伏籠
電気を消して、と彼女は言い、彼はそれに従った。
都会の一室はカーテンを閉めてもなおネオンが差し込み、僅かに明るい。その薄闇の中で、彼女はベッドの足元に立ち、彼に背を向けたまま着衣を落としていった。ひとつ、ひとつ、脱け殻のように剥がれて落ちていくそれらを彼は眺めていたが、徐にベッドの上を這っていくと、彼女の細いウエストに腕を回し、その背骨にひとつ、唇を落とした。彼は既に何も纏ってはいなかった。彼の腕は熱く、彼女の腹は少し冷たかった。腕で引き寄せると彼女はよろめいたが、大人しく彼の抱擁の中に絡め取られた。
彼が彼女の背の香りを吸い込めば、肌の粟立つようなくすぐったさに、彼女が身を攀じる。
「いい匂いがする」
満足げに微笑む彼に、彼女は背を向けたまま苦笑を含んだ。
「待ってって言ったのに」
「待ちきれなかったんだ」
あんまり綺麗だから、と付け加えると、彼女はほとんど息だけで笑った。
「そういうの、やめた方がいいよ」
「どうして」
「だって」
身を捩った彼女が落とした視線と、見上げた彼の視線とが繋がった。彼女は暫く、観察でもするかのように冷たい目をしていたが、やがてふっと表情を和らげると、ゆっくりと屈んで彼の額にくちづけた。
「美しさしか欲しくないように見える」
「それじゃダメ?」
おどけるように言って、彼は抱きしめていた体をベッドへ誘った。ふたり揃って倒れ込めば、スプリングが軋むような音を立てる。浮かび上がるような彼女の白い肩の輪郭は、その上を滑り落ちる髪の黒さと相俟って妖しげだった。
「それじゃダメ」
我が子にでも言い聞かせるように、彼女は言った。
「でも、美しさは大事だよ。とっても」
彼は言いながら右手を伸ばして、彼女の髪をゆっくりと梳いた。それは闇の中でも美しかった。彼女は目を細めてその感覚に酔っていたが、それはどこか瞑想者のようでもあった。
「だから、美しいひとと寝て、いい気持ちになりたい。……それだけじゃ、ダメ?」
「ダメ」
彼女は目を開けた。彼は少し困り顔を作ってみせた。
「難しいな。女って」
「そうね」
彼の手は髪を離れ、肩から肋骨へ滑っていく。
「私のことも、そういう気持ちで抱くの?」
「そういうって?」
「単に美しいひとと気持ちよくなりたい、って」
「まさか」
彼は軽く笑うと、彼女を強く引き寄せた。密着した体の前面から、互いの体温が混ざり合い、その境界線が曖昧になっていく。吐息は皮膚の上をするりと滑っていった。
「僕は、君を愛してるんだよ。その表現のために、君を、大事に大事に抱くのさ」
言葉を裏付けようとするように、その手は緩慢に這う。
「私に、夫があっても?」
彼女は何気ない様子で口にした。
彼の目は僅か悲しげに彼女を見据えたが、相変わらずその口元には微笑みが浮かんでいた。ふたりの腕は互いの輪郭をなぞり、その動きは次第に扇情的になっていく。
彼は少しの間目をつぶり、緩く首を横に振った。
「そんなのは関係ない」
「関係ないとは、言い切れないじゃない」
「それは、君が旦那さんを、愛しているならね」
言葉の合間に零す吐息が、次第に熱と湿り気とを帯びていった。徐々に空間を満たしていく温度の中、彼女は潤んだ瞳で彼の双眸を捉えた。彼女の唇は僅かに緩み、何かを言おうとするようでもあり、同時に何かを言うまいとするようでもあった。
「ん?」
促すように、彼の手は彼女の背をなで上げ。
そして一瞬の後、彼女の表情は蕩けるように崩れていった。
「あの人は私を、愛してくれないけど。でも……あなたは、私を愛してくれるもの」
その笑顔は、勝ち誇ったようでさえあった。その表情に、彼の熱は沸き立った。
「じゃあ、関係ない?」
「そうね」
「決まりだ」
彼は彼女の背を、彼女は彼の首を引き寄せ、唇は溶け合うように触れた。それが合図だった。
ぬめるように肌は滑り、一対の肢体が激しく、しかし緩慢な速度で絡み合う。向きを変え、角度を変えながら触れる身体は次第に濡れ、時に震え、匂い立つような官能が満ちていった。やがて、荒い吐息の合間に呻きと喘ぎとが混じり始め、ふたつの体はますます境目を失っていく……。
* * *
画面の中でのたうち、いつも以上によくはねる妻の媚態を、夫は食い入るように見つめていた。ほとんど病的なまでにやせ衰え、頭髪は大半が白く、関節ばかりが大きく見える。丸めた背中は今にも背骨が飛び出さんばかりだった。その視線の先に映っているのは夫自身の部屋だった。妻は夫の部屋で、たった今夫が腰掛けているベッドの上で、喘ぎ、震え、その身をはしたなく弾ませていた。
夫はその男を知っていた。
仕事の関係で知り合ったのだと、妻からそう聞かされていた。写真も何枚か見たことがある。どこかひねくれたものを感じさせる、口の右端だけを僅かに上げた笑顔で写っていた。どれも同じような顔をしているのを興味深いと思った。声は、初めて聞いた。スピーカーから流れてくるそれは低く、甘い。ほんの少し掠れたようなのは酒のせいだろうか。体の輪郭は締まっているが、筋肉質というわけではない。デスクワークを主とし、たまの気晴らしに漫画を描くのだという彼には、運動をする習慣はないのだろう。恐らくは利き腕の方が太いはずだ。そちらの手にはペンだこもあるだろう。抱きしめられた時の感触が左右で異なるかも知れない。画面の中の部屋は薄暗く、ふたりの表情は決してはっきりとはしなかった。
映像を凝視しながら、夫はその表情の機微を夢想した。
妻の表情は直に見て知っている。妻の、その美しくうねる媚態を見て、触れて、貪って。その時、男はどんな顔をするのだろうか。夫は目を閉じた。高く低く、喘ぎと呻きとが脳裏を満たしていく。夫は少しずつ、その中に自らを沈めていった。妻と男が乱れる映像が揺らぎ、境界が溶けて、夫はゆっくりとそこへ降りていった。妻と夫が抱き合ったかと思えば、夫の唇を男が奪う。包み込む快楽は混沌として、どこか潮の満ちるようにも思えた。その潮にいつか溺れるのだと夫は思っていた。この世界に身を落とす度、潮は満ち、それに身を浸したものはいずれ溺れる。湧き上がる感覚に酔いながら、夫は同じ深さの後悔の中にあった。女であるというだけで妻を深く愛せない自分が、何故妻を娶ったのか。飽きるほど問うたはずのことが寄せて、脳裏で白く砕ける。何故娶った妻の美貌を餌に、好みの男を見つけては己の寝所で睦ませるのか。それを見てしか昂れない自分を、妻は何故捨てようとしないのか。それはひとつの、見せしめのようなものなのではないか。女を抱けぬ己への、深い深い恨みの発露なのではないか――。
スピーカーから溢れる艶声は止めどない。
火照った頬の上、零れた涙がねっとりと尾を引く。
* * *
扉の隙間からほんの微かに漏れ出ている己と男の声、そしてそれを見る夫の嘆息のような声を、妻は聞いていた。
夫があの映像を見るとき、妻はカメラとテレビの接続作業を必ず引き受け、再生が始まったことを確認してから部屋を出る。その時、ほんの僅かに扉を開けて部屋を出るようにしていた。妻の部屋は廊下を挟んで向かいにある。自室の扉も開けておけば、耳のやや遠い夫の音量は隣室内にも届く。妻はそうして自室のベッドに腰掛けて、夫がそれを見るのを聞いていた。妻の乱れる姿ではなく、男の乱れる姿を見て夫は昂ぶった。それが自身の不足によるものではないことを、妻は知っていた。そもそも生まれついたものからして適合しなかったのだ。妻が好いた男は、女を受け付けなかった。それでも男は夫になり、そして妻は夫を愛していた。そんなことは関係なかったのだ。愛があることと、肉体的な交わりがあることとは、妻にしてみれば全く関係のないことだった。自分が夫に何かを与えることが出来るなら、それは十分な愛情表現だった。だから、己と交わって乱れる男、その姿を見た夫が快を得るのを、妻はいつも聞いていた。夫への愛とともに、それを喜んでいた。
夫婦となってから、妻は何人もの男と交際し、夫はその度に高揚した。ひどく醜く、異常な程に老いて見える容貌をコンプレックスに感じる夫は、己を通して男たちと繋がるのだと妻は理解した。己の感覚は夫の感覚に通じるのだと思うと、興味のない男に対しても何か愛着に近い感情が沸くのだった。そんなとき、今ここにいるのは夫なのだと、妻はいつしか思うようになった。だからこうして夫が映像を見るとき、そこには夫の望む男と、男を愛する「夫」と、妻が愛する夫が存在していることになるのだ……。
そろそろだろうか、と妻は立ち上がった。
* * *
廊下に出て、向かいの部屋の扉を開ける。
夫はベッドの端に腰掛けたまま、蹲って頭を抱えていた。呼吸を落ち着けようと大きく息をする肩が、不規則に揺れていた。暴力的に丸められたティッシュペーパーの塊がくずかごに放り込まれていた。画面の中では、男だけがベッドに横たわっている。妻はそれを消した。その小さな音に気付いたのか、夫は妻の膝まで視線を上げた。
「どうだった。彼は」
零すように、夫は問うた。黒の交じる白髪にくしゃりと跡が付いていた。
「なかなかでしたよ」
妻の答えは決まっていた。
「そうか」
夫の答えも決まっていた。
何度か息をついてから、夫はゆっくりと顔を上げた。画面の中で脱ぎ捨てられていた服が、そっくりそのまま妻の身に纏われている。その姿は二十代と言っても差し支えないほど瑞々しかった。薄暗く黴の匂いのするような空間で、眩いほどの美しさだった。実に、己には不釣合いな伴侶だと思われた。ため息が出るような美しさが、悲しかった。
夫は柔らかく微笑んだ。
「綺麗だね」
妻は微笑んで頷いた。夫は目を閉じると、ゆっくりと空気を吸い込んだ。
「……柑橘系か」
香水の話をしていることはすぐに分かった。
「エタニティ・フォーメンですって」
「そんな小洒落たものを?」
「以前の彼女とお揃いだそうで」
夫は僅かに声を上げて笑った。
「女々しいな。僕みたいだ」
「そうでしょうか」
「そうだよ」
どこか自嘲的な色を含めて、彼は苦笑した。それから思い出したように両腕を前に伸ばし、妻の体を引き寄せる。妻は手を差し伸べて夫を迎え入れた。夫の顔がゆっくりと埋められたのは、男が最初に腕を回した、その位置に等しかった。妻の手は夫の頭を抱き、その輪郭を繊指が撫ぜる。
この香水を男がつけたことはまだ一度もない。そのことを、妻だけは知っていた。
夫が昂ぶりを得るのは、聴覚と、そして特に嗅覚からであるということも、妻は知っていた。男を変える度に妻は香水を変え、別れの印にそれを与えていた。夫の寝室で乱れる度そこに満ちるのは、男ではなく、最愛の妻の匂いなのだと、夫は知らない。それでもその事実は男を満足させ、夫を満足させる。ふたりの男の満足という事実自体が、今度は妻を満足させ、その心を支える秘密となっていることも、夫は、男たちは、誰ひとりとして知らない――。
「ごめんな」
ぽつりと、夫は言った。
「……でも、いい匂いだ」
夫の呼吸が布越しに肌を擦り、妻はその感覚に、ほんの僅かだけ身じろぎした。