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ティリアも言っていたが、運命の神の仕事は、そうとう大変な勤めらしい。
ミシュアの体に流れた俺の力を媒介にして、俺はミシュアの体調を、離れたところにいてもおおよそ知ることができるのだ。
勤めの終わる日暮れ前には、ミシュアは疲れ切っていた。
俺と出会う前のミシュアは、もっと大変だったろう。
俺は定期的にここに引きこもり、ミシュアがやってくるのを待つ。
そうしてミシュアが寝入ってしまったら、俺はミシュアの額にそっとくちづける。
そうすれば、少しは俺の力を流してやることができるのだ。
ティリアの思惑通りなのは面白くないが、俺にはそれより……。
ミシュアには、いつかちゃんと話さなければならない。
そう思いつつも、俺はずるずるとそれを先伸ばしにしてきた。
ミシュアどころか、俺自身がなんの覚悟も出来てなかったからな……。
もしあのとき、こんなことになるとわかっていたら、俺はあいつにキスをしただろうか?
たぶん、……しない。
相手になにも伝えずそんなことをしたら……。
どんな結果になったかは、わかってることじゃないか――――
起きてしまったことは、もう取り返せない。
破壊の神と恐れられる俺はずっと、一人だった。
俺は無邪気に俺に笑顔をむけてくれるミシュアが、かわいくてたまらない。
――このままでもいいのではないか?
そんなムシのいい考えが、頭を過ぎる。
俺の力は、幸いミシュアの助けにもなっている。
このまま、この静かで安らぎに満ちた時間が続くのなら……。
「ミシュアにはちゃんと仕事を手伝ってくれる女神達がついてるわよ」
「じゃあ、なんでいつもあんなに疲れてるんだ? それに……他の女神でもできるというなら、かわってもらうことはできないのか? あいつは日に日に弱っていってるんだぞ」
俺は神域であるレストゥールリアの園に建つティリアの館にいた。
色とりどりの花が咲き乱れ甘い香りの充満する庭園の東屋で、ティリアと差し向かいで話をしている。
ティリアは困ったような表情を浮かべた。
「確かに絵を描くのを手伝ってはくれるけど、最終的なチェックは全部ミシュアがしてるのよ。それで間違ってるところがあれば、あのこが修正してる。あのこのかわりなんて、いないわ」
憂い顔で、ティリアは山盛りに盛られた果実のひとつを取って、俺に差し出してきた。
「…………」
俺を呼び出した用件はそれか?
俺は舌打ちしたくなる感情を、どうにか飲み下した。
ミシュアの養い親だったティリアは、泉であったことをミシュアから聞いて知っていた。
そして今、目の前に露骨に差し出された果実を見て、俺は前から抱いていた疑問に確証を得た。
こいつははじめから、そのつもりで、ミシュアを俺のもとへ寄越した!
ぎり! と俺が睨み据えると、ティリアはわずかにたじろいだ様子を見せた。
だがすぐに居住まいをただして、俺に向きなおる。
「一見楽しそうにも見えるけど、今のあなたたちは、とても不安定で頼りなくて……。心もとなくて、とてもじゃないけど見ていられないわ」
気楽に言ってくれる!
破壊してばかりの戦神は、なにも考えていないとでも思っているのか?
そのことで俺が日々、どんなに悩んでいるかということも。
――――――なんだ?
声が聞こえる。
…………ミシュア?
なんだ?
この無性に落ち着かない感じは?
どくん!
警告? 戦場にあるときのような? ……だが、戦いを前にした高揚感はない。
…………嫌な……胸騒ぎがする!
『…………』
『貴様の描いた運命のせいでっ!』
『僕の描いているのはベースだよ。なんにもなくて真っ白だと、自分がどこにいてどこへ向かって踏み出していいかわからないでしょう?』
『うるさい! この化け物めっ!』
――――――ミシュア。
ミシュアの指が光る。ミシュアの指に黄金の細い指輪が浮かびあがる。
その映像が俺の目の奥に鮮明にあらわれた刹那――――
突如まばゆい光の柱が俺の周囲を囲み、視界が途切れる。
次に俺の目に飛び込んできたのは、今まさにおどりかからんとしているケンタウロスの姿だった。
「ぐわっ!」
俺が突然この場に転移した空間のひずみのあおりをくって、ケンタウロスが大きく態勢をくずして後方へ下がる。
ケンタウロスが何が起きたかを理解するより早く、俺はヤツの前に移動していた。
賊の首をはねようとして―――
俺の後ろにミシュアの気配を感じる。
「ぐああぁあ……」
今ここで殺すこともできたが、ミシュアが見ている。
俺は素早く回り込むとケンタウロスの腰角を中心に『気』をぶちこんだ。
骨が粉々に砕ける音が聞こえる。
泡をふき動けなくなったケンタウロスは、俺の言葉を最後まで聞くことなく失神した。
「神域に侵入して神を害しようとしたんだ。この程度ですんで、ありがたく思え!」
賊の始末が終わってから、俺はようやくここが沐浴場であることに気がついた。
振り返るとミシュアが浴場の縁に手をついて立ち上がろうとしているようだった。
だが。
腰が抜けてるのか?
無理もない。さぞかし怖かっただろう。
声をかけるのももどかしく水を蹴立てて近づいていく俺を見て、ミシュアが身をすくませた。
ミシュア?
どうした?
俺が来たんだ。もう大丈夫。心配はない。
なのに、……なぜそんな怯えた顔をして、俺を見る?
ミシュアの前まで来て腰をおとし、抱き上げようと腕を回す。
ミシュアが身を縮めて逃れようとしたので、俺はミシュアの腕をつかんで振り向かせようとした。
…………!
か細い腕に隠れていたミシュアの胸が露わになる。
ミシュアの胸は、……以前俺が見たときとは変わっていた。
「…………ミシュア?」
見間違いではないのか?
己の目で見ているものが信じられず。
その存在を己の手で触れて確認しようと――――――
白く柔らかそうなふくらみが俺の指のすぐ先にある。
開き始めた蕾のようにささやかでかわいらしい。
俺がごくりと息をのんだとき。
ミシュアの冷たい手が俺の手首をつかんだ。
「……嫌」
その震える手の冷たさに、俺は……我に返った。
どのくらいそうしていたろう。
ミシュアが、鬱々と重い口を開いた。
「彼は、……さっきのケンタウロスは恋人が死んだんだって。人間の女性に恋をして、……はじめは化け物って恐れられてたけど、本当に長い時間をかけてようやく結ばれるってときに死んだって……」
『化け物』……
「リプエ、いい香りがする……」
それまでぐったりとしていたミシュアが、俺の胸に顔を埋めて囁いた。
ミシュアの香りを楽しむように顔を動かすしぐさがくすぐったい。
ミシュアの甘い響きをのせた声が聞けたことで、こんなにも嬉しくなる。
俺も少し弾んだ声になって、ミシュアの髪に頬を寄せる。
「あぁ、ティリアのところにいたからな」
俺の腕のなかにいたミシュアがぴくりと動いた。
キトンがかすかに引っ張られる感覚がして、胸にかかっていたミシュアの重みがわすかに軽くなった。
「……」
「まだじっとしていろ」
そう言って俺が額に唇を寄せたとき、ミシュアが弱々しく俺の胸を押しやった。
「化け物って……、僕もきっと気味が悪いよね」
ミシュアは顔を俯けて、消え入るような声で呟いた。
泣いているのか?
俺の心にさっきとは比べものにならないケンタウロスへの殺意がみなぎる。
ヤツは恐怖を与えただけではない。
ミシュアの繊細な心までも傷つけた。
「そんなことはない。ミシュアは綺麗だ」
「……」
「俺が保証する。お前ほど綺麗なやつはいないよ」
「……ほんとに? ……そう思う?」
ミシュアがやっと顔を上げてくれた。
涙をためた瞳で上目遣いに俺を見る。
呼吸のまだ整わない唇は、軽く開いて……
「ああ」
俺はミシュアの額に優しくくちづけた。
そうして少しずつ俺の力をミシュアに送ってやりながら。
「俺は自然のままの姿が一番美しいと思う。お前はまだ子供だし、ミシュアが変わったのが、その、お前の体の特性なら、大人になるってのがそういうことなら、お前が気にすることはない……と思うぞ」
ミシュアの頭に頬ずりをして囁く。
……俺にはこれが精一杯だ。これ以上はどうしていいかわからん。
「…………違うかもしれない。僕の体は……ともにいてくれる人の影響を受けるんだってティリア様が仰ってた。それって僕にどうこうできることじゃないらしいから、自然に……って言えばそうなのかもしれないけど?」
ちょっと待て?
それって、逆にふれる変化もありってことか?
「…………」
そうなった場合、ミシュアはどうなる?
俺は額に手を当て、考えこんでしまった。
ミシュアは俺の胸に預けていた頭を気怠そうに持ちあげた。
「リプエ、僕は男でもあり女でもある、なんてすごく曖昧な存在だけど、でもこれって、僕の仕事には役立ってると思うんだ。むしろ、必要なんじゃないかって気がしてる。やればやるほど……」
いつもとは違う、抑揚にとぼしい声音。
疲れているだけなのか?
妙に……冷たく聞こえる。
「だから、僕は大丈夫。さっきのショックで、ちょっとどうかしてたんだ。変なことを言って、ごめんなさい」
よそよそしい言葉にたまらず俺はミシュアを抱きしめようとして、ミシュアの両手が俺の胸を押し返した。
「……」
「ミシュアッ!」
血相を変えてティリア達が駆け込んできた。
「なんてことでしょう! 怪我はない? まぁ、真っ青じゃないの! あぁミシュア。かわいそうに……」
ティリアが両手を広げて駆け寄ってくる。
悄然と見守る俺のもとから、ミシュアのか細い体が離れていく。
ミシュアがティリアのほうへと歩き出そうとして。
ミシュアの華奢な体は、ティリアに抱きしめられた。
「本当に無事でよかった! 無事でよかったわ、ミシュア」
「……大丈夫です、わたし」
「ミシュア?」
「…………同じ……香り」
訳のわからない苦々しい思いを持て余していた俺の目の端に、ミシュアが崩れるように気を失っていく姿が映った。