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神様が人間を御自身の似姿として創造されたのは、人間を御自身の御子のように愛し、深い交わりをなすためです。ですから神様は人間を、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地を這うすべてのものを支配する存在と定めて下さったのです。
人間は神様との交わりの中で、よく生きることが出来ます。しかし、神様にご寵愛を賜った神様の似姿であっても、人間は神様ではありません。
人間は土の器です。器の形は神様に似ていても、本質は土であり塵なのです。人間がこの事実を忘れて、自分を神様と同じ存在であるかのように錯覚して勝手に振る舞うなら、人間は神様の御心から遠ざかります。この断絶から、様々な悲惨が生じます。その悲惨の一片が、このわたくしなのでしょう。
わたくしは盲人として生まれました。本来なら、神様は御自身の似姿である人間を完全無欠の存在として創造なさりますから、わたくしのように人間としての機能を欠損して生れた者は正しい人間ではありません。わたくしは、神様の御心にそわず、神様のご加護を賜ることがかなわなかった「生来の罪人」なのです。
罪深いわたくしは、幸いにも「翠玉の伯爵家」の一姫として生を受けました。何不自由なく暮らし、十八歳の誕生日を迎え、成人の儀を執り行うことが出来ました。お父様の御慈悲によるものです。
敬虔な信徒の娘として生まれていたなら、きっと、わたくしの命は無かったでしょう。もし貧しい家に生まれていたなら、棄児となって悲惨な最期を遂げたでしょう。或いは、わたくしの身柄は奴隷商人の手に渡り、底値で隣国の好事家に売り飛ばされていたかもしれません。そうならずにいられたのですから、わたくしはまことに幸運でした。
自身の贖罪の為に、父の手を罪人の血で穢さずに済みましたし、分別のない幼子の時分に獣人の手に落ちて、獣人に媚を売る恥知らずにならずに済みました。
獣人の慰み物として生き恥を晒すくらいなら、自ら死を選ぶべきでしょう。神様より賜った生命の息吹を粗末にすると、その魂は地獄に堕ちると定められています。けれど、生まれながら涜神の業を背負いしわたくしたち「生来の罪人」の魂は神様の身許に還ることはありません。ですから、魂が潰えることを恐れるより、この魂を今以上、これ以上、穢すことのないように、努めるべきなのです。
その汚辱を甘んじて受けることで、お父様のお役にたてるなら。わたくしが生来の罪人として生れたばかりに、肩身の狭い思いをされているお母様の傷ついたお心を、ほんの少しでも、お慰め出来るなら。辛酸を嘗めるくらいのことは、望むところだと思えるのですけれど。
薔薇の伯爵家の二姫として生を受けたお母様は、臈長けた美貌の貴婦人として人々を魅了し「薔薇の姫君」とうたわれる社交界の花形でした。お母様の周りには大勢の文壇や政界の名士が集まって、大規模なサロンを形成していたのです。
社交界の名だたる貴公子たちがお母様の前に跪きましたが、お母様は彼らの求婚を受けいれませんでした。求婚者たちを退けているうちに、老嬢と謗られる年齢になりました。かつてお母様を崇拝した貴公子たちは掌をかえして「大輪の薔薇も、零落すれば惨めなものだ」とお母様を嘲りました。
そして、二十五歳の誕生日を迎える前日に、お母様は翠玉の伯爵家当主であるお父様の許に嫁がれました。
「薔薇の姫君ともあろうものが、老いた寡夫の後妻に甘んじるとは」
などと、誹謗中傷にさらされても、お母様は背筋を伸ばし、美しく気高く、凛としていらっしゃいました。
ひそひそと陰口を叩く卑劣な方々など、お母様の眼中にはありませんでした。お父様の正妻というお立場が、お母様のお心を頼もしく支えていたのです。
わたくしは盲人ですから、光を知りません。そのかわり目に見えないもの……音や匂い、気配などには、健常な方より敏いようでした。ですから、使用人たちが他聞を憚り声を落としても、巷説の内容が聞こえてしまいます。気丈に振る舞われるお母様の声調や息遣いから、隠された本心を推し量ってしまいます。
お母様は決してお認めになりませんが、お父様の前の奥様がご健在の頃からずっと、お父様を想っていらっしゃったのです。
ところが、お父様と結ばれたお母様は、三度の流産という不幸に見舞われました。その辛苦を乗り越えて、二十八歳の誕生日を迎える前日に娘を出産されたのです。エメラリアと名付けられたその娘こそ、このわたくしでございます。