夏の大三角
純文学的に書きました。
こんなものを書く者がいるのかとお知りおきください。
よろしくお願いします。
感想・評価などお待ちしております。
夏の大三角という天空のトライアングルの音色は僕の耳には届いていなかったが彼女の耳には届いていた。
その音色は特に夏の夜空の澄んでいる日に心地よく響くようで満天の星を見上げる彼女の眼は小宇宙を投影していた。僕はあの目をついぞ忘れた事がない。
初夏の夜、キャンプに行ってみんな寝静まった頃にテントを出て見上げたあの夜空。彼女の横顔と瞳。終えた花火の微かな火薬のにおいがその記憶を僕に植え付けた。僕の夏、大三角の幻の音色とそれが聞こえる彼女が僕の夏の象徴となった。
「ね、夏の大三角って知ってる?」
「知ってるよ、習ったじゃん」
「習っててもどこにあるかを知ってなくっちゃダメよ」
「分かるよ」
「じゃあ、どこ?」
「あれだよ」
僕はほとんどあてずっぽうに広大無辺なる夏の夜空に指を突き刺した。
「違うわ。向こうよ」
すぐに訂正する彼女はクスクスと笑っている。不思議と恥ずかしさはなかったが僕はその位置を覚えられそうになかった。
僕はそれを悔しがった。すると彼女は「にひっ」といたずらっ気が混じった微笑みを見せて僕を揶揄うのだった。
両親が高校の同級生という事もあって僕は彼女と幼いころから縁があり、小学校が一緒となるとよく遊ぶようになった。それでもやはりどこかで転機は訪れるもので彼女は僕と遊ばなくなった。
理由は僕にある。
小学校の4年生の頃、男子の中でツツジの蜜を吸うのが流行っていた。僕も好んでツツジの花を花壇から毟り取ると仲間と一緒にその蜜を吸っていた。
ある公園のその中で僕は自然的なお菓子を見つけて得意げになっていた。ツツジの花はたくさんある。学校の生徒全員がその花を毟り取ってもまだあるだろう。ほのかに甘いような味のする蜜が僕は好きだった。
男子が美味しそうに吸うので誘惑された数人の女子も同じように花を毟り取った。小さな手の中にはツツジの花が大きく見えてそれはもう美しいことこの上なく思われた。
それなのに蜜を吸う僕らから離れた位置に彼女は立っていた。気恥ずかしそうに僕らをチラチラと見てはそっぽを向く。
「ね、もういいでしょ。ほら、遊ぼうよ」
そう言って呼びかける彼女の眼は僕らが蜜を吸うのを嫌がっている様子だった。
「君も吸えよ。美味しいよ。ちょっぴり甘いんだ」
「いや、ぜったいにやらないから」
「どうして?」
「いやなものはいやなの!」
「じゃあ、仲間じゃないや。遊ぶならひとりで遊べばいい」
こういう僕は蜜を吸いきったツツジの花を加えて得意がっていた。この味を知らない奴は損をしていると信じていたのである。
「もう知らないから!」
そう言って彼女はピンク色のランドセルを背負うと公園を走り去った。
「ちぇっ、帰っちゃった。美味しいのにな」
隣にいる仲間に言うと賛同するように肩をすくめて見せた。
僕らは彼女抜きで遊び始めたが彼女が出て行った公園の出口を見る度に僕の眼には花壇の傍に落ちている無数のツツジの花が目に付いた。
以来、彼女は僕らを避けるようになった。僕らも僕らで避ける彼女を強いて相手をしないように努めた。それでもやはり男女の違いが表れ始めて仲間は男だけになった。
その日から僕はあの公園に入るのを躊躇うようになっている。ツツジの花を一度だけ毟り取って蜜を吸うと以前ほど味がしないように思われた。てんで美味しいと感じなかったのだ。
帰り道、ひとりで帰っていると右側が空っぽになっているのを認めた。川沿いを歩いて帰る僕は夕日に赤く染まる川面を眺めていた。夕暮れをカモの群れが鋭い鋭角に並んで飛んでいく。
僕は怖かった。夏が来るのが怖くなっていた。僕は僕の夏を失ったんだ。それもほとんど永遠に。
小学校最後の夏の夜、僕は初めて夏の大三角を見つけられない年を過ごした。僕にはあの音色は届かないのだ。それも永遠に。僕は僕の夏を取り戻すためにこの音色を聞き分けなければならなかった。
〇
夏の騒音が僕の耳を劈いている。
蝉の鳴き声や慌ただしい人の動きと夏の暑さが僕に襲い掛かっている。
中学校に上がった僕はある部活動で運命的な出会いをした。
それは吹奏楽部であった。運命的と言うからには天啓的なメッセージがあったと言うのは間違いではないだろう。
鉄の棒を三角形に曲げて作られる打楽器は僕を魅了した。奏でる音色がまさしく夏の夜に天空から届く神秘さが備わっているように聞こえたから。
と、言っても僕は吹奏楽部に入部しなかった。部員は女子ばかりで気恥ずかしかったし、友達にバスケ部に誘われていたからだ。
それでも僕はあの音色を忘れられなかった。ショッピングセンターの一角にあるCDショップの隅にギターや他の楽器と一緒に置かれているその打楽器を見つけた時は思わず喜びの声をあげた。値段もそれほど高くない。僕は即決でその打楽器を、天空の体鳴楽器を自分の物にしたのである。
購入して家に帰ると早速打ち鳴らした。僕の6畳間にその音色は木霊した。耳にはその音色しかないように思われた。魔法がかけられた気分になった。まさしく天上の音色だったのである。僕は、これは僕に相応しくないように思われたがそれで夏を思い出したのであった。
音の波紋が聴けるように響くのが心地よかった。とりわけ僕を魅了したのはその形だった。形は三角形だが不完全なのである。途切れて端と端が合わさらないその不完全なる形が僕が持つ事を認めているかのようだった。その不完全さが僕への許可だったのである。
僕は喜んだ。天空から落ちてしまったからこそ不完全な形になったのだと自分に言い聞かせて妥当性を認めながらその体鳴楽器を持つようになった。
中学1年生の初夏の夜に僕はどこにあるかも分からない完全なる大三角へ向けて応答するように不完全なる音色を響かせた。
夏の夜は満天の星を浮かべていたがどれも輝いていて星間の彷徨は僕を大いに惑わせた。それでもやはりあの日の夜を思い出して僕は許されたように思った。罪などないように感じていたのに。重荷など背負った覚えもないのに僕は許されて身軽になって空いた背に喜びが溢れるのを感じた。
僕は許された。夏の応答が僕には聞こえていたのである。大三角からの音色は幻でもなんでもなく確かに聞こえる波紋であり、それを媒介するのが僕の堕落した不完全なる体鳴楽器だったのだ。
それなのに僕のこの喜びはすぐに雲散霧消した。
彼女が2年生の男に告白されて付き合いだしたという噂を耳にしたのである。
〇
夏は僕から遠ざかる。永遠に。一歩近づいたと思ったらそれよりもっと先へと離れて行ってしまう。
僕はバスケ部に入部した。夏は大会があって特に忙しい。夏の合宿と呼ばれる諸先輩が恐れるバスケ部の夏を象徴するものがあるらしい。野球部の友人が僕に言った。甲子園がなくっちゃ夏は始まらない、と。
それぞれの夏がある。うだるような暑さとクーラーの救い、海、空、入道雲、風鈴の音、スイカ、かき氷など多くの夏の象徴が昔から作られている。夏を彩るそれらが人を感じさせるのだ。でも、どれも弱い。僕には甚だ弱かった。一本の筋として立つ事も出来ない薄弱なるそれらは僕の前では無力に等しい。40度の真夏の気温も僕を焼く事は出来ない。海も空も凡そ夏を作り上げる大自然の全体すらも僕を魅了するには足りなかった。
僕は病んでいる。夏の病が僕をそうさせている。夏の切望と大三角の羨望が僕を歪めていた。
僕は、夏を通して彼女の瞳を見たかったのだ。あの日の瞳を、純粋なる小宇宙を反映させたあの瞳を僕に向けて欲しかったのだ。
傍らの空虚と心の悔恨は僕から離れない。僕はもうきっと耐えられない。すんでのところなんだ。一条の光がこの闇の中に差し込むならば全て照らして欲しい。僕が見るに堪えないと暗闇に押し込んだ歪んだ欲望が見えるだろうか。
夏という奔放なる大自然のレンズが僕を捉えて離さない。僕は、カバンの中にトライアングルを持って家を出た。僕を取り巻く全ての物が引き留めていたがそれを振り払って僕は家を出た。
僕は破滅をほとんど確信めいた予感として持ちながら当てもない無茶無謀に家を出たのである。溜め込められた欲望を爆発させるように弾かれた勢いそのままに突き進んだ。
自暴自棄の突進は僕を傷つけるのに躊躇いを失わせた。いや、いっそこのまま全てを打ち壊してしまった方がいいとさえ道中に結論付けた。街の中へとさしかかると酷い人だかりで夏の祭りに夜店が出て人を集めていたのである。
夏の花火大会であった。夏の象徴がここにも!
僕は浴衣を着ている男女を見ないで通り過ぎていった。恐らく探せば同級生がいるだろう。だが、そんな時間はない。僕は突き進んだ。猛り狂ったイノシシのように。人混みを掻き分けていく僕の鈍角の牙は凶器としては無力であった。
そしてある小高い山の上にある花火大会を見るには優れた場所に僕は辿り着いた。人はほとんどいなかった。
小高い山の上にある霊園のすぐそばに小さな公園がある。その公園の縁をなぞるように等間隔に置かれているベンチのひとつに僕は座った。
快晴で雲一つない夜空は綺麗だった。それでも夏らしくはない。僕はカバンの中からトライアングルを取り出すと夏の大三角を探した。
僕には見つけられなかった。どこにもない。音色はいまや聞こえなくなっている。
「ここだよ。ここ。絶好のスポットなんだ」
若々しい男女の声が聞こえた。僕は、僕は振り返る事が出来なかった。隠れるようにしてその場にしゃがみ込んだ。
彼女だった!
噂の2年生の彼氏と一緒にここへ来たのだ。
僕はその時点で闇に潜む獣だった。牙が鋭く剥く。心の中の闇が照らし出され始めて露になった欲望と未だに隠されている全貌を見る事が出来ない恐ろしい感情とで渦を巻いてどす黒い感情を生まれていく。
ベンチに座って2人は談笑している。楽しそうだった。僕は、こんなに苦しんでいるのに!
花火は午後7時から始まる予定となっている。もしかしたら徐々に人は増えてくるかもしれない。僕はここに留まって何をしようとしているんだ。手にはもう用をなさなくなった不完全なる三角形の鉄の棒があった。
そして彼氏の男がスッと右腕を挙げてある一点を指で示した。彼の肩に頬を当てて一直線に伸びて行く線の先の何かを見ようとする彼女の瞳が輝いた。
小宇宙を投影させて輝いている。満天の星を浮かばせながら。
すると僕はスッと肩の力が抜けて憑き物が落ちたように身軽になるのを感じた。僕も彼女と同じように指の先を見る。
夏の大三角があの日よりも大きく見えた気がした。
僕は手に持っていたトライアングルを掲げてそれを打った。小さな公園にそれは心地よく響いていた。僕はそのトライアングルをベンチに置いて山を駆け下りた。そこは獣道だった。どこにも道を見出せない夜闇と木々の葉に覆われた道ならぬ道を僕は突き進んだ。後方から花火が打ちあがる大きな音を聞きながら。
そしてトライアングルの音色に振り向いた彼女の視線を感じながら僕は獣のようにその場を離れて行った。
全てを打ち壊して帰る場所を失った僕は途方に暮れながら打ちあがる花火を見上げて涙を一粒だけ零すとそれを別れとして歩き出した。