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お母様の真の不幸は、待望久しい我が子の出生が、呪われていたことです。お母様は生来の罪人であるわたくしを出産したことで、わたくしの他には子を望めない御体になってしまわれました。
お母様は悲嘆に暮れてしまわれました。口さがない召使いを信じるなら、お母様が発作的にわたくしを殺めようとなさったことは、一度や二度ではなかったとか。仕方のないことです。お母様のご心痛は、察するにあまりあります。
生来の罪人は、出生そのものが涜神と見なされます。ですから、生れた赤子に何かしらの欠落がある場合、或いはその兆候がある場合、世間にそうと知れないうちに「不幸にも亡くなった」ことにして「処分」してしまうことが妥当な決着であるようです。
しかし、お父様はわたくしを処分なさりませんでした。お父様はわたくしを「伯爵家の娘」として生かしてくださったのです。
まことにありがたいことです。ありがたいことですが、わたくしは不思議に思うのです。何故、お父様はわたくしのような厄介な娘を庇護してくださったのかしら、と。
度重なる不幸に襲われたお母様を気遣われたのでしょうか。それとも、貞淑な妻をよそに漁色にふけるご自身の不貞を恥じていらしたのかも? そうであったなら、お母様は救われるでしょう。しかし、わたくしには、そうは思えません。
もし、お父様に思い遣りのお心がほんの一欠片でもおありなら、身重の妻の目と鼻の先で不埒な遊戯に耽溺するなどと、残酷な仕打ちをなさる筈が御座いませんもの。
お父様は妾を囲っていらっしゃいました。高貴な男性はそうなさるものなのだと聞きます。妻とは別に、欲望の捌け口として扱える女性を傍に置くことは、紳士の隠匿された嗜みのひとつなのだとか。
そうであっても、お父様のそれは常軌を逸していたのです。
お父様は、花街から浚っていらした娼婦を別邸の地下室に幽閉して、妾としていらっしゃいました。妾の女性は、いつも怯えていたそうです。脅かされていたのです。まるで痰壺や尿瓶のように、只管淀みを受け止めることを強要された、可哀想な女性です。妾の女性は苦しみながら、わたくしの四番目の異母兄を産み落としました。わたくしが生まれる、ちょうど一月前のことでした。
四番目の異母兄は、彼の「母さん」と一緒に別邸の地下室に閉じ込められており、わたくしはわたくしで、お部屋に閉じ籠って暮らしておりましたから、お互いの存在を知ってはいても、顔を合わせる機会はありませんでした。
盲人のわたくしは、お部屋から一歩足を踏み出してしまうと、ひとりではどうにもなりません。召使いを呼びつけて、行き先を告げて、手を引いて導いて貰わなければなりません。わたくしのような盲人は、そこにいるだけで、何をするにも手がかかるのです。
召使いたちは、わたくしに面と向かって文句を言うことはありません。けれど、彼女たちが「生来の罪人」であるわたくしを気味悪がり、わたくしの世話を押し付けられた不遇を嘆いていることを、わたくしは物心ついた頃には察していました。ですから、なるべく、彼女たちに面倒をかけまいと心がけておりました。
それに、わたくしがお屋敷のあちらこちらを闇雲にうろうろしておりましたら、お母様に叱られてしまいます。「控えなさい。若様方のお目汚しになります」と。
ひとつ屋根の下で共に成長した三人の異母兄たちを、わたくしはお母様に倣い「若様」とお呼びしておりました。若様方はお父様と、お母様の前の奥さまとの間にお生まれになりました。
長男のヴィクトル様はわたくしより九つ年上でいらっしゃり、次男のオーギュスト様はヴィクトル様の二つ年下、三男のアルフレード様は五つ年下でいらっしゃります。お母様はいついかなる場合も若様方を気遣われ、若様方と打ち解けようと腐心されていらっしゃいましたが、その成果は思わしくありませんでした。
オーギュスト様はお母様のお言葉のすべてを聞き流し、お母様の存在を否定なさりましたし、アルフレード様はお母様の仰ること為さること全てに反抗なさり、お母様を煙たがりました。
三兄弟のなかでただおひとり、ヴィクトル様だけはお母様に好意的に接してくださりました。しかし、わたくしはヴィクトル様の声調と息遣いから、侮蔑の感情と嘲弄の意図を感じとりました。さらに、ヴィクトル様がご成長遊ばされるにつれて、そこになにかしら、不穏な情動すら感じ取れるようになってしまいました。お母様もそれらの気配を察していらしたのでしょう。お母様はヴィクトル様を恐れていらっしゃるご様子でした。
若様方の辛い仕向けは、お母様の傷だらけのお心を、さらに摩耗させました。お母様は、義理の息子たちが義母として認めてくれないのは何故だろうと、懊悩されました。
お母様の一人娘であるわたくしが生来の罪人であることは、お母様にとって、最も耐え難い恥でした。ですから、お母様はわたくしという恥晒しが若様方のお目に触れないよう、神経を尖らせていらっしゃりました。至極当然のことでした。
わたくしをお部屋から出さないというのが、お母様のお望みであり、わたくしの望みでもありました。わたくしは必要に迫られない限り、お部屋に閉じ籠っておりました。
そうしていても、若様方とまったく顔を合わせないということにはなりません。わたくしがお部屋に籠っていても、若様が訪ねていらしたら、お迎えしない訳には参りませんから。
アルフレード様はしばしばわたくしのお部屋におみえになりました。初めてアルフレード様がおみえになったとき、わたくしは未だ頑是ない幼児でしたから、その記憶はぼんやりとしていて断片的なものです。けれど、生まれて初めて頬を打たれた痛烈な衝撃は忘れ難いものです。「生来の罪人」であることの罪深さを、アルフレード様はわたくしの心身に刻み付けて下さったのです。
アルフレード様はわたくしのお部屋におみえになっては、わたくしを躾てくださりました。わたくしの手腓はいくつもの鞭傷に覆われて、血を滲ませていました。
お母様はそのことをご存じです。堪え性のないわたくしは、お母様に泣きついたことがありました。
「お母さま、アルフレードさまがわたくしを打つのです。痛いのはいやです。怖いのです。助けてください、お母さま!」
わたくしは、情けないことに心の弱い小娘ですから、正直に申し上げますと、アルフレード様のご訪問を歓迎してはおりませんでした。アルフレード様はご自身のお母様をお慕いするあまり、わたくしのお母様に厳しいお言葉をおかけになるのです。浅慮なわたくしは、アルフレード様は意地悪なお方だから、お母様はきっとアルフレード様を嫌っていらっしゃると、決め付けておりました。お母様と同じ気持ちを共有できると思い上がっていたのです。
しかし、お母様はわたくしの手を振り払いました。「アルフレード様の仰る通りになさい」と仰りました。
わたくしは自身の思い上がりを恥じ、お母様のお言いつけに従いました。
お母様は正しかったのです。アルフレード様がわたくしを厳しく躾てくださったからこそ、わたくしは幼くして、わたくしの罪深さを正しく受け入れることが出来ました。
アルフレード様はわたくしを打ちながら
「お前は出来損ないだ」「お前は役立たずだ」「お前は伯爵家の面汚しだ」「お前は疫病神だ」
と、何度も何度も、繰り返し仰りました。
アーサー様の御言葉は伯爵家の総意だったのでしょう。
伯爵家からわたくしという生来の罪人が出てしまったことで、伯爵家の品位が損なわれてしまいました。ヴィクトル様もオーギュスト様もアルフレード様も、お屋敷の外で肩身の狭い思いをなさったそうです。
お父様はわたくしを伯爵家の娘として生かしてくださりましたが、わたくしのお部屋を訪ねてはくださりませんでした。顔も見たくない。そうなのでしょう。お父様は、わたくしという厄介者をもて余して、うんざりしていらっしゃるのでしょう。
わたくしのせいで何もかもを失ってしまわれましたお母様も、そうなのでしょう。
お母様は、お父様と結ばれるために、もてるものすべてを手放しました。それなのに、わたくしが生まれたことで、お母様は愛するお父様との間に健常な御子様を授かる幸福を失ってしまったのです。それだけではありません。わたくしが生まれてからというもの、お父様は妾の女性のもとに入り浸っていらしたご様子でした。わたくしのせいで、お母様はお父様のお心さえ失ってしまわれたのです。
お気の毒なお母様。
忘れもしないあの日。お母様がわたくしのお部屋にお出ましになりました。久しくご無沙汰しておりましたから、お母様にお会いできることが嬉しくてたまりませんでした。壁伝いによろよろと歩み寄って、お母様をお出迎えしようとしたのですが、足をもつれさせて転んでしまいました。お母様は、驚いて泣いてしまったわたくしと、慌てふためく召使いたちに背を向けて、一言、呟かれました。
「もしも選べたなら、この子を望んだりしなかったのに」
わたくしは、お母様がわたくしを疎ましく思っていらっしゃることを知りました。あの日は、わたくしの六歳のお誕生日でした。