片腕の紡遣者
ギルドの酒場に、ひとりの男が背を向けて座っていた。
肩から垂れる空っぽの袖が、ぼんやりとした光に揺れている。左腕が、ない。
テーブルには飲みかけの粗酒と、くしゃくしゃにされた紙の束。依頼書だ。かつては片っ端から請け負っていた紙束——だが、今の彼には無縁のものになっていた。
「……チッ」
短く舌打ちして、彼——グンダは椅子の背に身を沈めた。数ヶ月前の依頼で無貌魔と交戦し、左腕を肩から失った。その日を境に、彼は紡遣者として廃業することとなった。
「なんの因果だ、ったくよ……」
かつて彼は、“荒くれ者”として名が通っていた。ぶっきらぼうで粗野。だが、仕事は確かだった。強く、早く、冷静。依頼主に対する礼儀も最低限は守っていた。だからこそ、信頼され、同業者からも一目置かれていたのだ。
だが腕を失ってから、すべてが変わった。
できる仕事がない。戦えない自分には価値がない——そう思っていた。
ギルドからも自然と足が遠のき、酒場でただ酒を飲む日々が続いた。何もせず、誰とも話さず、酔っては眠り、また目覚める。
それでも、周囲の仲間たちは彼を見捨てなかった。かつて一緒に戦った紡遣者たちが、食料や衣類を持って来たり、「こんな仕事あるぞ」と、働き口を探してくれたりした。
その中のひとり、若い女紡遣者が言った。
「ねえ、街の外れの治療院。人手が足りないらしいの。受付と、ちょっとした用心棒。どう?」
「受付……? 俺が? 冗談じゃねえよ」
最初は鼻で笑った。が、紹介された医師が「一度、顔を見せてくれればいい」と言うので、気まぐれで足を運んだ。
治療院は、思ったよりもこぢんまりとしていて、どこか家庭的な空気をまとっていた。中から現れた医師は、グンダより少し年下に見える細身の男で、物腰が柔らかく、白衣の袖をまくって雑務をしていた。
「来てくれてありがとう。僕が院長のラセルです。無理にとは言いませんが、ぜひお願いしたくて」
「……あんた、目、見えてんのか?」
「もちろん。でも、あなたがここにいるだけで安心する人がきっといます」
あっけにとられて、気づけば引き受けていた。
はじめの数日は最悪だった。
子どもが泣き出す、年寄りが怖がる。誰に話しかけられても返す言葉は硬く短く、言葉の端々にトゲがあった。「椅子に座ってろ」「口を閉じて待て」——その調子だ。
だが、ラセルは一度も怒らなかった。
「ありがとう、グンダさん。あなたが受付にいるだけで、みんな安心するんだよ」
「……皮肉か?」
「本気だよ」
その笑顔に、なぜか否応なく力が抜けた。人を守るとは、戦うことだけじゃない——そう言われた気がした。
ある日、幼い姉弟が風邪を引いて来院した。弟が泣きじゃくると、姉が懸命になだめようとする。その姿を見たグンダは、無意識に弟を膝に抱き上げて、鼻を拭きながら「静かにしてりゃすぐ終わる」と低く呟いた。
子どもは泣き止み、姉は礼を言った。
その時ラセルがぽつりと言った。
「……グンダさん、もうすっかり受付の顔だね」
「やめろ……変なこと言うな」
だが、その言葉が心に残った。
次第に、言葉が丸くなっていった。「待ってろ」から「少しだけ待っててくれ」へ。「だまれ」から「静かにしような」へ。
誰にも強制されたわけではない。ただ、治療院にいる人々が、あまりにも自然に、当たり前のように日々を営んでいたからだった。
病に倒れた者、骨を折った子ども、妊婦、不安げな父親。彼らのすべてが、名もない物語を生きていた。グンダはその物語の一端に触れ、初めて「語り」とは血と戦いだけで成されるものではないと気づいた。
かつて、自分の手で守ろうとした物語。それは、今では言葉と目配りと、少しの勇気で守るものに変わっていた。
夜、患者が帰った後の静かな診察室で、グンダは帳簿を整理していた。
片腕のせいで作業は遅いが、焦らず、ひとつずつ。
窓の外には春の月が出ていた。
ふと、グンダは目を閉じ、静かに祈った。
「語りの御方、ナスレスクさま……乱暴者だったおれでも、明日の誰かの語りを、少しだけでも穏やかにできるかもしれないって、そう思わせてくれてありがとう。……どうか明日もまた、誰かの物語に、優しい一幕が訪れますように」




