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010 異人

今回、ナギは喋っていないのでこの世界の言語を「」で囲っています。

シュトラーの北端。衛兵ベランは、グライス衛兵長の命を受け、城壁沿いに並ぶ倉庫群のさらに奥を早足で登っていた。


その一角に、ぼろ布をかけた古い看板が揺れていた。文字はもはや読み取れず、かろうじて「工」の一文字が残っている程度だったが、誰もそこに足を運ぼうとはしない。いや、避けていると言ったほうが正しい。


理由は単純だった。


──そこが、あの男の住処だからだ。


鋼と魔法と煙の混ざり合う、不気味な匂いを風に乗せながら、古びた扉がぎぃ、と音を立てる。


「……ここか。噂通り、まるで墓場だな」


ベランが呟くように言った。彼はグライスからの命で、“あの偏屈な魔法狂い”の元を訪ねていた。


名を、グラウ=ヴェルク。


魔導具と呪術機構の研究において、この街──いや、地方全体でも屈指の腕を持つとされながら、その性格の難解さと人嫌いから、誰も彼を“師”とも“仲間”とも呼びたがらない。彼が設計した魔導機構がなければ、シュトラーの防壁の一部は完成していなかったにもかかわらず、彼は街の外れに孤独に住み、年に数度、教会か城壁整備の要請でしか表に出てこない。


兵士は逡巡しつつ、扉を叩いた。


「衛兵隊からの派遣です。衛兵長グライス殿からの要請で──」


返答はない。


しばし沈黙の後、内側から聞こえるのは機械のきしみ音と、何かが破裂するような乾いた音。そして……誰かがぶつぶつと呟く声。


「どうして五角接続がここで外れるんだ……ちがう、魔力の流入が不安定なのか?いや、待て……」


ベランはもう一度、声を張った。


「グラウ=ヴェルク殿、いますか! 衛兵隊からの要請です、緊急の案件で……!」


ガチャン、という金属音と共に、扉がわずかに開いた。


現れたのは、ずんぐりとした石のような肌を持つ、異様な体格の男だった。


腰の低い重心、背中に詰まった筋肉、そして真っ黒なゴーグルのような眼鏡。

背には分厚い革装と魔導器具を詰めた大型の鞄を背負い、工具の匂いと魔力の微振動をまとっている。


グラウ=ヴェルク──メッカディアンの魔導技師であり、かつては戦場にその名を轟かせた、街の誰もが一目置く偏屈者。


「……騒がしいな。こっちは今、いいとこだったんだぞ。魔導拡散炉の再起動でなぁ、二年越しの試作がようやく反応したんだ」


低く、岩が転がるような声が工房から漏れた。


彼は苛立ちを隠そうともせず、ゴーグルを額にずらすと、真紅の眼光でベランを睨んだ。


ゴクリと喉を鳴らしたベランは、一歩だけ下がりながら、それでも任務をまっとうすべく答える。


「……グライス殿が、魔力の判別に協力を要請しています。詰め所の牢に、不明な来訪者が収容されています」


「人か?」


「見た目は、ですが……魔力が歪だと、魔法班が」


グラウは鼻で笑った。


「魔力の流れが歪だと? あいつら、いつもそんな曖昧な言い方しかしねえ。どれ、面白そうだ」


衛兵は一瞬たじろいだが、すぐに姿勢を正して口を開いた。


「わかりません。ただ、魔力が赤子以下との報告で……」


「……ほう……」


途端に、グラウの表情が変わった。


唸るような声を漏らし、分厚い革手袋の手で顎をさすりながら、瞳の奥で光が灯る。


「ふむ、そりゃあ面白ぇ……人族で魔力ゼロ寸前、しかも歪みありってか。そいつは──標本としてはなかなか希少かもな……」


「お引き受けいただけますか?」


「仕方ねえ。あの頑固盾め、こういう時だけは昔の借りを持ち出してきやがる。ただし途中で話しかけるな。新しい補助接続理論の計算を頭の中でやってるところだ。割り込まれると忘れる」


そう言って、彼は扉をばたんと閉めると、コトコトと鈍い足音を響かせながら、衛兵と共に詰め所へ向かって歩き出した。


*  *  *


詰め所の牢は、街の中でも最も質素で冷たい空間だった。


石壁に囲まれ、湿った空気が染みついた小さな部屋。魔導封印陣の刻まれた鉄格子の向こうで、凪は黙して座っていた。


彼の目は伏せられ、手は膝の上に添えられたまま動かない。監視役の衛兵も、その静けさに逆に不気味さを覚えるほどだった。


「グラウ=ヴェルク殿を連れてまいりました!」


ベランの一声で詰め所の扉が開く。


グラウは中へと足を踏み入れ、牢屋の前で腕を組んで待っていたグライスへ視線を向けた。


「来たか。よくすぐに動いてくれたな」


「てめえの言葉は信用してる。いまどき成人で“魔力が赤子以下”なんて人族はまずいない。珍しく楽しそうな依頼だったからな」


二人の間に交わされた言葉は、旧知の者同士のそれだった。かつて剣と魔法が交差する戦場で、背中を預け合った時間が、短い挨拶に込められていた。


「……で、そいつが例の“喋れねぇ標本”か?」


鉄格子の向こう──そこに、凪は静かに座っていた。何も言わず、何も動かず、ただじっと彼らを見ていた。


「話しかけてはいる。だが言葉が通じない。どうも……まるで別の言語だ。ただ、敵意はいまのところ感じられん」


グラウは鼻を鳴らした。


「敵意がねぇからって油断できるかっての。だが、妙だな……顔つきも骨格も、人族には違ぇねぇ。だが、その魔力……」


懐から小型の魔導器を取り出し、牢の隙間から凪の額に向ける。蒸気の音と共に淡く光る結晶が、脈動するように色を変える。


「……報告通り魔力はゼロじゃねぇ。だが、量は赤子以下。しかも流れがなってねぇ。器の形が違ぇんだ」


彼はしばらく観察を続けた後、ゴーグルを目深に戻し、ふと唸るように言った。


「おそらく、こいつ……無貌魔に襲われたんだな。脳のどっかイカれちまって、記憶も言葉もぶっ飛んでるってとこか。言葉を忘れた人族──まあ、稀に見かけるタイプだ」


グライスがうなるように言う。


「診断としてはどうだ?」


「しばらく観察すりゃあ、何かわかるかもな。だが、今の時点じゃ『わけわかんねぇ人族の標本』ってとこだ」


グライスは腕を組み、しばし無言のまま凪を見つめた。


「……お前に預けよう。お前の方がこいつを扱える」


「へっ、言ったな? じゃあ遠慮なく解剖……ってのはまだ早ぇな。とりあえず、生きてる標本ってことで扱ってやるよ」


その翌朝。牢の前に立ったグラウは、木の板と墨を持っていた。


「よし、まずは図形だ。……おい、お前。これが“火”だ。言ってみろ、“ヒ”。“ヒ”だ」


返事はない。


「仕方ない。最初は、ゼロからだ」


それは、一人の“人族”と、“偏屈な魔法狂い”の奇妙な講義の始まりだった。


──世界の言葉も、文化も、常識も、すべてを越えて。


凪の物語は、新たな局面へと進み始めていた。

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