5
「ドノアの結界か?」
ミノタウロスの襲撃のあった日から、俺はミシュアに会っていない。
あの日から二日後には、仕事に復帰したとティリアから聞いた。
明らかに、以前よりずっと憔悴しているはずなのに、ミシュアは俺に会いにこない。
俺からミシュアに説明したことはなかったが、ミシュアもわかっていると思っていた。
わかっていて、俺に会いに来ているのだと思っていた。
俺の傍にいれは、あいつは疲弊した体力を回復することができる。
俺の顔を見ると、襲撃されたときの恐怖を思い出すのか?
それとも、あのとき俺は、知らずにお前を傷つけたのか?
俺は、お前が俺のところに来るのを待っていた。
お前が、俺のところに来てくれるまで、待つつもりでいた。
なのに。
なぜ、俺に会いに来ない?
お前の体は、――――もう限界にきているはずだ!
『わたしも心配しているのだけど。あのこ、仕事中は誰にも会わないって、ずっと閉じこもってしまってるのよ。あそこは今、強力な結界に守られていて、あのこのほうから出てきてくれないことには……。わたしも門前払いされてしまったわ』
俺は運命の女神の座する館の前に立ち、周辺に張り巡らされた結界を確認してため息を漏らした。
厄介だな。
あいつは戦女神でも、俺と違って、この手のことが得意ときてる。
何重にも張ってやたら面倒くさいことをしている割に、……外からの侵入者に対する警戒しかしていない。
日頃、俺のことを、考えなしだの、さんざん偉そうに言ってくるくせに!
さすがにここまで近くに来ると、ミシュアの指の黄金の指輪を中心におぼろげながら周囲の様子が見えてくる。
力なく横たわるミシュアの姿。
弱っているあいつを無理やり連れだすのは無理だ。
やはり、俺が行くしかないか。
ぴしぃっ!
……ドッ カアアアアアァン!!
一帯を覆いつくしていた粉塵がようやく収まってきた。
見通しがきくようになり、俺は自らの張った結界を解くと同時にちらと辺りを見渡し……
……こーなるんじゃないか、って気はしたんだよな……
一応の努力はした。
――――が。
ややこしすぎる。こっちは、時間がないんだ!
壮麗だった運命の女神の居館は、主だった巨大な柱がわずかに残るばかり。
――――廃墟と化していた。
「……ミシュア」
瓦礫の山と化したミシュアの元仕事場だった場所で、俺はミシュアを抱きしめていた。
「やっと会えた」
もとから細かった体はさらにやせ細り、血の気の失せた顔は人形のように生気がない。
瞳は閉じられたまま、青白く乾いた唇がかすかに動いた。
「……」
聞き取れないその声に、懐かしい声を聞けない切なさに、胸が締めつけられる。
「ミシュア。俺は、覚悟を決めた」
ミシュアの柔らかな唇に親指で優しく触れる。
「お前はなにも心配しなくていい」
意識があるかどうかも定かでないミシュアに、俺は誓いを立て――。
ミシュアに、二度目のキスをした。
触れあっている唇が、ミシュアを抱きしめている腕が、密着している体がどんどん熱を帯びていく。それは瞬く間に俺の全身に広がり、次第にその熱量を増していき――――冷たいミシュアの体へと流れていく。
始めは優しく、そろそろとミシュアの体をめぐり、徐々に俺の熱でミシュアの体を満たしていく。
………………とくん。
俺の熱にあてられてミシュアの体が熱を帯びる。さらに熱く、もっと強く、もっと激しく―――――。
ミシュアの体がじゅうぶんにあたたまったのを確認して、俺はミシュアを求めて捜しはじめる。
俺の熱にほだされて陶然としているミシュア自身を。
「…………あ」
見つけた……。
朝陽をあつめたような、美しいミシュア……
俺はミシュアを誘い出す。
慎重に、優しく、丹念に、俺のなかにミシュアを――――――。
…………ミシュア。
俺が今から行うことは、お前を助けもするが、苦しめることにもなるだろう。
これからは――――。
お前の心が俺にあるとき、お前は俺の力を自由に引き出すことができるようになる。
どんなに離れていようとも、たとえお前にその意思がなくても、お前が生命の危機にさらされたとき、俺の力はお前のもとへ流れていく。
――あのケンタウロスさえもひれ伏せさせる力をお前は得る。
だが、お前のなかの俺の力は、お前を縛る鎖ともなる。
お前が俺以外の者に心を奪われたとき、その力はお前を縛りあげ苦しめる。
ミシュア。俺はお前に訊かなかった。
俺はお前に、その覚悟を求めない。
お前がその重さに耐えきれないと言うのなら、俺がお前を解放してやる!
「…………あぁ……」
瓦礫に腰をおろした俺の膝の上にミシュアを座らせ、俺は中天に輝く太陽を見つめていた。
ミシュアに初めて会ったのも、こんな時間だったな。
ミシュアの肩を抱く俺の指にはミシュアと同じ黄金の指輪がはまっている。
やがて、あのときと同じように陽光を反射して、俺の指輪とミシュアの指輪はそれぞれの指に沁みこむように消えていった。
「……リプエ」
夢うつつだったミシュアが、指輪の消えた指で俺の頬に触れてきた。
俺は優しくその指にくちづける。
「……僕……」
ミシュアのもの問いたげな眼差しに、俺はなんと説明したものか考えを巡らしていた。
「……リプエ、ほんとに、僕でいいの?」
全身で不安を訴えるその姿が、頼りなくて愛しくて、肯定の意思をこめて抱きしめる。
俺がミシュアの耳元で囁こうと顔を近づけたとき、ミシュアは震える声で思いがけないことを口にした。
「……先代のリプエ神は戦いのあとに亡くなったけれど、戦いのせいで亡くなったわけではないと……」
―――――知って?
俺は咄嗟にミシュアの唇の間に親指をはさみ、ミシュアの口からその忌まわしい古事が語られるのをさえぎった。
ミシュアの瞳から大粒の涙がこぼれる。
……お前はまた、泣くんだな。
「俺は、お前が男だと思ってがっかりしたんだ」
ミシュアの瞳が瞬きしばらくして俺の言葉の意味を理解して大きく見開く。
俺がミシュアの涙をなめとると、ミシュアがかすかにびくっと固まった。
なにがおきたのかと瞳は空を彷徨い唇がぽかんと開かれる。そのうち首筋まで紅潮して………
あのときのお前は、女のミシュアだったから?
ミシュアの可愛い反応に俺も戸惑い、そして……。
俺は今のお前も知りたい……。
もう一度、今度は優しくくちづけた。
たぶん、初めて見たときから。
でなけりゃ、わざわざ出向いていって、結界の中に招き入れたりするものか。
「僕も、……僕もずっと、リプエにキスしてもらいたかった……」
覆いかぶさるように立つ大樹の陰で、俺はまどろんでいた。
気持ちよさそうに寝入ってしまった眼前のミシュアの顔を眺める。
差し込んでくる木漏れ日から、いつの間にか昼になっていたのだとぼんやりと思った。
俺はやおら起き上がり、ミシュアが持ってきた籠のなかから瑞々しい果実を取り出した。
かしぃっ。
口のなかいっぱいに甘酸っぱい果汁がひろがる。
唇にこぼれた果汁をなめとりながら、ミシュアを味わったあとだと物足りないなどと浮かれたことを思いつつ、隣で眠るミシュアを見やる。
……ミシュアの体は、今どうなっているのだろう?
関心はつきないが……自制できるかどうか自信がない。
特に今は……。
建て直されたミシュアの居館にはドノアの結界が張り巡らされている。
俺がやると言ったのだが、ミシュアと『枷』で繋がれている俺では万が一のことを考えるとリスクが高いと却下された。
竣成して間もなく尋ねてみたら、ドノアのやつ、今度は意地になって前より強固にかつ厳重に張りやがったから、館にいたのではミシュアのほうから俺の力を引き出すことが難しくなってしまった。
おまけに、館どころか庭園に至るまでそこかしこにドノアの気配を感じる。あいつに監視されているみたいで、どうにも居心地が悪くてたまらない。
仕方がないのでミシュアにそろそろ疲れがたまっている頃合いを見計らって俺が結界にひきこもり、ミシュアに会うようにしているのだが、なぜか俺のところに来る前日になると決まってミシュアの疲労の度合いが一気に限界近くまで跳ね上がってしまう。
どうも相当無理をして、仕事を前倒して片づけているようだ。
……当のミシュア自身が気分が高揚していて自覚がないあたり、いじらしい。
――これで、当分は大丈夫だと思うが……。
――そう。
俺は『二度目のキス』からミシュアの体調だけでなく気持ちの浮き沈みもなんとなくだが、感じ取れるようになっていた。
その気になればもっと詳しく知ることもできるのかもしれないが、俺もさすがにそんなことまでは望まない。
それにミシュアが昂っているときにはさっぱりだしな。
気になるのは、もしかしたらミシュアのほうでも同じことができるのではないかということだ。
だから、ミシュアに気づかれないように、俺はなるべくミシュアの気持ちの先回りをしてしまわないように気をつけている。
ミシュアがそういうことをするとも思えないが……。それに、仮にそうなっとしても俺のほうでブロックすることができるはず。……たぶん?
………………。
そうでないと困る。……いろいろと……。
館にいて不運にも巻き込まれた女神様たちは、皆さん無事でした。
あのあと、後始末やらなんやらでそれは大変だったんですけど、それはまぁ、いつものことで……。
お読みいただいて、本当にありがとうございました。