マングースとブリザード
玄関扉を開ければ、
「おかえりなさいませ」
とその言葉と共に微笑んで出迎えるのは、家政婦の林田さんだ。
「ただいま」
出迎えた彼女に鞄を渡して、ラバトリーで手を洗い、化粧を落とす。
椿の住まいは今は佐塚建設が建てたマンションの最上階のフロア。そこの一室を使っている。
一人で使うにはいささか広すぎる3LDKの間取り。
テーブルに用意されたシャンパンと、そして野菜中心の食事を取れば
「ごちそうさま」
そう言うと、椿はネグリジェとガウンの用意されたバスルームへと向かい、お風呂を使う。
そうして、出れば片付けの終えた林田さんは
「それでは私はこれで失礼します」
にこっと微笑んで折り目正しく言う彼女はこの道のプロだ。
「ご苦労さま」
林田さんが居なくなり、一人きりになったのを確認してから椿は寝室のクローゼットにあるトランクを開けて、椿の“ふわたん”を取りだした。
「ごめんね、ふわたん。いつもこんなところに押し込んで」
ぎゅっと抱き締めると、やはりホッとしてしまう。
良い年なのに、ぬいぐるみを棄てられないなんて恥ずかしくて、こうして隠してしまってる。
それに...女王さまだとか、マングースには不似合いだ!
ふわふわの毛並みのいぬなのかくまなのかわからない、ぬいぐるみだけど、椿は小さいときから本音を話せるのはこの“ふわたん”だけでだからこそ大切にしてきている。
「ね、ふわたん。今日もねそらたんが可愛かったの。それに後ろに立って、仕事の進み具合を見られたときにはドキドキしちゃって、指が震えてしまいそうだった...」
ぎゅうっと抱き締めてころん、とベッドに横たわると、ぬいぐるみなんて不似合いな、他人からみればパーフェクトな容姿の椿の姿が、大きな姿見に映る。
「ふわたんが似合うのは、小さくて可愛らしい女の子...」
(それから、そらたんにも...)
蒼空よりも背の高い自分は、彼には似合わない。
蒼空に似合うのは、女王さまぶってる椿じゃなくて彼と同じようにふんわりと可愛らしい女の子だ。
別の人になれるわけでなし、近くでひっそりと見つめているだけで...充分。
長い手足を、うん、と一度のびをしてそれから、ふわたんを撫でる。
「だいすき、ふわたん」
ふんわりとしてるその頬にキスをして「おやすみ」とそう言って横にポジションを決めてそれから、寝ることにする。
朝になったらまたトランクだ。ふわたんをトランクに仕舞えば、椿は周囲の知る 佐塚 椿になるのだ。
・♪・♪・♪・♪・
新年いつものように出勤した椿は、朝から突然社長室に呼ばれたのだ。
「椿...ショックを受けずに聞いてくれ」
「なによショックな事なんて」
社長で父でもある佐塚 修平は青ざめた顔でそう言った。
「貴哉くんが...椿との婚約を無かったことにしてほしいそうだ」
「...で?」
「でって...その、椿」
「それだけなの?」
「なんだが...」
「お前はショックじゃないのか?」
「なんでショックを受けるのよ。何年も貴哉となんて会ってないし」
「そ、そうなのか?ずっと貴哉くんと結婚するって言っていたじゃないか」
「そうしておくのが便利だったから。貴哉と結婚するって言っておけば他の相手を勧められたりしないでしょ?向こうだっておんなじ理由で否定しなかっただけだから。大企業の社長で父親の癖にそんなこともわからないの?」
「と、とにかく。貴哉くんのお相手が、椿と貴哉くんの婚約を気にしてるそうだから、きっちりと白紙にしたいと」
「白紙にもなにも、口約束だけでしょ?」
「...」
「正式な婚約なんてしてもないのに」
「とにかく、お前がそんないい加減な気持ちで言っていたのだとしたら、椿...すぐに貴哉くんにお詫びしてきなさい」
「はぁ?私がどうして、わざわざお詫びなんて?」
「どうもこうもないだろう。何年も何年も、親も周りも騙して!」
「...とりあえず、会ってきたらいいのね?」
「す、すぐに行ってきなさい!」
(貴哉と会うなんて!)
確かに修平からしてみれば、connoグループの社長の息子である貴哉は大切にしなければならない人脈だ。
電話一つ、人伝えといかないのはわかるのだけれど。
朝から気分が悪い!
(そらたんを見れる貴重な時間なのに!)
「貴哉の勤め先は?」
「宝生の本社だ」
イライラしていたから、足音も高らかに椿は自分の車に再び乗り込むと、貴哉の会社に向けて車を走らせた。
近くに車を停めれば、“宝生”は大きな会社だからすぐにわかる。
受付嬢の元へ向かい
「紺野 貴哉に会いに来たの、どこ?」
「あの、どちら様でしょうか...」
「佐塚 椿」
「紺野さんなら営業課ですが...連絡しますから少しお待ち...」
すぐに部署が出てきたのは彼女らが優秀なのかそれとも貴哉が目立っているからか。
きっとその両方か...。
「営業課ね」
「あ!お待ち下さい~」
椿はカツカツと靴音をさせてざっと周囲に目をやり、エレベーターを見つけてその前にいた男性に
「営業課は何階?」
「17階です」
「そう、ありがとう」
「え、え、」
と彼は突然現れた美女に目を白黒させてエレベーターに乗り損ねた。
そうやって人に聞きながら行けばすぐに貴哉のいる場所は見つかった。
「貴哉!」
と、入り口で呼びかける。無駄な事は一つもしたくなかった。
「...出たな、マングース...」
貴哉の呟きが耳に入る。
「呼んだのだからすぐに出てきなさいよ」
舌打ちをしながら、彼女をみた貴哉は画面から目を離さずに
「お前はバカか、俺が忙しいのがわからないか?」
(バカが!私だって忙しい)
「この、私がっ!わざわざ来てあげたんでしょ?感謝しなさいよね」
「相変わらずの猛獣ぶりだな。そもそもお前のいい加減な発言のせいでこちらは面倒になっている」
確かに巻き込んだかも知れないが、自分だってそれを利用していた筈だ。
相変わらず貴哉とは相性が悪すぎる。
「小賢しい貴哉には、ここですぐに私の相手をする方が、早く面倒が終えられるとわかるはずだけど?」
「5分待て」
貴哉は画面から離さずにそう言った。
(こっちだって仕事抜け出して来てるってゆーの!!)
5分と言われたけれど、そんな時間も惜しい。
ツカツカと歩み寄ると、バン!とキーボードに手を置いた。
「生意気。貴哉のくせに」
と、顔を近づけて言った。
「ちっ」
貴哉はぐいっと椿を机から離すように押し退けると
「少し、出てきます」
やっとそう言って立ち上がった。
「お、おう」
上司らしき男性が返事をして、
「そうやってすぐに立てば良いのよ。相変わらずイケてない」
椿は嫌みを言ってやった。
そうして連れだって歩けば、椿も貴哉も容姿の優れた二人であるから、注目を浴びるのは仕方がない。
「そこ」
貴哉も同じく無駄が嫌いだから、そこにはいるという意思を示してきた。
カフェに入り、飲み物を頼むと
「最初から結婚なんてする気もないくせに」
「俺もそう思ってたけど、兄が余計な事を言って由梨を誤解させた」
貴哉の兄の洸介が貴哉の彼女に椿の事を言ってしまったということか。
「由梨...誤解...。本気で結婚する相手見つかったの?」
この男に『結婚』なんて不似合い過ぎる。しかし、そうしたいと思わせる女性が現れた事に椿は素直に称賛を送りたい。
「そうだ。だから、お前のいい加減な発言がいまはとんでもなく迷惑になっている」
「それはすみませんでした。これでいい?」
至極真面目に謝った(椿にしては)。
その事に貴哉の目には驚きが見える。(椿の目線では)
「ま、とにかくそっちも親にそう伝えて、きれいさっぱり取り消してくれ」
「望むところよ」
「じゃ、そういうことで」
「お詫びに新居くらいはお世話するから」
「ふっ、それは専門家の佐塚に頼むとするか」
椿に笑みを見せるなんて。
(ふぅん?なんか変わった?)
「じゃ、行くから」
と立ち上がれば
「あ、おめでと。貴哉」
「ん?」
「幼馴染みとして、素直に嬉しい」
「...お前も、そうやってマングース被ってないで素直になれ」
椿がマングース被ってるとすれば、貴哉はブリザードを纏っている。
お互いの心理は何となく手に取るように分かる。
「あー、もう。午前中が...時間を無駄につぶされたわ」
「こっちもな」
「払っといてよ」
二人ともどちらにしても懐が痛まない金額だ。
わざわざ出向いたのだから、貴哉が払っておけばいい。
椿は来たときと同じようカツカツと靴音も高らかに早足で歩き車に乗り込んだ。
似た者同士の貴哉に『結婚したい』と思わせる相手が出来た、その事はとても嬉しくて椿は少し笑みを浮かべた。
同類だった貴哉の変化に何となく椿は元気をもらった気がした
貴哉の元から会社に戻った椿は、何事も無かったかのように仕事を始めた。きっと社長の 修平から椿の予定は告げられているだろうから。