2-6 治癒の魔道具狂騒曲3、ある野球選手の復活
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治癒の魔道具は、すでに国内では3,000台配備され、基幹病院には最低1台は揃った。キュアラーは当初は、ガンや、悪性腫瘍、重症事故など生命の危険があるケースに優先的に使われてきた。しかし、数がそろいその需要を満たせるようになると、使うのを待っていた医者が様々な疾患に使い始めた。
明らかに効果があったのは、腰痛や関節痛であった。キュアラーで処置すると、大部分のケースで完治する。しかし、高齢者の場合にはそのまま放置すると徐々に悪くなるので、定期的な処置が必要である。腰痛や関節痛で苦しんでいる患者は1千万人と言われる。
これは高齢者に限らず、運動選手などでも効果があるが、運動選手の場合は再度の治療は必要ない場合が多い。キュアラーは、外傷などの損傷については劇的な効果を表すものであるから、関節などに損傷がある場合は効果が高く、高齢化により劣化している場合は低いのだとされている。
また、認知症、様々な慢性疾患にも効果があることが認められているが、これは重症化している場合や若年性の疾患ほど効果が高い。また、単発の治療では効果が低い場合も、繰り返しの処置で徐々に効果が高まることが認められている。
そもそも、人が何らかの症状がある場合、その原因がはっきりわからない場合も多い。しかし、医者は目見当で何らかの薬を処方して、それが効かないと別の薬を処方する訳である。その点ではキュアラーは重篤な場合には一般に劇的な効果があり、弱い症状にもある程度の効果がある。
例えば風邪に対しては殆ど効果がないが、それが重症化して高熱を発し危篤になった場合には熱を下げ、体調を改善する効果はある。つまり、何らかの病気で症状が悪化した時には顕著な効果があるのだ。そして、その副作用は認められていない。
結局、キュアラー(Mラジエター含む)は全ての医療所のみならず、特別老人ホーム、整体・整骨治療院などについても設置していないと客が入らないという存在になった。また、個人や、企業も備えるようになってきており、最終的に日本のみで50万組が売れた大ヒットになった。
この要因は、一つにはキュアラーは健康器具扱いでそれを扱うことを医療行為にしなかったこと、もう一つは安めの車並みの値段で余裕のある人には買えるということである。そして、その効果は老衰以外で死ぬ人は殆どいなくなった。さらに、若い人で何らかの身体的欠陥を抱えていた人は殆ど完治した。
関節・腰の痛みで苦しむ人も劇的に良くなるということで、体の故障でスポーツを諦めた人は殆ど復活している。ただ高齢の人は、衰えた機能が復活する訳ではないので、一旦は治っても定期的に治療を行う必要がある。
また、認知症についても1週間ほどの連続処置で症状は大幅に改善して、重度の者も普通の生活を送ることができるようになった。とは言え、キュアラーは歯については殆ど効果がないことも明らかになった。これはその機能が改善でなく修復によるからであると考えられている。
日本では、国全体で年間33兆円の医療費、12兆円の老人介護費用に費やしている。また、それらのために働く人々は300万人に近い。さらに20万を超える病院、10万に近い整体・整骨院、2万を超える特別養護老人ホームなどの企業がある。
キュアラーは、歯科業界には殆ど影響はなかったものの、医療関係の人々・企業に対して、大きな影響を与えた。キュアラーが発売され始めた5年後には、日本の医療費はほぼ半減、老人介護費用も2/3になったからその影響の大きさが解るが、特に影響したのは製薬業界である。
大型の基幹病院の医者・看護師については多少収入が減ったが、激務からは解放された。さらに何より、死んでいく患者に何もできない無力さからは解放された。そのことで医療従事者のキュアラー導入後の満足感が増している。問題は、個人病院であり、経営が苦しくなった病院が増え、廃業された病院が多くなった。
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名波圭吾は、23歳の土木作業員である。彼は、野球の名門笠谷工業高校で2年までは天才と言われたピッチャーであった。身長は178㎝で体重は67㎏、やや細身の体で、高校2年で150㎞の速球、140㎞を越える落差の大きいシンカー、フォークやカットボール、ツーシームも投げる器用さもあった。
そして、人並み外れた努力家であり、コーチに隠れて練習をする面があったが、それが災いしたわけである。大事なある試合で、少し感じていた肩の痛みをこらえて登板し、相手の強豪校の最後のバッターを渾身のストレートで打ち取り完封した。そして、結果として肩を壊して復帰できなかった。
元々、球を速く投げる能力と力はあるが、多くを投げる強健さが足りなかったのである。コーチは何時も無理をしがちな名波を戒めていた。だから、その結果に関しては誰も責められなかった。親は気遣ってくれたが、落ち込み自棄になるのは止められなかった。
その後暫くはだらだらしていたが、それにも飽きてサッカーを始めたが、足は速いものの平凡な選手で終わっている。彼は、結局高校を平凡な成績で卒業して、地元の建設会社に入った。その会社で、土木作業もするし建設重機も扱うということで、なんでもできる若手として期待される存在になっている。
名波は、中学の頃から爽やかでかつスポーツマンでモテる存在であった。近所の小山真希絵という2つ下の可愛い娘が気になる存在であり、肩を壊して落ち込んでいた時も変わらず接してくれたことで、付き合うようになった。そのことで、彼女が大学を卒業したら結婚する約束をしている仲である。
彼の携帯に、突然女性から着信があった。
「突然恐れ入ります。私は株式会社Nリバイブの来島玲と申します。そちらは名波圭吾様でよろしかったでしょうか?」
「はい、名波です。どういったご用件でしょうか?」
「高校時代の野球部のコーチをされていた、室井様よりご紹介頂いて電話をさせて頂きました。私共は才能のあるスポーツ選手で、故障して一線を退いた方の復活を手助けする会社です」
「ええ?復活?ああ、それはキュアラーでも使うのですか?」
「ええ、よくご存じですね。そうです。名波さんは肩を故障して、野球を止められたと聞いています。キュアラーはそのような身体的な故障には極めて有効です。どうですか?昔の肩に戻って、またボールを投げてみたいと思いませんか?」
名波はその声に、どうしようもなく心が動くのを覚えた。最後の全力投球の後の激痛と絶望感、何度も襲ってきた深く暗い後悔の念を思えば、その前に戻れるというのは耐えがたい誘惑であった。
彼は、すぐに来島の誘いを受け、会社に訪れた彼女の話を聞いた。来島はきちんとスーツを着て、女性ながら如何にもやり手の営業マン風であり、汚れてはないが作業服姿の自分が気恥ずかしかった。会社の者は彼女を保険のセールスマンだと思っただろう。
「え!その費用は掛からないのですか?」
「はい、わが社はマジマコーポレーションのグループでして、間島会長の肝いりで始めました。そもそも、現状の所ではキュアラーは大病院以外買えませんが、私どもは同じグループの会社で作っているのでそこから入手しています。それで、病院での治療後には1週間ほど合宿をお願いしたいと思います。
その間にどの程度、回復出来ているかどうかを試す訳です。その合宿は地元のT球団の傘下の養成部でやって頂きます。それで、プロでやれるということになると、T球団から話があると思いますよ。ただ、その間の合宿中の費用も含めて費用負担は不要ですが、日当や集合場所への交通費などは支給しません」
名波は誰に相談することもなく、すぐ決心して合宿までの契約を済ませ、まずは真希絵に電話した。
「あのな、マジマコーポレーションのグループ会社から、肩の故障を治してくれるというので、申し込んだ。費用は掛からんらしい。俺がプロに通用したら、そっちから費用は貰うらしいよ」
「ええ!肩が治るの?それもただで?」
「ああ、キュアラーの話は聞いているだろう?あれを使うというから、治るやろう。事故で死にかけた人も1週間で治しているからな」
「でも、治って、通用したらプロに行くの?」
「ああ、言わんかったけど、やっぱり、お前が大学を出て、俺がドカタというのは気が引けてたんや。だけど、プロの投手って言えばそこそこじゃん。だから、折角のチャンスだ。頑張るよ」
「うーん、そうか。チャンスだもんね。でも、スターになっても私を捨てたらあかんよ」
「それは当り前や。まあ頑張ってみる」
「うん、頑張ってね。それでその治療は何時よ?」
「明後日だ。社長にはもう言ったし、頑張れって言われた。辞めることになると困るし、残念だけど、俺がスターになると、会社も有名になるってね。まあ気楽にやれってさ」
キュアラーを使った治療は簡単であった。場所は小さな医院の診療室で、まずレントゲンと超音波映像が撮られて、診察室に入りそれを山内という医者に解説された。
「もう、散々見たでしょうが、この骨と筋肉と神経の位置がずれているので、動かすと痛みがあります。これをこのキュアラーで治療すると、この正常な配置になって治るはずです」
治療そのものは短時間で終わった。シャツの上からキュアラーを当て、看護師が操作するMラジエターで魔力を当てる。その間は、別の看護師が超音波影像を撮っている。名波は最初に肩が少し暖かくなり、その内に何か肩のあたりがぐにゅぐにゅ動くのを感じる。全く痛くなくむしろ気持ちが良いと感じる。
超音波映像を見ていた山内医師が言う。
「うん、10分経ったな。正常になったように見える。これで終わりましょう」
その後、山内医師に別室に連れていかれ、シャドーピッチングを行う。最初は軽く、だんだん強くと指示される。そうしてやってみると、同じ動作の時あれほど馴染になった痛みがない。最後は恐る恐るだんだんほぼ全力で腕を振ったが、全く痛まなかった。
そして、自分の肩を触りながら肩を回して今までのことを思っていると、目がぼやけたと感じると涙が出てきた。ぽたぽたと垂れるそれを、拭っている名波を見ないように山内医師がさりげなく言う
「うん、やっぱり治ったようですね。名波さんの高校生の時の写真に比べると、今は腕も肩も大分ごつくなっています。成人したのと労働の成果ですね。今度は、前ほど簡単に故障しませんよ」
名波は、その後乗って来た車に乗って指定された合宿所に行った。そこは、医院から車で5分ほどのグラウンドの傍の宿舎のようなところであった。そこの1Kのアパートのような所に住んで、村井というトレーナーから指導を受けるようになった。
走り、跳び、ジャンプして運動能力を計られ、投球も段々負荷をあげていった。硬球による全力と言われた投球は5日目であった。その時のモニターに示された、153㎞という数字に村井というトレーナーも「ほお!」と思わず感心して聞いた。
「今のは全力かな?」
「いえ、100%はまだ怖いのでちょっと放れません」
その後、T球団から何人か人が来て、取りあえず半年の試用で契約をして、半年で250万円であるがプロとなった。そして、半年後の開幕には2軍を卒業して1軍に昇格した。
その年シーズン、24歳の名波圭吾は22勝3敗、防御率1.82で新人王、最優秀選手、沢村賞などピッチャーとしての賞を総なめにした。しかし、残念ながらチームは優勝することができず3位に沈んだ。彼が、小山真希絵と結婚したのはそのシーズンオフであったが、スター選手、とその不遇時代を支えた健気な女性ということで真希絵も大いに話題になった。
なおT球団に限らず、プロ球団はキュアラーを買って、トレーナーに預けて使わせたのでその後、球団支配下選手で故障者がでることは無くなった。




