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ノー残業デー

作者: 伴

ふわぁっ。

涼しさと生温い風がまざって頬を撫でる。何週間かぶりにビル街を歩くともう初夏の風に変わっていた。

タイツからストッキングに変わった足元も、気分とは違って軽やかだ。

ほとんどを自宅で勤務するようになってからもう何週間経っただろう。

何だかいろいろうまくいかない。

三月には家の鍵も落としちゃったし。


「わー久しぶりじゃない、三週間ぶり?」

小走りでこちらに駆け寄ってくるのは隣の課の未希だ。

年も近いせいでちょくちょくご飯を食べに行く仲だけど、外出できないせいであんまり連絡をしていなかった。

「ひさしぶり。今日出社だったんだね。毎週出社してる?」

出社日はそれぞれの課に任されており、会社では特に規定を設けていない。できる限り自宅で勤務するように、という指示だけだった。

「そうだねえ、だいたい水曜日は会社来てるかな。別にやることがあるわけではないんだけど、家にいると煮詰まっちゃうしね」

未希は一人暮らしだ。正確には今年からの一人暮らし。

去年までは「ぼさっとして家事もできない薄給男」と結婚していたのだが、晴れてシングルになった。

一度会ったことがあるけれどそんなに悪い人には見えなくて離婚のときは驚いたのだが、彼女曰く、

「別に悪い人じゃないけど良い人でもないのよ」

とあっさりしたものだった。

じゃあ何で結婚したのよ、と突っ込みたいところだったけど。

「でも課長代理なんてやるじゃない。仕事一生懸命だったもんね」

一生懸命、という言葉に違和感を覚える。

先月末、勤続八年を迎えたこの会社で私は昇進したのだった。

きっと有能な先輩社員が他に引き抜かれて転職してしまったので繰り上げ当選も含まれているだろう。

「昇進した途端在宅勤務だから全然実感ないけどね」

自分が努力した覚えはあまりないので素直に喜べなかった。

未希はいつも素直に言葉をくれる。

彼女こそ昇進を望んでいたのを知っていたので当たり障りのない言葉しか返せなかった。

もし私が昇進せずに、彼女だけがそうなっていたらこんなふうに素直に言ってあげられるだろうか。

正直なところ自信が無い。

「今日はひさしぶりに話せてよかった。今度オンライン飲み会でもやろうよ」

そう言って忙しそうにエレベーターに乗り込んでいった。

その後ろ姿はいつも颯爽としている。春らしいパンツスーツも良く似合っているのだった。

がらんとしたビルの入り口。人の少ないフロアの空気。

久々の出社は何だか変な感じだ。

家でも仕事はしているので案件はゆっくりと進んでいるし、ミーティングもオンラインで行っているのだけど長い連休明けのような気持ち。

すれ違う人は圧倒的に少なくてどこの空間もまばらだった。

用事のあった二階を出て、自分のデスクがある六階に向かう。


『エレベーターの乗車は二人まででお願いします』


乗降ボタンのところにそんな張り紙がしてあった。アルコールポンプも置いてある。

ここ数か月のうちに世界が変わってしまったようだった。

仕事のやりかたも。

連絡方法も。

外出も。

そして、人との付き合い方も。


頻繁に会っていた冬とは違って、暖かくなってからは顔を合わせることもメールを送ることも激減していた。

ましてや電話なんてできる筈もない。

最初は人目を気にしてメッセージをくれていたようだったが、最近はそれも途絶えた。

きっと夫婦そろって自宅で仕事をしているせいで私に連絡してくる隙が無いのだろう。

こちらから送って向こうのディスプレイに表示されてしまっても面倒だ。

せっかくこれまで穏やかに付き合ってきたのに、緊急事態宣言で一気に終了へ向かっている。

もしかしたらもう終わっているのかも?

元々付き合っていたのかな?

そう考えても大して寂しい気持ちにならなかった。

そもそもそれだけの関係だったのだろう。不倫なんて。

期待して付き合っていたわけではないんだから。

乗降ボタンの前で待っていると横からすっと手が伸びてきた。

一瞬びくっとするとその手は昇りボタンを押す。

「ボタン押し忘れてるだろ?上でいいんだよな?」

嫌になるほど耳に馴染んだ声が後ろから聞こえた。振り返りたくないのに顔を見上げてしまう。

「ひさしぶり」

悔しいけれど嬉しかった。ただその目が私をじっと見ていることが。

「課長。お久しぶりです」

何でもないふうに返事をする。

他の人に見られていないか、を咄嗟に確認してしまうけれど、今は在宅勤務期間。

いるはずもなかった。

エレベーターがあっという間に来て、一緒に乗る形になってしまう。

「連絡できなくてごめんな。今日出社だったんなら連絡くれればよかったのに」

できるわけ、ないでしょう。

そう言い返したいのをこらえる。

「課長こそ」

顔は見なかった。

「悪いな。家だと怪しまれそうでさ」

つまり、怪しまれてしまう関係なのだということだ。

あいにく弊社自慢のハイスピードエレベーターはあっという間に六階に着いてしまう。

課長はここではなくさらに上の階に行くようだ。

ボタンを見るとそこは社長室と人事部のあるフロアだった。何か用事でもあるのだろうか。

言葉を無視して私は降りる。

「じゃあまたな」

また、があるとは思えない。

自分のデスクについてからもエレベーターでの数十秒間でどっと疲れたのを感じていた。

どうしてこんな関係になったんだっけ?

考えたくもないのに思い起こしてみる。

きっかけは単純なことだった。

会社での飲み会の帰り、三次会まで参加してたまたま帰る方向が一緒だっただけだ。

その時私は会社に気になっている人がいた。でもちょうどその飲み会で彼女がいることやもうすぐ結婚を考えていることを偶然知ってしまったのだった。

少しやさぐれた気持ちがあったことは否めない。課長もちょうどその時夫婦仲がうまくいっていないと言っていた。

けれども課長は私の好みのタイプだったし、単純に話していて楽しいと思えたのだ。

そんな関係がずるずるとして今に至る。もう一年と少しになる。


午前中の仕事をこなし、私はコンビニに出た。

同じフロアに知り合いは誰もいないし、いつも行っているランチのお店も根こそぎ閉まっているので他に選択肢が無かったのだ。

朝から課長に会ってしまうなんて。

もやもやとした気持ちはまだ残っている。

前にも後ろにも進めない。私から別れを告げればよいのだろうか。

「あれ?加藤?今日出社してたんだ」

お弁当にしようかパスタにしようか迷っていると横から声をかけられる。

「…お疲れ様。高木も?」

ネクタイは締めずにラフなワイシャツ姿だ。

「ちょうど良かった。そこの公園で食わない?」


ちょっと忘れ物をした、という高木が戻ってくるのを待ちながら公園でお弁当を開けた。

レンジで温めてもらったあつあつのお弁当。

漬物まであったかいのには抵抗があるがワガママは言えない。

「お待たせ。悪かったな」

お互いの在宅勤務状況とか他愛もない話をして、おやつに買ったチョコを分けたりしながらのんびり過ごす。

公園に来るのっていつぶりだろう。

有意義な時間だな。さわさわと揺れる緑の中でご飯を食べるなんて。

一瞬会話が途切れて高木はポケットから赤いものを取り出した。

「これさ、加藤のだろ」

それは、私が前に無くしたキーケースだった。

どこかに落としたものと思っていたのに、想像できないところから出てきて戸惑ってしまう。

「え、なんで高木が?」

「三月の送迎会の時に拾ったんだよ。うちの課が幹事だったから、最後に席を全部見て忘れ物ないか確認してるときにさ」

そうだった。送迎会で落としたのだった。

でもそんな前に発見されていたとは。

「っていうか、何でずっと持ってたの?返してくれればよかったのに」

あの時鍵が無くて焦ったことを思い出してついそう言い返してしまう。

「外出たらもう加藤は帰った後でさ。それにあれからすぐに緊急事態宣言だったでしょ。連絡先知らなかったし」

それはそうだ。これまでも飲み会で隣になったり自販機で会えば世間話くらいはしたけど、連絡先を交換する程ではない。

顔見知り程度だ。高木にとっては。

「社内メールで連絡しても良かったんだけど、そもそもこれが加藤のだって知ってる時点で気持ち悪いかと思って」

たしかに何で知ってるんだろう。

黙った私を見てその疑問に気づいたのか高木は答える。

「いうつもりなかったけど、俺、課長とのこと気づいてたんだよ」

耳を疑った。

課長とのことってことは、業務に関してではないだろう。

気づいてたってこと?

慎重に行動していたから誰かが知ってるなんて思いもよらなかった。

「えっと…」

何か言葉を繋げないと、と思うけれど何も言い訳もできない。

気づかれていたことに焦るけれど、それと鍵がどう関係するかもわからない。

「別に他の人にもいうつもりないから。でもその関係で幸せにはなれないって思ってるよ」

ぽん、と私の手のひらに鍵をのせて呟く。

「加藤みたいなタイプには向いてないだろ」

私は何も返せず高木の顔を見ることしかできない。

「突然悪いな。じゃあ先に会社戻るから」

そう言って行ってしまった。


一体今日は何なのだ。久々に出社したと思ったら。

未希とはいつものように話せて嬉しかった。

でもそれと同時に、彼女の素直さが私にトゲとなってしまう。

昇進に向かって何か努力したわけではないのだ。ただの繰り上げ当選なんだから。

もちろん普段の仕事は手を抜いたつもりは無いし、締め切りも考えてやってきた。大きな失敗をしたこともない。

けどそんなの皆やっているでしょう?

そう思っているから素直に喜べなかったのだ。

課長だって。なんであんな風に自然に話せるんだろう。

久しぶりだからもっとたくさん言葉をくれても良かったのに。

今日だって一日会社にいるのをわかっているのだから何かしらコンタクト取ってくれても良いのに。

無意識に待っていた自分に気づいてうんざりしてしまう。水曜日に出社したのも迂闊だった。

それに、高木だって…。

キーケースを持っていたのは意外だったけど気づかれていたなんて思わなかった。

そこに気づくんなら何で私の気持ちには気づいてくれなかったんだろう。

高木が彼女とどうとか、一年前の飲み会で知らなければ課長とこうなることもなかったのに。

そうなすりつけてもしょうがないことはわかってる。


翌日、さっそく未希とオンライン飲み会をしてみた。ミーティングでテレビ電話に慣れたせいか違和感はない。

お互いがそれぞれ食べたいものと呑みたいものを並べて話せるので都合も良い。

「でもさ、結婚に向かって頑張るのってなんか違うと思うよ。離婚した私が言うと説得力ないけどね」

話は自然と社内の人のことになっていた。

最近婚活をして三か月で結婚した女性のこと。私がいうと僻んでいるように聞こえてしまうだろうが、未希がいうと何だかすかっとする。

未希が離婚した本当の理由は夫の浮気だったのだそうだ。

「あんな冴えない男でも浮気できるんだって思っちゃった。それに相手の女の人、どういうタイプだったと思う?」

自嘲的に微笑みながら聞いてくる。

「向こうの女の人見たことあるの?未希と正反対のタイプとか?」

ふふっと笑って教える。

「それがさ、私と何となく似てるタイプだったんだよね。だから何でなのって問い詰めたら、見た目は見てるけどお前は中身が変わっちゃったって。仕事もばりばりやっていて可愛げがなくなったって」

ふぅ、とため息をついて画面の向こうでビールをあおる。

「そういうのもひっくるめて私なんだからさ。どうしてそこを理解できないんだろう。言わせてもらえば、向こうだって結婚前とは全然違うのに」

私は課長の奥さんを知らない。あの人はスマホも無防備に置いているから見ようと思えば見れたのだけど、あえて見なかった。

私とは違うタイプだったんだろうか。

‘加藤みたいなタイプは向いてないだろ’

あの時高木はそう言った。私はどんなタイプなんだろう。

それがどういう意味かがわからないけれど、軽々しいような言い方ではなかった。

「そういえばさ、高木に会った?この間の出社日」

意外な人の名前が出てきたので驚く。

「会ったけど…未希、高木と知り合いだったっけ?」

「あーそっか、言ってなかったかも。同じ大学なんだよね。話すようになったのはこの会社に入ってからだけどさ」

そうだったのか。

「私もこの間ちょうど会ってね、あんたのこと気にしてたから今日来てるよって教えてあげたんだけど」

「どういうこと?」

にんまりとした笑顔が返ってくる。

「これ言ったら怒られそうだけどさ、あいつ前から気にしてたみたいよ。がつがつ目立つように仕事してないけど、さりげなくサポートしてたり、時には厳しく後輩に教えてるのが良いんだよな、って言ってた」

高木とは所属は違うけど同じフロアだ。でも仕事ぶりまで見れる距離じゃないのに。

「だからさ、もしかして好きなんじゃないの?ってからかったら自然に気になってきてるって言っててさ。思い切って伝えてみようかって時に緊急事態宣言だったからちょっと焦ってた」

そんなこと知らなかった。この間もそんなこと何も言わなかったのに。


次の週の出社日を合わせて、私たちはまた同じ公園にいた。初夏の空気の中でのランチタイムが気持ちいい。

照れくさそうに高木が話す。

「喫煙室からうちの駐車場よく見えるでしょ。だから残業の後に二人が一緒に帰るのよく見えたんだよね」

煙草を吸わないから知らなかった。

「加藤はしょうがないけど、課長は喫煙所に来ることもあるんだからちょっと無防備だよな」

会社を出て少し先のコンビニの駐車場で待ち合わせることもあったけど、水曜日はそうやって一緒に帰っていたのだった。

「水曜日ってことも気づいてたよ。会社がノー残業デーだからだろ。一応設定しているけど、そこまで厳しく言われるわけじゃないから俺は結構残って仕事してたんだよ。他の社員はほとんど帰るから、静かになって仕事しやすいしな」

会社が決めたノー残業デーの水曜日。

そこにわざと残業して私は時間を合わせていたのだ。

他の曜日だと他の社員の帰る時間はばらばらで待ち合わせはしにくい。

でも水曜日ならほとんどが定時で帰る。三十分ずらすだけでも、誰かに会うリスクは減らすことができる。

そこにあの人が気が付いて水曜日にしたのだった。

「で、駐車場で赤いキーケース取り出したのをたまたま見てさ。はっきりした色だったから覚えてた」

キーケースはあれからすぐに捨てた。もらったものだったからだ。

「それにさ、課長は異動で支社へ行くことが決まったって聞いた。だから」

私はずるずると今の関係になってしまった。何も努力せずに流されて。

でも新しい関係はちゃんと自分で行く先をにぎりしめたい。

キャリアも恋愛もずるずるなんてもう嫌だ。

「高木は私にどうしろっていうわけ?彼女いるって言ってたじゃない。結婚もするかもって。去年の飲み会で」

苛々した気持ちのままぶつける。

「あの時、彼女とはもう別れそうな感じだったけど、周りのやつらが勝手にいろいろ言いだして押さえ切れなかった。俺も隣に加藤がいてちょっと緊張してたんだよ。嬉しかったんだけどさ」

その時ちゃんと本当のことを聞くことができていたら。

「彼女ときっぱり別れたよ。でもそうこうしているうちに課長に取られてさ。俺もふがいないな」

だから、付き合ってほしい、と照れくさそうに言うのだった。

課長とのことはあっけない。ただ在宅勤務になっただけでこの状態だ。

すごい好きなわけではなかった。何かを望んだわけではなかった。

でも流されるように自然消滅なんて私もふがいない。

けじめは私がつける。

「ちょっと待ってて、終わりにしてくるから」

そう言って私は発信ボタンを押した。

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