭利な刃で削り落とされていた。
鼻筋も、口元も、目元すらも識別できない。
ただ無残に、えぐられるように潰されている。
まるで“誰か”が意図的にその顔を消し、記憶からも存在を抹消しようとしたかのように。
その行為に込められた悪意と執念が、石の表面から今なお滲み出ているようだった。
神殿の奥。
崩れた祭壇の壁の向こうには、異様な景色が広がっていた。
鈍色に曇った空、荒れ果てた森、そして自然に飲み込まれつつある高層ビル群。
この空間が、かつての人間の文明と地続きにあったという事実に、凪は静かな恐怖を感じた。
ここは現実なのか。
あるいは死後の世界か。
──そのとき、聞こえた。
「やあ、タカハラナギくん。ようこそなのさ。」
声は、凪の背後──神殿の入り口の方角から響いた。
身を起こし、首を振り向ける。
そこに立っていたのは──
幼い少年だった。
七歳くらいの、どこか見覚えのある顔立ち。
人間離れした印象はなかったが、彼が「人間でない」ことを、凪は本能的に理解した。
「……てめぇが、クソ野郎か」
絞り出すように問うと、少年はにこりと笑った。
「うん。呼び方なんてどうでもいいけどね。君が“気づいて”くれて、僕は嬉しいのさ」
「全部……おまえが仕組んでたのか、邪神」
「うん。とても楽しかったのさ。君の人生。最初から、最後まで。」
凪の拳が震える。
怒りが込み上げるが、声は出ない。
少年は気にする様子もなく、無邪気に続けた。
「でもね、ナギくん。君には、また幸せになってもらいたいのさ」
その言葉に、凪の眉がぴくりと動く。
怒りというより、理解不能な不快感。
「……何を言ってやがる」
「君をこの世界に招いたのは、僕なのさ。新しい舞台、新しい物語、新しい結末。
ただ君を放り込むだけじゃ死んじゃうから──プレゼントも用意したのさ!」
少年──にやにやと笑いながら──は、両手を胸元で組み、指をひとつずつ解きながら言った。
「一つ、並列思考。情報処理の能力が桁違いに増すよ。
二つ、魔法創造。世界にない魔法を“創り出せる”。ただし、魔力を使う。
そして三つ、魔力上限無限。君が持てる魔力は“際限なく”増える。
休めば、すこしだけ魔力が回復する。……ただ、それだけだよ」
「魔力をMPに変換して、魔法を創る。簡単な魔法なら1〜5MPくらいかな。、強力なものなら10以上。
とんでもない魔法には、5万MP以上が必要になることもあるのさ。
君の初期魔力量は10。そこから、じっくり育てていくといいのさ」
凪は黙っていた。
だがその目は、かつての彼の目ではなかった。
壊れた人間の目でもなかった。
──何かが、始まる前の目だった。
「……俺が、おまえを殺したら?」
邪神は、口角をゆっくりと持ち上げた。
「それができたら、君の世界を“あの時”に戻してあげるよ。
君の父上の会社は無実で、お嫁さんは無事に出産して……君は幸せな家庭を築く。
「ちなみに、僕の名前はナスレスク。覚えておいてくれると嬉しいのさ。
秩序・自由と変容・守護と破壊・自然と循環、そして──語りの神、ナスレスク様さ!
ここは神々がかつて誓いを交わし、契約を結び、世界の理を分かち合った場所。
この円卓は、かつて僕たち五柱が集い、契約を結んだ“神の誓約の場”なのさ。
その契約の魔法は、魂に刻まれ、どんな神であっても抗えない。だからこそ、今この場所で──君と僕との契約が成立するのさ。
君が僕を“殺せた”なら──契約は遂行され、君の世界は“書き換わる”。
……ただし、そこに辿り着けるかどうかは、君次第さ」
ナスレスクはふと表情を引き締め、どこか芝居がかった動きで一歩踏み出した。
「様式美ってやつだね。タカハラナギよ。次の生も精一杯生きるとよいのさ」
「君の前には苦しいことも、大変なことも、理不尽なこともある。でもね、救いは必ずある」
「だから、折れちゃダメだよ? 君には、また幸せになってもらわなきゃ、つまらないのさ」
その言葉を聞いた凪の心には、まるで針で刺されたような違和感が走った。
(幸せに……? また……?)
ふざけるな。
奈々未と子どもを奪い、俺の人生を焼け野原にした張本人が、よくもそんなことを言えたものだ。
怒りが込み上げる。口の中がカラカラに乾き、歯を食いしばる。
拳を握る手が震える。
けれど、その拳は、ただ宙を彷徨うだけだった。
ナスレスクを殴ることも、叫ぶことも、何ひとつできなかった。
あまりにも隔絶された存在。神という概念の暴力。
どれだけ怒りをぶつけても、この“邪神”には届かない。
まるで、子どもが嵐に向かって石を投げるような虚しさ。
否定する気力も怒りを貫く力も、もう残っていなかった。
心は空っぽで、感情の残骸だけが胸の奥に沈殿していた。
それでもナスレスクの言葉はどこかに引っかかり、沈みゆく心に奇妙な熱を灯した。
──それが希望なのか、憎悪なのか、絶望からの執念なのか……
自分でも、もう分からなかった。
ナスレスクは両手を軽く広げる前に、ふと目を細めて遠くを見やった。
「……ああ、そういえば、君の前にも何人かいたんだよ。ナギくんと同じように“気づいて”しまった子たちがね」
「ある者は、世界の不条理に抗おうとして力を求め、気づいたときにはすべてを破壊することに夢中になっていた」
「別の者は──迂闊にも大聖堂で“僕のこと”を批判しちゃってね。まあ当然ながら、宗教裁判にかけられて……そのまま処刑されてしまったんだ」
ナスレスクは肩をすくめて、まるで残念がるように──いや、楽しげに微笑んだ。
「こう見えても、僕は“唯一神”で通ってるのさ!」
そう言って、照れたように笑うナスレスクの顔は、どこまでも悪意のない子どものそれだった。
「君には、そうならないでほしいのさ。だって君は、もっと面白くなってくれそうだから」
ナスレスクは両手を軽く広げ、満面の笑みで言った。
「さあ、新しい世界へお行きなさいタカハラナギよ。あなたの人生にどうか幸多からんことを──」
そしてその瞬間、凪の身体は光に包まれた。
意識が浮上する。
重力とは違う何かに引かれて──
凪は、新たなる世界へと“堕ちて”いった。
ちなみに、作者が一番好きなゲームはドラッグオンドラグーン1です。