第三章・歪み③
――落ちる――落ちる――落ちる――
暗い暗い闇の中、拓海はただ堕ちていく。
落ちて、落ちて、落ち続けて、不意にふわりと身体が浮かんで着地する。
その瞬間、真っ暗だった周りが点灯し、幕が上がる。
そこには見覚えのある光景。公園で、ボロボロになった一人の少年がいて、誰かと話している光景があった。
『――また、何の抵抗……えーっと、やり返さないでやられたの?』
『うん……だって、どっちの言ってる事も正しかったし、それにただやり返すだけじゃまたやり返されるだけだって、シショーも言ってたから……』
泣きじゃくるのを我慢しながら、律儀に通っている道場の師範の言葉を守った少年はきっと誰よりも強かった。
でも、これでは少年が傷付くだけだし、何時までもこれでは少年を介抱する者は勿論、あの人もあの娘も悲しむ。
『うん、そうだね。でもだからって何もしないのは駄目だし、何より君の為にもならない。それだと君自身が壊れちゃう』
だから一つ、彼に自分の考えを教えてあげよう。
『どちらが正しい、どちらが間違っている、というのも大事だけど、なにより大切なのは自分自身はどう思っているか、なんだよ』
『……そうなの?』
『うん。それで改めて聞くけど、どちらの言葉も正しいと思ったみたいだけど、君自身は何か言いたかったことはなかった?』
『…………あった』
『ならそれを突き通せばいい。誰かの味方をしたり、誰かの助けをするのは良いけれど、それでどっちつかずじゃ、言い方は悪いけど邪魔なだけ。なにより自分を守らない人に誰かなんて守れない』
その言葉に、その光景を見ていた拓海は思わず目を伏せた。
対して続けざまに『それはヒーローだって一緒なんだよ』と言って、少年はヒーローの言葉に反応してか、目を輝かせながらも丸くして『そうなの⁉』と驚く。
『そうなの。まぁ、それでもどうにもならない事もあると言えば、ある。多分その時は、君は必ず挫折を味わる事になっているのかもしれない』
『ざせつ?』
『……その意味は、勉強していればいつか必ず知るよ。だから、それを味わった時の為に、君にとっての〝たったひとつ〟を探しておくんだよ』
どんなものにも、挫折はつきもの。それもヒーローとなれば、幾度となく襲い掛かってくるだろう。だからこそ挫折にも屈しない意志を貫き通すには、絶対欲しい、守りたい〝たったひとつ〟が必要なのだ。
『……といっても、君はもう、とっくに見つけてるみたいだけどね。最近の子はマせてるなぁ』
〝たったひとつ〟の意味が分からなくてしんぷんかんぷんな少年を置き去りにして、楽しそうにクスクスと笑っていた。
(――懐かしいな)
少年だった者――拓海は、感慨深くそう思った。それには結局その言葉を守れずにいる申し訳ないという気持ちと、あの頃には戻れないという切なさが入り混じっている。
これはいつの頃のモノだったか?
(確か、ヒーローに憧れるようになって、数週間経ってからのものだったっけ?)
かなりの年月が経っているし、同じ事は二度も言わない人だったけれど、あの人の言葉はどれも拓海にとってかけがえのない、自分を構築する一部で……。
(………………あれ?)
――だというのに、なぜだろう?
あの人の顔が、塗りつぶされたみたいに思い出せない。
内容は思い出せても、どんな声をしていて、いつどんな時に知り合って、どんな関係だったのかさえ分からない。
(なんでだ? なんで――)
焦りを感じ、一刻も早く思い出そうと記憶の奥底を探ろうとして、
「―――フフッ」
耳元で囁かれるように聞こえる、あまり覚えのない声によって、夢は唐突に終わりを告げた。
***
反射的に意識を強制的に叩き起こし、咄嗟に無詠唱身体強化による手刀を突き出す。
感触はない。しかし突き出した手には妙なものに包まれているような感覚を覚え、そこになにかがあるのを確信する。
「全く、元々素人の癖に躊躇いなしとは。盟友のお気に入りだけあって、単なる有象無象ではないか」
その時、呆れたような声音が目の前から聞こえ、目を開く。
するとそこには楓を盟友と呼ぶ、スミレがベットで眠る拓海の上に跨っていた。拓海の手刀は正確にその心臓を貫いている。
だがそれに対しスミレは痛がる素振りを一切せず、それどころか血も出ていない。さらにこの感触は察するに高濃度の魔力。ということは、
「幻影、か」
「その通り。改めておはよう、盟友のお気に入り。夜這いしにきたのだが、いかがかな?」
「悪いが、俺にそんな趣味はない。つーかとっとと退け」
「つれないな」
と、スミレは肩を竦めてふわりと浮き上がり、夜空をみえる窓辺に腰かける。
拓海も身体を起こしつつ、軽く解して調子を確認する。
(……まだちょっと身体重いけど、自覚した時よりはだいぶ軽いな。これなら、もし幻影で攻撃してきても少なからず対処は出来る、はずだ)
とはいえ倦怠感に似たこの怠さからして、拓海の身体に潜ませていた魔力を使って幻影を作ったわけではないだろう。
恐らく外から魔力だけを送り込み、もしくはどこかに鱗粉みたく付着させておいて、遠隔で魔術を発動。今になって幻影を作り上げて、今の状況と言ったところか。
「前者が正解、と言っておこう。一つ付け加えるなら、これは有幻覚を紛れ込ませられるようなものじゃなく、単に惑わすためだけのモノ。少し伝える事があったので、こうして汝とただ語り合う為に、態々魔力を使っているのだ」
そう言っている間も、スミレは楽しそうに、面白いモノを見ているような視線を送ってくる。
――不愉快だな。
「……あぁ、そう。それはご苦労な事で。で?」
だからお返しにわざと逆撫でするような態度を取るも、それは無視されこちらがイラッと来る始末。
もし楓が敵対していたらこんな感じになっていたのだろうか、と思っていると、「しかし、なるほど」と拓海の眼を覗き込むように呟く。
初対面の時のことを思い出したせいか、無意識にそれから背けてしまう。
「余もそこそこ観る眼が衰えてきたか。やっと気づいたよ、それが汝の本性か」
「何の話だ」
「その眼の話だとも」
そう言ってスミレは拓海の眼を指差す。
「我らと同じように戦場を渡り歩いたわけではないだろうに、必要とあらば一線を越えるのも厭わないという、そういう眼なのだぞ、それは」
どう考えても明らかに歪んでいる、壊れている。
「そういう眼をしているというのならば、考え方、道徳心諸々歪むものの筈。だのに、価値観は普通のつまらない人間たちと同じように見える」
やってはいけないことはやってはいけない、という当たり前を分かっているのは、スミレからすれば違和感でしかないのだろう。
「簡単に言えば、酷く中途半端だ。――いや、だからこそ、か。汝が汝たらんとしていられるのは」
「……だから?」
それがどうした。そんなのは昔から知っている。
本来なら、一度立ち止まってでも直すべきところだろう。だけど今は止まれない。その考えに至るのが少し遅かった。
今この時のように、突如敵が目の前に現れる事がある状況で、守りたい人、守りたい人達を放っておけない。
その為ならば、俺はなんでもする。そう、拓海はとっくに結論付けていた。
「そんな事より本題を言え、時間がもったいないだろ」
もう俺で遊んでもつまらないだけだ、と言うように拓海は冷めた態度で催促する。
そうすると、スミレは目を丸くして、何故かさらに楽しそうに笑みを深める。
「……なんだよ?」
「あぁ、いや、なに。改めて面白い人間だと思っただけだ。実に我ら好みだ、これなら盟友が夢中になるのも理解できる。余ももっと汝を観ていたい気になってきた」
「勘弁してくれ……」
拓海は思わず顔をしかめる。
彼女は心を許せる友人であるが、だからといってあんな厄介者は、楓一人でお腹いっぱいなので勘弁してほしい。
「あぁ、心配しなくてもそうなることはない。余は盟友を連れて戻らなくてはならんのでな」
「……それは結構だが、あえて聞こうか。なんでだ?」
拓海は彼女たちの過去を知っている。楓の口から聞いてもないのに聞かされている。その上での問い。
「そうだな……まぁ、なんというべきかと悩むが、一言とするならば――」
――とっくに余達の時代は終わっているから、だな。
「……っと、余談が過ぎたな」
そう言ってスミレはその話を早々に切り上げ、漸く本題を入る。
それは場所。それを伝えてくる意味は端的に言って――そこに、彼がいる。待っている、ということらしい。
行くも行かぬも勝手とのことだが……それは、拓海にとって愚問だ。それはスミレにも理解できた。
「――――生き残れば、まぁ汝を殺すのはやめよう。その頃には我らも決着を着けている頃だろうからな」
だから問わずそれだけを語ると振り返り、するとまるでそこに誰もいなかったかのように、その幻影を消した。




