ティリアのひとりごと 中編
リプエ神の『枷』となる者は、強大な彼の力の一部を手にすることになる。
もちろん、なんの代償もなしにそんな力を手に入れられるはずはない。
『枷』は、リプエ神を繋ぎ止めるために選ばれた存在。
ゆえに、『枷』となる者は、心が彼から離れることを許されない。
別れ際の愛の女神の甘いけれど非情な言葉――。
戸口に立ったわたしの背中を追って、聞こえよがしに呟かれた。
彼は、苦痛に耐えているようだったの……。
さすがに戦神だけあって、そんな素振りは見せないように振る舞ってはいたけれど?
どういうことかと振り返り目で問うわたしに、女神は、……ふふふ、と忍び笑いを漏らした。
それがまた、たまらなくもあるのよね……。
まるで一夜の夢をたどるかのように、隣室へ通ずる扉へ蕩けるような笑みを向ける。
わたしは女神を睨み付けようとして。
女神の蠱惑的な瞳におりた昏い影がちらり、と揺れたような気がした。
「……彼もまた、『枷』に、縛られているのよね……」
当時十歳だったミシュアにリプエの陰を見たときは、正直驚いた。
ミシュアは同年代の神達とくらべても発育が悪くて虚弱で、繊細な心の持ち主だったから。
とても、リプエ神の『枷』として、……相手がつとまるなどと思えなかった。
手元に引きとろうと呼び寄せて、さらにわたしを驚愕させる事実が発覚した。
ミシュアは、両性具有だったのだ。
けれど、予知、予言の女神であるわたしがこの目で見たのだ。
間違いはない。
心にとらわれるものがあったら、予知などできない。
あのときのわたしに、そんなものはなかった。
あまりにも自然にあまりにも鮮明に、その映像はあらわれた。
わたしはミシュアを掌中の珠のごとく慈しんで育ててきた。
日々の神々の霊酒は言うに及ばず良さそうだと思われる物を種々与えたりもしたけれど、ミシュアの体はやっぱり小さくか細いままだった。
もう二十歳を過ぎるというのに、十五、六の子供にしか見えない。
両性具有だからだろうか?
医療の神のもとへも連れていったけど、心配はないと言われた。
時が解決してくれますよ、とだけ……。
ミシュアが三十を迎える前の年、困ったことが起きた。
先代のミシュア神、つまりミシュアの姉がとうとう精神を病んでしまったのだ。
運命の神の仕事は過酷だ。
その目に、見たくもないものまで映し出す。
その点では予知、予言の女神であるわたしも変わらないけど、なにしろ数が膨大すぎる。
たとえすぐに忘れてしまうのだとしても、目撃した瞬間の衝撃を拭い去ることまでは難しいようだった。
彼女のかわりをつとめられる能力を有する者は、ミシュアをおいて他にはいなかった。
わたしは反対した。
あのこは体が弱いのだと、運命の神は代々女神がつとめてきたことも訴えた。
けれどわたしの主張は、この一言で一蹴された。
……この役目を果たすに肝要なのは、魂なのだよ。
程なくして、わたしはこの言葉の意味がなんとなくわかった気がした。
わたしはミシュアが壊れてしまうのではないかと気が気でならなかったけれど、ミシュアは案外淡々と仕事をこなしていた。
今のミシュアと同じ、仕事につきはじめた頃の姉の様子を思い出す。
彼女は衝撃を受けたあとしばらくは、なにも手につかないでいた。
二柱は明らかに違っていた。そうして思い至る。
ミシュアは、男でもあるのだ、と。
ただ、精神はともかく体の衰弱は姉よりずっと酷かった。
リプエに引き合わせるにしても、もう少し体が成長してからでないと。
そう思ってるうちに、ずるずると時がたってしまっていた。
ミシュアの体は十年たっても相変わらずだ。
ミシュア神としての仕事がきついのか、最近は気怠そうにしていることが多くなった。
……試してみようか?
『時が解決する』と医療の神は言っていたけれど、それがいったいいつのことなのやら現状では見当もつかない。
ただ何もしないで悪戯に時間を無駄にする余裕は、もう無いように思われた。
もっともリプエはひきこもっているし、尋ねていったところで会えるかどうかという保証もない。
だから、このときわたしはほとんど期待していなかった。
出会ってすぐの、『一度目のキス』
運命なのだと納得するいっぽうで、徐々に頭が冷えてきて、わたしは焦った。
それって、わたしたちのときより、すごい展開じゃないの?
わたしはミシュアに、なにも伝えてはいなかった。
まさか、そんなに簡単にリプエに面会できるなんて思ってもみなかったし。
どうしよう? なんにも教えないまま、一度目のキスが終わっていたなんて……。
よくぞ、二度目を思いとどまってくれました。
じゃなくて!
ああ。事前にリプエ神の『枷』についてこっそり知らされていたわたしでさえ、いざそのときを迎えたら、あんなにヒサンなことになってしまったというのに……。
リプエの結界をそうそう破れる者などいないし、万一破られたとしても守護者である彼は、即座に泉に駆け付けることができる。
だから、リプエは始終泉にはりついている必要などないのだけど、彼の居館を捜すより泉のほうがいる確率が高いのよね。
特に最近。
それはともかく。
わたしがせっかくなにかと理由をつけて、せっせとミシュアを送り出してやってるのに。
運命の神の仕事は忙しいのよ。他の女神達をなだめたり、ご機嫌をとったり……。
それを……。
わたしが急ぐのには、のっぴきならない理由があった。
十年間変わらなかった、ミシュアの体の変調に気付いたからだ。
やせぎすとまではいかないまでもうすい体が、細いなりにまろやかになってきていた。
そこはかとない色気も漂い、咲き初めの天上の花のよう……。
どうしてリプエは身近に接して、ミシュアの変化に気付かないのか?
変わったのは体だけでは無かった。
精神的にも、前より不安定になっていた。
ミシュア自身己の体の変化に戸惑い、苦しんでいた。
これまではなんでもわたしに相談してくれていたのに。
体調がよくないの? と尋ねても、恥ずかしそうに、ちょっと熱があるだけです、と答えるだけで……。
体だけでなく心まで!
すぐにでも、ミシュアを支えてくれる存在が必要だった。
『一度目のキス』がなされた今、それはリプエ以外には考えられない。
いつまでも戯れてばかりいないで。
ここらでひとつテコ入れをして、そろそろリプエにその気になってもらわないと……。
一度目のキスをされたと聞いたから、ミシュアには、いつそうなってもいいように、慌ててしまうことのないように、早々に話はしておいたのだけど。
少し聞いただけで、あのこったら耳まで真っ赤に染めてしまって。
あのこから女の艶めかしさを感じる日がくるなんて、吃驚を通り越して複雑な気分だわ。
そして、……安堵した。
あのこも、リプエを想っていることがわかったから。
ただ、あんな調子で、ちゃんとわたしの話が耳に入っていたのかしら?
……どこまで、わかっているのやら? ……疑わしいわ。
わたしのときも……。
――わたしは抗ったけれど、彼はやめてはくれなかった。
彼は、……たぶん見透かしていたのだろう。
乱暴な彼の仕打ちに腹をたてながらも、その実わたしは心のうちでは彼がわたしを選んだことを嬉しいと思っていたのだ。
わたしのちっぽけな矜持など粉々にして、彼はわたしを『枷』とした。
今思うと――。
わたしもたいがい面倒くさい女だったわ……。
あのとき彼があんな真似に及んだのも、このままではいつまでたっても埒が明かない! と思ったのかもしれなかった。
彼のことを怒ってばかりと愚痴をこぼしていたけれど、原因は素直になりきれないわたしの態度にもあったかも?
ほんとに、今頃……。
――取り返しがつかなくなってから。
どうして今になってまた、こんなことを考えるようになったのかしら?
今さら、どうしようもないことなのに。
いよいよ、そのときが……近づいているから?
先代のリプエの死の真相を知るものは少ない。
今のリプエは、わたしが先代のリプエの『枷』だったことは知らない。
それが神々の世界の暗黙のルール。
代替わりした神はその能力を受け継いだとしても、まったく異なる存在なのだから。
たとえ先代とどんな関係にあったのだとしても、先代とのすべてはなかったことになるのだ。
あのリプエが素直にわたしの呼び出しに応じて、わたしの館にまで足を運んでくるだなんて嬉しい誤算だったわ。
変われば変わるものね。
しかも、話題はさっきからミシュアの体の心配ばかり。
もう、ぞっこんじゃないの!
でも、ミシュアの体調の変化に気付いていたのは褒めてやりたいところだけど、焦点がずれてるのよね。
まぁ、愛の女神との一件以来、艶めいたこととはいっさい無縁の世界で生きてきた男に期待するほうが、どだい無理というものかしら?
今日はお天気もいいせいか、庭園の花の香りがむせるくらいね。
この男神には少しは刺激になってくれるかしら?
この庭園は媚薬につかう花も咲き乱れてるのよ。
ミシュアの体の変化をわたしの口から伝えるのも憚られたので、無粋は承知でわたしは山盛りの果実の皿からまだ青い果実を選んで彼の前に差し出した。
彼の顔色がみるみる変わる。
なんか、過程を一段すっ飛ばして解釈されたみたい。
凄い目で睨み据えられて、一瞬ひるんだけれど。
――彼は本気ではない。
本気で怒った戦神の目はこんなものじゃない。
いいえ。
本気なのでしょうけど、……先代とは違う。
なんだろう? 彼の瞳に射竦められて疼くようなこの感覚は?
なにかが、震え上がるような怖さの底に沈むなにかが、心の琴線にふれてくる。