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第1話 シシジロー異世界へ行く

ジジイ無双

「わしらは一体いつまで生きられるかねえ」


 おトメさんがそう言った。獅子次郎は、確かにそうだ、と思った。


 井上獅子次郎はその日、公民館に集まり老人会の面々と将棋を指していた。定年退職後のささやかな楽しみといったら、毎週火曜日に行われるこの集まりと、月に二回の散歩の会ぐらいだった。退職金と年金を支えに、寂れた平屋に一人暮らしである。


 45年間中学校の教師を勤め上げ、彼にはいま、三人の息子、六人の孫がいる。妻のミチ代は7年前に癌で亡くなった。いい女房だった。熟年離婚の危機にあうこともなかった。もうじきあっちに行けるのだから、年々心の痛みは軽い。痛いのは体だけである。


「王手、これが寄せの鬼手よ、ほれっ。たぶん詰んだんでねえか?」

「ありゃ、いけねえ」


 獅子次郎の戦績は良い方ではない。勝率は三割六分。一番下手というわけでもないが、決して上手いとは言えない。それに加えて、おトメさんは老後の趣味に始めたことがなんでも上達する。むすっとした顔の夫が亡くなってからでは遅すぎたと言う声もあるが、おトメさんは全く気にしていない様子だった。こっちは勝手にやりますから、あとは放っておいてくださいな。そう言いたげな様子であった。

 そんな井上獅子次郎が奇妙な電話を受け取ったのは、その晩のことである。電話が鳴ったのは、獅子次郎はやかんでお湯を沸かしながら、おトメさんに負けた時の決定的な一手を反省していたときだ。


「もしもし。井上獅子次郎さんのお宅ですか?」


 声の高さからして、多分男性のものだった。男性の声は老人の耳には通りが悪い。


「もしもし?」

「もしもし。井上獅子次郎さんのお宅で合っていますでしょうか?」

「もしもし?」

「あのー、もしもし?」

「もしもし?」

「井上獅子次郎さん! 聞こえますか!」

「ちょっとうるさいな……あんた誰だね、年寄りだからってバカにされちゃ困るんだわ、こっちも」

「そんな意図はないんですよ。あなた、井上獅子次郎さんですよね?」

「そりゃそうだけども、あなたは? オレオレ詐欺の人かい」

「いえ、神です。神様」


 獅子次郎はぶったまげた。


「どうしよう。頭のおかしいやつから掛かってきちゃったよ」

「本当に神様なんですよ。えい」

「ありゃ、肩が楽になったぞ」

「信じていただけましたか?」

「なるほど、通信講座の気功の先生だな。それで俺に入会させようっていうんだ」

「はあ、まあ似たようなもんですが……本題は別にあるんです。獅子次郎さん、異世界に興味はありませんか?」

「伊勢かい?伊勢神宮は綺麗だったね。たしかに死ぬ前にもう一回見てみたいですよ」

「伊勢じゃなくて異世界です。ファンタジー異世界。剣と魔法の世界です。エルフのかわいい女の子がいます。もっと素敵ですよ。評判がいいんです」

「ええ、本当かい。伊勢よりきれいなところはなかなかないよ」

「嘘みたいに聞こえますけど、とても素敵なんですよ」

「海外かね?」

「そんなとこです。」

「ははあ、なるほどツアー会社の人でもあるのか。あんたも忙しいね。一応聞くだけ聞くけど、いくらかかるの」

「なんとタダなんですよ」

「あんたやっぱり詐欺師だね。詐欺師ってのはみんなヒキが上手くて困るよ。もうちょっと年行ってたら危なかった。でもなあ、それじゃ騙されてやるわけにはいかないな」

「ええ、じゃあもう詐欺師でいいです。すみません」

「なんだ、謝るなんて悪人らしくない。謝るくらいならそんな仕事やめればいいんだ」

「僕もそう思います。占いではあなたが世界を救うって出たんですが、多分間違いですよね。でも、念のため最後に一つだけ確認させてください」

「なに?」

「もし本当にただで伊勢よりきれいなところに旅行できるとしたら、あなたはそれを承諾しますか?」

「まあ、するかもしれん」

「わかりました。これでまあ、なんとかなります。ありがとうございます」

「うん。もうオレオレ詐欺なんてやめなさい。まだ若いんだから。マッサージ屋でも開くといいと思うね」

「ええ、機会があれば」


 翌週、井上獅子次郎はいつものように公民館へ出掛けた。信号待ちに引っかかり、彼は彼は露骨に顔を顰めた。しまった、ここは長いんだ。まいったな。こりゃジュンの奴に叱られる、あれは時間に厳しいうえに年長だからっていばり腐るんだ。獅子次郎がそういうことを考えていると、そっと春の風が頬を撫でた。いや、そういうこと、嫌なことを考えるのはよそう。季節の移り変わりを楽しむ。実に風流でいいじゃないか。彼は静かに目を瞑った。信号が切り替わる時に、一定の間隔で響くあの音が、彼を不思議な気持ちにさせる。ぴゅん、ぴゅんぴゅん。ああ、こうして聞いてみると面白いもんだ。ぴゅん、ぴゅんぴゅん。春の風はだんだん強くなっていく。おや、これは春の嵐ってやつだな。俳句の季語を調べていたときに見つけた言葉だ。ひゅう、という音が混じる。風は獅子次郎の体を一周するように取り巻いて、ある瞬間で前の方に去っていく。ああ、信号機の音が聞こえなくなった。獅子次郎がゆっくりと目を開けると、そこには信号機がなかった。


 いや、それだけじゃない。妙に空気が湿っている……ぬるっとした感触が頭に落ちてきた。


「グルルルルルル……」

「……とうとう、儂もボケが来たかあ?」


目の前に大きな恐竜のようなものがいて、その影が彼の上に落ちている。ぽと、と大きなよだれが垂れた。

 まあ、異世界に来たのであった。

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