天性のパシリとその憂鬱
昼休みのチャイムが鳴ると同時、剣崎龍牙は教室をこっそりと抜け出した。
春も終わりが近づく暖かい陽気だ。
その中で次第に活気づいていく校内を、喧騒に追いつかれないよう早足で進む。
龍牙がこうして急ぐのにはとある理由があった。
(早く……早く、外へ……!)
いや、外と言わず昼休みの間はできるだけ遠くに避難しなければならない。
今月の小遣いを、たとえそれが最後の残りかすであっても守るためには、どんな手を使ってでも奴らをやり過ごす必要があるのだから。
パシらされてパシらされ続けて、もう龍牙の財布はスッカスカだった。
だから奴らのパシリはもうやめる。龍牙はそう決めたのだ。
(あんな奴らのためにはもうビタ一文だって使いたくない……いや、もう絶対に使ってなんかやるものか!)
鞄の上から財布を押さえながらこれまでの搾取の日々を思う。それはパシらされ目減りしていく財布の中身の歴史でもあった。
奴らは貪欲だ。こちらに手持ちがあると知れば、それがたとえ数百円だろうが数十円だろうがたかってくる。
嫌なら逃げなければならないが、それはきわめて難しいことだった。奴らの数は多く鼻も利く。しかしそれでも諦めれば遠い将来にわたって食い物にされる人生が続くような、そんな気がしていた。
だから龍牙にできる最後の抵抗は、諦めないことだった。
そのために必死こいて靴を履き替え外へと急いだ。
だが。
「龍ちゃんどこ行くの?」
「ひっ……!」
ほんのすぐ横からの声に龍牙はびくりと身体を震わせた。
ちょうど正門を出たところだ。ぎぎぎと視線を向けた先には短い髪を赤茶色に染めた男子生徒がいた。
「奇遇だな。待ってたとはいえ本当にここで会うとは思わなかったよ。マジでどこ行くワケ? ん?」
人を不安にさせる不気味なにやにや笑いがこちらを向く。その筋肉質な長身と着崩した制服は、妙な威圧感を周りに振りまく。
思えばこの男は出会った当初からこうだった。つまり、人から奪う側の人間で、当たり前のように他人を踏みつけにするのだ。
具体的には、龍牙をパシらせたり、すごくパシらせたり、あるいはもっとパシらせたり。
まあそういうことだ。
脂汗が額に浮かぶ。
「あ、いや、どこに行くってあの、そういうアレじゃなくて……」
「うん? じゃあどういうアレ?」
「それはその、言葉にするのは非常に難しいアレで、ええと」
「まあいいや。それよりちょっとこっち来なよ」
むんずと首根っこを捕まれて引きずられる。
抵抗する間もなく人目につかない校舎裏まで連れこまれて逃げ場のない角の方に押しやられた。
「今みんなを呼ぶからちょっと待ってな」
「みんなって……」
スマホをいじりはじめる茶髪を呆然と見上げる。
みんなとはみんなか。我が校の悪質不良ネットワークに所属する全構成員か。
財布の残内容を思い出して絶望する。全員でかかってこられたらもう塵も残ろうはずもない。
「いやあの、みんなを呼ぶことはないんじゃないかな。みんな忙しいだろうし、無理して招集かけたら迷惑っていうか……」
「よーす龍ちゃん」
「あああ……」
間をおかず向こうから聞こえた声に龍牙は頭を抱えた。
追い打ちをかけるようにさらに別の声もやってくる。
「龍ちゃん逃げようとしたんだって? よくねえよそういうのはさあ」
ぞくぞくと集まってきた大勢に囲まれて、もはや逃げおおせる術はない。
それでも一応弁解だけはしておいた。
「別に逃げたんじゃなくて、用事があっただけだって……」
もちろんまともに聞く者は一人もいなかったが。
「さて龍ちゃん、俺たち昼休みで腹減ったわけだけど、どうしよっかと思っててさ」
「それはそれは……大変っすね」
「そうそう大変大変。だから龍ちゃんに助けてもらいたいの。どうしたらいいかなあ。教えてくれよ」
「……」
陰湿なやり口だった。彼らはこれが問題として発覚した時には間違いなくこう後始末する。
俺たちは頼んでいません。あいつが勝手にパシってくれました。
嘘ではないし自分もきっとこう言う。俺は自分から進んで買い出しをやりました、と。
最悪だ。いいように使われた上に肝心な時には切り捨てられる。
それが嫌なら反抗しなければならない。パシリはもう嫌だと叩きつけなければならない。
そうだ、自分は既に決めたじゃないか、もうこいつらのためなんかにはビタ一文だって使うものかと。
龍牙はゆっくりと息を吸い込んで、毅然とした視線を相手に据えた。
「俺、もうパシリは――」
「あ、そういうのはいいんで。時間ねえし」
完全に出鼻を挫かれて龍牙は口をぱくぱくさせる。
茶髪はやはりにやにやしたままゆっくりとこちらの胸倉をつかんで上からのぞき込んできた。つまり、ゆうにそれぐらいの身長差があった。
「なあ、いい加減にしろや。パシリやる気があるのかないのか、それだけを答えろ」
その眼だけは笑っていない。茶髪の冷たい瞳に、一気に身がすくむのが分かった。
「行きます。喜んで」
「そっか、よかった」
胸倉をつかんだ手を放して、茶髪は人懐っこい笑みでこちらの背をたたいた。
身体から力が抜けて校舎の壁に背中を預ける。
見上げたままの視界に映る空が青い。なんだか無性に泣きたくなった。
「じゃあ俺焼きそばパンな」
「俺あんパン」
「クリームパン」
チュロス、おにぎりの鮭とすじこ、唐揚げにフライドポテトにたこ焼きおでん。コーラにエナジードリンクとプロテイン、その他デザート類がいくつか。
好き勝手に挙げられていくそれらのメニューが、それでもスムーズに頭に書きこまれていくのが分かる。
記憶はいつものごとく完璧だった。なんだかそれが悲しくて仕方がない。
合計額の概算もすぐに浮かぶ。頭に叩き込んでいる付近の店での売値から、最安値での買い物をした場合と最速で買い物をした場合などいくつかのケースの比較検討も一瞬で終わる。
ただ、財布の中身が足りていないので(もちろん払いはこちら持ちだ)、いくつかの品を値段の安い代替品で済ます必要もあった。
これは連中の表情から変更に応じてくれそうな者をピックアップして後から交渉する。
まあほぼいつものことなので余裕だろう。
「龍ちゃーん、がんばー!」
愛しき反吐野郎共に送り出されて龍牙は自転車のペダルを踏み込んだ。
胸が重いが泣きわめいている暇はない。昼休みは有限だ。間に合わなければなおさらひどいことになるのは目に見えている。
(はあ……なんでこんなことになってるんだろ)
自分がいじられ体質というか、狙われやすい雰囲気を持っていることは自覚していた。
それでも偶然とも思えるくらいの条件がそろわないとこうまで最悪な状況には陥っていないはずだった。
中学までは普通だった。高校でいつの間にかこうだった。
本当に、どうしてこうなった。
憂鬱な気分を引きずり、視野は非常に狭かった。注意力もどんどん落ちていく。
だから横断歩道に入ろうとしていた時、龍牙はそれに気づかなかった。
こんな時でなければ見えていたはずだった。注意が周りを向いていれば気づけたはずだった。
けたたましいクラクションが鳴り響く。
甲高いブレーキ音。
それから体を突き抜ける破壊的な振動。
強烈な一撃にさらされて、まるで火が強い風に吹き消されるように龍牙の意識は暗闇へと沈んだ。