改名、エージェントAHO
突然だが言わせてくれ。
私は異世界ゲート管理機関に所属するエージェントだ。
仕事は主に、異世界から来る危機に対処し、世界の平和を秘密裏に守ること。
それ以外にも細かな雑務はあるが、今は思いつかないのでいいだろう。
とにかく、人々が安全に暮らせるように私は誇りを持って活動している。
「……ねぇ、教えて。貴方はあたしのオフィスに来る道中で、必ずそのナレーションをしなきゃいけない決まりでもあるわけ?」
私の上司、明日野智麗部長が書類の山の間で大きなため息を吐いた。
ふむ、何やら不機嫌そうだが貴女は今日もお美しい。無駄な化粧っ気がなく、キチッとしたグレーのスーツ姿が彼女の麗しさを一層引き立てていると言っていいだろう。今の気だるげな仕草もギャップでよい。しかし、最近は本当に忙しいらしい。サラリと伸びた茶髪の外側が少しほつれている。ああ、私の指でその髪を優しく梳いてやりたい。ダンディな私のタッチに動揺する彼女、やがて二人の顔は急接近、そしてその強気な目に鋭く睨まれ……
「ちゃんと聞いている?」
「んん……! え、えぇ、襟元が色っぽくて素晴らしい」
「次、同じような事を言ったらこのペンを使うから」
部長は持ち上げたボールペンの先をカチカチと出し入れした。こういうバイオレンスな所も魅力でとても惹かれる。なんならそのうち本当に刺されてもいい。
と、本題に戻ろう。
「はぁ、もう一度言うからちゃんと聞いて」
「はい」
「一昨日、異世界のブリアランナという街にある屋敷から、複数の指輪が盗み出されたの」
「指輪ですか」
「えぇ、それもとても危険な指輪」
「人を食べちゃうとか」
「まぁそういう魔法生物もいるけど、今回は魔法が使えるようになる指輪よ」
神妙な顔で言われたが、私は少し拍子抜けした。
「魔法なんてそんな、この仕事を始めた時から不思議でも何でもないですって」
「これの厄介な所は、魔力がなくても魔法が使えるようになるってこと」
「と言いますと?」
察しの悪い私に部長はさらにイライラしている。
「だから、あたしたちの世界の普通の人でも魔法が使えるようになるってわけ! 魔力を持たない人が魔法を使うとどうなるんだっけ、エージェントさん?」
あ、思い出した、生命力を消費するんだ。新人の頃、そうだ、随分前だが魔法の杖を使ってカラカラに干上がった遺体の写真を資料で見たことがある。
「思い出したようね。その時は杖が暴発して自壊したから大ごとにはならなかったけど、今度はアイテムが一つや二つじゃないの」
「具体的にはいくつあるんですか」
「調べた限りでは、属性別で九つ」
「多いような、少ないような」
「日本を混乱させるには十分でしょ」
本番はここからとばかりに部長はデスクを勢いよくバンと叩いて立ち上がった。手の平がヒリヒリしているのか、両手を少し気遣っている。
「今回の貴方のミッションは、この世界に持ち込まれた魔法の指輪を全て回収すること! 以上、詳細は追って連絡するわ。それまでに任務の準備を済ませておいて」
通りの良い声がオフィスに響いた。この声を聴くと尻を叩かれているみたいで、不思議とやる気が湧いてくる。
「了解、エージェント土竜、出動します」
私はその場でくるりと一回りし、自分なりのカッコいいポーズを決める。
「あ、待って、忘れてた」
部長が打って変わって砕けた声を出すのでつい脱力してしまう。
「どうしたんですか部長」
まさか、デートのお誘いではないか。ぶっちゃけこれはあり得ない話ではない。恐らくだが、彼女は私に恋をしている。これはほぼ事実であると言っていいだろう。なにせ、私がこの秘密基地をふらふら体を揺らして歩いているとき、彼女はいつも私を見つめているのである。あれは間違いなく恋する乙女の目だ。きっと今まで上司と部下の関係に悩んでいたのだろう。それは仕方ない、ただでさえ世間には秘密の仕事に、個人の恋愛感情を持ち込むわけにはいかないからな。だが、今になってその衝動が抑えられなくなったと見える。そうか、私と部長がついに交際するのか。
「貴方のコードネームはこれからエージェントAHOになったから、忘れないようによろしく」
「え?」
私を尻に敷いてくれるのではないのですか。
「待ってください。どうしてコードネームが変更なんですか」
「心当たりはない?」
「全くありません」
「……ふぅ、貴方は一週間前の任務で、一般市民を異世界人に近付けないように交通整備をしていた、これは覚えてる?」
「もちろん」
交通整備をしている間に仲間たちが異世界人を捕まえてくれた。陰ながらではあるが、私の大活躍によるところが大きいだろう。
「その時、拡声器を使って『エージェント土竜です、ご協力ください』って言っていたのも、もちろん覚えてる?」
デスクを挟んで詰め寄られ、爽やかな香水の匂いが鼻に届く。
「あー、そういえば言ったような言わなかったような」
「言ったのよ。報告書にもしっかり書いてあるから」
不思議だ、怒っているはずなのに顔は笑っている。まさか、怒っているのは演技で、部長は私に物理的に近付きたいのでは……
しかし気付けば、私の右眼球の前にボールペンの先があった。
「だから、貴方は今日からエージェントAHO。分かった?」
「……はい。承知しました」
「よろしい」
渋々ではあるものの、私はそのコードネームを受け入れた。上司に言われたら仕方ないよね。所詮は仮の名前だ、同僚たちからいちいち馬鹿にされるようなことはないだろう。
自分を適当に納得させ、私は部長のオフィスを後にした。
早速、今回の指輪窃盗の被害に遭った屋敷の人に話を聞きに行くということで、私はキビキビと応接室を目指していた。
「よお、アホじゃん」
「がんばれよ、アホちゃん」
「あ、アホ先輩だ」
「こら、本心でも口に出しちゃだめよ」
「いやいや、正式なコードネームらしいよ」
「マジで?」
基地の廊下ですれ違う先輩や同僚や後輩から口々に名前を呼ばれる。気付かぬ内に私は組織内でこんなに有名になっていたのか。頑張って仕事してきた甲斐があるというものだ。
同性はともかく、異性から向けられる笑みは私に元気ハツラツを与えた。
「やぁ、みんな! おはよう! おはよう! 今日もノッてるかい?」
私はつい楽しくなって、明るい廊下の真ん中で踊り出してしまう。鼻歌交じりに、膝を曲げて跳ねながら左右を往復し、リズムよく両腕を振る。観客は職員五人だけであるが、そのみんなの注目を独り占めだ。
もっと見てくれ、私のダンスを。
しかし、気付けば彼ら彼女らの顔から笑みが消えていた。何やら困ったような難しい顔をしている。
そうか、みんな笑顔を忘れるほど、私のダンスを真剣に見てくれているのか。だったら、こちらも真摯に対応しなければなるまい。
私の踊りは情熱を増す。同時に疲れも生じるが、自慢の甘いマスクは崩さないように堂々と振る舞った。私のショーを見てくれる職員の目を一人一人しっかり見つめ返す。
あれ、おかしいぞ。視線が重ならない。この人たちはどこを見ているんだ。彼らの視線を追って私は後ろを振り返った。
「はぅっ!? ぶ、部長……」
いつからそこに。
にっこりと口角を上げた上司が挨拶代わりにヒールをカツンと鳴らす。背後でそそくさと職員たちが歩き去っていく気配がした。
「部長……まだご自身のオフィスにいらっしゃるのかと」
腕組みをしたまま部長はふぅと息を吐く。
「今回の依頼主さんから、担当のエージェントがまだ来ていないという連絡を受けてね。わざわざ捜しに来たの」
「なるほど。いやはや、自分も今からまさに先方へ伺うところでして……」
「そうなのね。実際は他の業務で忙しそうにしていたみたいだけど」
「そ、それもたった今! ちょうど今済んだところなんですよ! タイミングってやつはどうも人間に意地悪ですよねまったく」
私は笑う。部長は笑わない。
「……どうか笑ってください。自分では気付いていないのでしょうが、笑顔の貴方はとても素敵なのですよ」
「早く行け」
「はい」
私のアトラクティブな口説きが通用しないとは、さすが明日野部長。いつか必ず私の魅力でその固い心を開かせてみせるぞ。
と熱く心に誓いつつも、私はぺこぺこしながら部長の脇をすり抜けていった。