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 それからちょうど一年後のことです。妾の女性が亡くなりました。お父様の酷い仕打ちに耐えかねて、自らの命を絶ってしまったのです。


 母を亡くした四番目の異母兄は、お父様のお取り決めにより、本邸のお屋敷で暮らすことになりました。


 お父様は妾の女性にご執心でいらっしゃりました。一方で、お母様は妾の女性を憎悪なさり、呪詛っていらしたのです。妾の女性が亡くなったからと言って、千々に乱れたお母様のお心が癒えることはありませんでした。


 お父様が四番目の異母兄を本邸に招き入れられたことで、お母様は酷く打ちのめされ、取り乱し、狼狽えてしまわれました。恐慌に陥ることもしばしばありました。お母様はお父様のお慰めを必要としていらっしゃったのです。お父様が、お母様をかえりみてくださることはありませんでしたけれど。


 お気に入りの愛妾を喪ったお父様は、その忘れ形見である、四番目の異母兄に魅せられていらしたのです。お父様は四番目の異母兄の為に多くの時間を費やしてしまわれました。気丈なお母様が泣いてすがりついたなら、或いは、お父様をお引き留めすることが可能だったかもしれません。けれど、凛々しく美しく矜持ある女性であろうと、ご幼少の頃からご自身を律していらしたお母様には、跪いて慈悲を乞うなどという発想そのものが無かったのでしょう。


 悲しみを募らせたお母様は、ついには狂乱に陥られました。鏡に何度も何度も頭を打ち付けました。血と憎悪を撒き散らしながら「忌ま忌ましい、売女の子! いやらしい、汚ならしい、穢らわしい! 殺してやる!」と叫びました。血塗れのお母様が召使いたちに取り押さえられたとき、わたくしは心を決めました。


 お母様は悲しいお方です。わたくしのお母様になってしまわれたばかりに、お母様は生きている限り不幸であり続けるのです。現世はお母様の地獄になってしまいました。人を殺めてしまえば、お母様の地獄は死後も続き、永遠になるのです。そんなこと、あんまりではありませんか。


 わたくしはお母様の現世を地獄に変えてしまいました。ならばせめて、お母様が死後の地獄に堕ちることだけはなんとしても食い止めなければなりません。


 心に決めたわたくしは、お母様のお部屋にこっそり忍び込みました。お母様のお部屋はわたくしのお部屋のお隣ですし、何度かお呼ばれした経験がありましたから、そんなに難しいことではありませんでした。そうして、お母様の宝石箱から、緻密な金細工に大きな宝石をあしらった指輪とブローチをひとつずつ拝借しました。お母様が気付かれることは無いでしょうし、気付かれたとしても何とも思われないでしょう。一緒にいられない時間を宝石で埋め合わせようとなさるお父様の酷薄さに、お母様はお心を痛めていらっしゃりましたから。


 そうして、お母様のお部屋から持ち出しましたブローチを、わたくし付きのメイドのひとりにこっそりと握らせました。わたくしはそのメイドが、拝金主義者で、尚且つ、短絡的で浅慮な性分であることを知っておりましたから、物で釣れば懐柔するのは容易いだろうと睨んでおりました。事実、その通りでしたから、わたくしの思惑通りにことを運ぶことが出来たのです。


 わたくしは、メイドの手引きで真夜中にお部屋を抜け出しました。メイドはわたくしの手を引いて、地階へ降りて行きました。とても深い階でした。その先にあるのが、お父様が四番目の異母兄を住まわせていらっしゃるお部屋でした。メイドは扉の鍵穴に鍵を差し込み、くるりと回転させると、閉ざされた扉を開きました。


 血臭と生臭が鼻をつきました。それから、爛熟する果実のような、腐乱と紙一重の芳香がうっすらと漂っていました。


 異母兄の部屋は、言い知れない静寂に満たされていました。室内の空虚は、まるで墓穴の底であるかのようでした。そこに横たわるそのひとは、まるで屍のようでした。そこにいるのはわかるのですが、その気配からは生き物の温もりというものが、まるで感じられないのです。


 わたくしはその場に立ち尽くしました。メイドがわたくしに何事か耳打ちしましたが、内容は聞き取れませんでした。痺れを切らしたメイドに肩を小突かれて、わたくしはよろめきました。その拍子に、鞘に納めた小刀がドレスの袖から滑り落ちました。


 そのナイフも、お母様のお部屋から拝借したものでした。鉛筆の軸を削るのに使う小刀です。わたくしはお母様の小刀で、お母様のかわりに、四番目の異母兄を殺めるために、ここまで来たのです。


 背後で、メイドがハッと息をのみました。メイドが驚くのも無理はありません。彼女には


「娼婦の息子というものは、どんなものかしら。興味があるわ」


 なんて、如何にも高慢ちきのお嬢様らしいことを言っておきましたから。宝石と引き換えに盲人の小娘の我儘に付き合ってやろうと、そのような気楽な気持ちでいたのでしょう。もし、わたくしが正直に計画を打ち明けていたなら、決して、そのお先棒を担ごうとはしなかったでしょう。


 わたくしはその場に膝をつきました。床はひんやりとしていて、まるで氷の上に座り込んだかのようでした。手探りで小刀を探しましたが、かじかんだような指にはなにも触れません。どこまで転がっていってしまったのでしょう。ぼうっとしていて、ちゃんと音を聞いていませんでしたから、皆目見当がつきません。


 そのとき、じゃらじゃらと、金属の擦れる音がしました。鎖の鳴る音です。鎖に繋がれたなにかが、思いの外、わたくしの近くにいたのです。鎖に繋ぐと言えば、真っ先に思い浮かべるのが猛犬ですけれど、そうではありません。繰り返しになりますけれど、そこは四番目の異母兄のお部屋でした。


「誰?」


 誰何したのは、不思議な声でした。変声期前の少年特有の、濁りのない、澄んだ声でした。それでいて、世界の涯に立たされたかのような失望と諦念によって痩せ細り、精も根も尽き果てたように、哀愁さえ帯びた掠れた声でした。そして、吐息には奇妙な甘さが滲んでいました。まるで情感の籠らないその声音は、どういうわけか、わたくしの心をかき乱し、なけなしの平静を奪おうとするのです。


 声の主は、四番目の異母兄のほかに考えられません。わたくしは、彼をこの手にかけるために、ここまで来ました。ところが、生まれて初めて耳にしたあの方のお声は、わたくしの心をここではない何処かへ連れ去ってしまったのです。


「わたくしは」


 わたくしは名乗ろうとしました。しかし、なんと応えるべきなのでしょう。わたくしは、翠玉の伯爵家の一姫です。しかし、そのように名乗りをあげることは憚られました。わたくしは生来の罪人です。お父様もお母様も若様方も、わたくしとの血の繋がりを厭わしく思っていらっしゃります。


 ですから、わたくしにはこう応えるより他になかったのです。


「わたくしは、エメラリア」


 すると、四番目の異母兄は淡々と言いました。


「なるほど、エメラリア、ね。エメラリア……俺の妹か」


 その瞬間、わたくしの時間はぴたりと止まりました。胸の奥に淀み、凝って重くなっていた古い血がさざめき、心を揺り動かすようでした。


 わたくしの背後でメイドがそわそわしていましたけれど、わたくしはそれどころではありませんでしたし、四番目の異母兄はまったく気にならないようでした。


 四番目の異母兄は含み笑います。ひやりと冷えた声音を紡ぎ出す唇もまたひやりと冷たいのでしょうか。彼はわたくしに呼びかけ、こう訊ねました。


「あんたも、そうなんだな? あんたも、あんたのお父様と同じ穴の狢なんだろ? あんたはお父様の目を盗んで、おれに会いに来た。こんな物騒なもの隠し持って。どうするつもりで? いいよ、別に、答えなくても。想像はつく。妾の子を切り刻むと、憂さ晴らしになるんだろう? 虫も殺さない顔をして、心はまるで悪魔ってわけだ。ははっ、蛙の子は蛙ってことかい」


 わたくしは言葉を失いました。沈黙するわたくしの頬に、ひたり、となにか固いものが当たりました。その肌触りは、鞘に納められた小刀のものでした。背筋がぞくりとして、肌が泡立ちました。


「いつも、誰かが俺を切り刻む。ひとでなしの伯爵か、伯爵家のろくでなしの三兄弟か……誰かがね。たまには、俺がやり返したって構わない。あんたに恨みはないし、あんたは何も悪くないってわかってるけど、仕方がない。……わかってくれるだろ? エメラリア」


 四番目の異母兄の冷笑と鞘鳴りの二重奏が、わたくしを混乱させます。

 四番目の異母兄は、わたくしの沈黙を肯定として受け取るでしょう。そうしたら、彼はわたくしが彼にしようとしたことを、わたくしにしようとするでしょう。


 わたくしは震え上がりました。あさましいことですが、わたくしは生を望まれず死を望まれる生来の罪人でありながら、この時、死を恐れたのです。


「はい……いいえ、そうではなくて」


 わたくしは恐る恐る頭をふりました。戸惑ってしまって、言葉に詰まって、しどろもどろになってしまいました。


 命を惜しんだわたくしは、身動ぎするだけで、皮膚を切り裂かれるような思いでしたが、罪深いわたくしは、誤解を解かなければなりませんでした。


「わからないわ。お父様も若様方も、悪い方じゃないはずよ。だって、わたくしとは違うもの。わたくしは……わたくしは、悪い人間よ。お父様より、若様方より、もっとずっと、罪深いわ。……わたくしは……生来の罪人ですもの」


 わたくしは正直に打ち明けました。嘘を並び立てようとは思えませんでした。言い逃れようにも、わたくしが彼を殺めようとしたのは紛れもない事実なのですから。


 お父様や若様方が、四番目の異母兄にどんなに惨い仕打ちをしてしまったのか、当時のわたくしには知る由もありません。ですから、まさかお父様と若様方が、四番目の異母兄を殺めようとしたわたくしよりも罪深いとは思わなかったのです。お父様と若様方は健勝でお生まれになった高貴な方々ですから。


 四番目の異母兄は沈黙を守ります。わたくしは途方に暮れて、弱々しく頭をふりました。わたくしの頬を這っていた小刀の刃が浮き上がりました。冷たい刃は肌を離れ、冷ややかな声音が揺らぎます。


「罪人? あんたが? ははっ、笑わせるな。そんな目をして、あんたに何が出来るって言うんだ?」


 その言葉は雷のようにわたくしをうちました。わたくしの体は頭のてっぺんから爪先までビリビリと痺れて、視界はチカチカと明減して、耳鳴りがしました。


 わたくしは寝巻きの裾を翻し、踵を返しました。躓いてつんのめるわたくしの体は固い床に叩きつけられる寸前に、メイドに抱き止められました。


 わたくしはメイドの袖を握りしめ、今すぐお部屋に連れ帰って欲しい、というようなことを捲し立てました。突然取り乱したわたくしに辟易したメイドは小さく悪態をつきながらも、わたくしを抱えて来た道を引き返してくれました。


 四番目の異母兄の声は聞こえませんでした。わたくしの奇行を目の当たりにして、呆気にとられていたのでしょうか。わたくしの無様に興醒めして、殺す気も失せたのでしょうか。それとも、彼はそもそも、わたくしに関心などなくて、降りかかる火の粉を払うように、血迷ったわたくしをからかって追い払っただけだったのでしょうか。


 わかりません。愚かなわたくしには、わかりません。ただひとつ、確信をもつことができるのは、四番目の異母兄は、お父様とも若様方とも召し使いたちとも、お母様とも、他のだれとも違うということです。


「俺の妹」なんて言われたのは、生まれて初めてだったのです。お父様もお母様も、わたくしのことを、ご自身の娘だと仰いません。若様方は申し上げるまでもないでしょう。


 当然のことです。何故ならわたくしは、生来の罪人なのですから。生来の罪人の存在は家族の恥なのですから。


 四番目の異母兄は、わたくしの盲た目に気がついている様子でした。わたくしの目について、言及していました。


 それなのに、彼はわたくしを妹と呼び、あまつさえ、わたくしには罪がない、わたくしには罪など犯せないと言い切ったのです。


 そんな方とは初めてお会いしました。悲しくないのに涙が溢れて止まらなかったのも、生まれて初めてのことでした。


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