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雨の日


 飛んでいた意識が戻る。

 ざぁざぁと雨が降る音を、床に転がって聞いている。

 子供が一人、汚れた部屋に転がっている。

 目は虚ろで、頬はこけている。

 手も足も皮の張った骨。

 薄汚れた服。

 異臭。

 傷だらけ。

 蠅。

 膿み。

 蛆。

 もうすぐ死神がドアをノックするだろうと、ありありとわかるそのさま。

 呼吸していることから、まだその死神に連れ去られてはいないことだけはわかる。

 一つとっても泣き出して叫び出しておかしくない状況にありながらも、子供は涙一つ流していなく、叫び声もない。虚ろな目をして音を聞いている。


(雨……水……)


 それが水が降る音だ、ということに気付くと、ずりずりと汚れた地面をはいずりだした。汚れと、血と、膿みの道ができ、通り道の虫が騒ぐ。一つなんとか掴んで、口の中に放り込んだ。何なのかよく確認せずにそしゃくしたそれは、うまいともまずいとも感じなかった。

 助けてほしい。

 その言葉を口にすることはもうなかった。

 言えば言ったその子供を叩く人物はもう数日以上見ていないが、それをこの部屋で叫んだところで無駄だと悟っていたからだ。

 もう、何度もやってみたことだったのだ。

 子供にとって叩く人がいるときに、テレビで『助けてと声を上げて人を呼ぶことが大事です』といっていたのを覚えてみて、助けてくださいと必死に叫んだことだってあったのだ。

 けれど、現実はこれであって、何も変わっていない。

 誰も助けてなどくれない。

 それだけがはっきりわかったことだった。

 その現実を知ってしまったら、その言葉を口にするのはただ体力を浪費する無駄な行動に過ぎない。

 伸ばして無い手どころか、必死に伸ばした手も鬱陶しそうに、面倒くさそうにされるだけ。

 悲しかった。始めは泣いて、泣いて、泣きつくした。叩かれたって、そうでなくたって、ただ体が冷えていくようで悲しくて泣いた。

 その涙も今はもうない。

 ずりずりと這いずる。目的地は、視覚で見ると近いがとてもと置く感じた。

 ゆっくり、ゆっくり、時間をかけながら立ち上がった。それだけで意識が遠くなるようだった。

 外側から鍵をかけられているため、部屋からでることはできないが、ベランダにでることはできる。

 おかれた水は飲み切ってしまって、食料はずいぶんとなくて、動くのも億劫で、いろんなところが痛かった。

 死んでしまいたくはなかった。

 いつかテレビで見たような、光あるところに生きたかった。その願望も朧気で、確かなものは想像できないけれど、きっと自分にもいつか行けるものだと信じた。

 だから、水を飲まなければと思った。

 幼くとも、このままでは終わってしまうのだという事を悟っている。

 泣くことをもしなくなったのは、悲しくないからではなくて、ただそれが消耗に繋がるからだ。

 そぎ落として。

 そぎ落として。

 そぎ落とし続けて。

 大人なら生きている意味さえわからないような状態で。

 色々なことを知らないという事が、一種の諦めなない作用になって。

 子供はただ生きたくて、生きようとしていた。


(水。止む前に)


 からからと、精一杯の力を込めてベランダを開ける。雨音は激しい。

 景色が見えなくなるから、お日様が届かなくなるから、暗闇に落ちてしまうから。

 子供のにとって、太陽の光はただいつも温かいものだった。

 そんな理由で嫌いだった雨は、今は空が助けの手を伸ばしてくれているように思えた。


(……手。誰も掴んでくれない、手)


 手をつないで歩く親子を見たことがある――引きづるように連れられたことならある。

 抱っこされる泣いている子を見たことがある――放置されて置いていかれる。

 お菓子を強請っている子供がいた――そんなことを言えば怪我が増える。

 転んで泣いている子供に、知らない人がかけよっているのを見たことがある――自分の手は誰も取ってくれない。


(手。伸ばす、もっと、もっと伸ばせば、誰かが!)


 酷くのどが渇いていた。

 酷く冷たい気持ちだった。

 酷くどこかしらに痛みがあった。

 だから、天から降り注ぎ続ける水を掴むように手を伸ばした。

 だから、降り注ぐ水の根元に届くようにと手を伸ばした。

 乗り出して、ちっぽけな残りの全てを込めて手を伸ばした――

 ところで、ここはマンションの3階であった。


(――あ、空を飛んで――)


 乗り出せば、落下する。

 無理やり上った。背が足りていない。傾けば一気に落ちる。

 勢いがついたそれをとどめる力もない。

 当然の結果として、頭からくるりと落下を始める。

 スローモーション。

 きっと他人からすれば短い時間のそれは、とても長く感じるものだった。


(高いところから落ちるのは痛い)


 階段から落とされただけで痛かったのを覚えている。

 階段よりも明らかに高い。きっともっとずっと痛いだろうと目をきゅっとつぶりたくなった。


(死んじゃうかもしれない)


 叫び声を上げそうになった。

 泣き叫んでしまいたくなった。


(叫んでも、誰も助けてくれない)


 それはもうやった。


(遠くに行けるかもしれない。温かなどこかに……嫌だ! 消えたくない! 終わりたくない! 止まってしまいたくない……!)


 圧縮された時間の中で、ただそれだけを(死にたくないと)願った。

 それで何かが変わるわけもなくて――ぎゅっと縮こまったことがうまく作用したか背中から落ち、そこにあった植物がクッションとなったが落下したことは変わらず。

 熱い塊が喉から飛び出るような感覚がして、その意識は闇に落ちた。


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