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「見つけた」
キラキラと降り注ぐ陽光を背に、そいつは俺の張った結界を平気ですり抜けて近づいてくる。
「また、ドノアともめたんだって? 毎回毎回よく同じネタで喧嘩になるもんだって、みんな呆れてるよ」
くすくすと笑いながら、俺の隣の草むらに腰をおろす。
ここは俺の秘密の場所だ。
林のなかの泉のほとりにこんもりと枝を伸ばした大木の根元に寝転んで。
荒くれ者の俺がなにか騒ぎを起こすたび、こうしてこいつが俺をいさめる役を仰せつかってやってくるまでの時間を過ごすのだ。
「お前も毎度ご苦労なことだな」
隣に座ったそいつの顔を見もしないで、素っ気なく言葉を返す。
そいつにしては珍しく、すこし低めの柔らかい声にかすかに棘があるような気がしたからだ。
――そういえば、この前俺から会いにいくって約束をしていたっけかな?
館の庭の自慢の薔薇が見頃を迎えるとかで……
「そう思うんなら、少しは自重してよね。リプエ」
ふわりと甘い香りがして、蜘蛛の糸よりも細い金の髪が俺の顔に降りかかる。
朝陽をあつめて象ったような双眸が、ゆっくりとおりてくる。
……あ。やっぱり。ご機嫌ななめだったか。
しかも――これまた珍しい。向こうからキスをしてくるなんて。
俺は思わずそいつの顔に見入ってしまった。
信じられないのと嬉しいのと……、俺の気持ちはしっかり顔に出てしまったらしい。
そいつの顔が一瞬こわばって赤くなるのがわかった。
やめてほしくなくて俺がそいつの腕に手を伸ばそうとしたとき、またそいつの顔がおりてきた。
……が、微妙にずれていってないか?
俺はたまらず、そいつの腕をつかんでいた。
そっとくちづけると、恥ずかしそうにしながらそいつはおりてきたときと同様にゆっくりと俺から離れていった。
「だがそのお蔭でお前に久しぶりに会えたんだから、悪くない」
柔らかな唇の感触の余韻を楽しみながら、そいつの顔を見上げる。
抜けるような白い肌、完璧に整った造形美は、神殿に安置されているこいつの彫像の比ではない。
「見ない間に、また、女っぽくなったんじゃないか? ミシュア」
途端にミシュアの頬が赤く染まり、ついで盛大に眉をしかめてみせた。
あ。……これは、こいつには禁句だった。
「…………」
「いや。綺麗になったぞ、って意味で」
慌てて言葉を継いだが、取り繕うつもりなどまったくなく、本心で。
本当にたった数週間会わなかっただけなのに、どんどん綺麗になっていってる。
そう思うのは、俺がこいつに惚れてるからってだけではないはずだ。
だが。
「嬉しくない。……いや。嬉しいけど、……それは素直に喜べない!」
頭を振るミシュアの動きにわずかに遅れて、金の髪がさらさらと絹の衣の上をすべる。
こういうのは正直面倒くさいと思うものの、こいつにしたら無理もないことなんだろうか?
『……わかってあげて』
ミシュアの養い親の言葉がふと俺の脳裏をよぎる。
腰まで届くその一房をとり、俺は目の前で草の葉を弄ぶようにくるくると回しながら囁いた。
「俺が褒めてるんだ。難しく考えずに、素直に喜んどけ」
それでも納得していない様子なので、俺はようやく半身を起こしミシュアの細い肩を抱き寄せる。
そうして今度は俺からくちづけて。ミシュアの胸に触れようとしていた俺の左手は、その寸前で優しくはらいのけられた。
「だめだよ、リプエ」
俺の肩に額を押しあて、拗ねたようにミシュアが言う。
「僕は、リプエのことが好きだけど……、僕は運命の神だから」
いつもそう言って、ミシュアは俺から逃げようとする。
それでもいいと言ったのは俺のほうだし、俺のほうからお前を望んだ。
「…………」
――こうなるのも、覚悟のうえ。
これも、繰り返し聞かされてる台詞なんだが、……少し寂しいと感じてしまうのは俺のわがままなんだろうな……
ミシュアの髪の芳しい香りが俺の鼻腔をくすぐる。ミシュアの頭に頬をすり寄せてくちづけをひとつ。
それから俺はゆっくりと体重をかけてミシュアの体をそっと押した。
しっとりとした草の褥にミシュアの金の髪がひろがる。ついでミシュアの華奢な肢体を、俺は壊れものをあつかう慎重さでもって金の髪の上におろした。
恥じらいと戸惑いと緊張で、ミシュアの表情がわずかにゆがんで震える。
今でこそ、拒絶されているわけではないとわかる……、が。
――ミシュアと繋がっていなかったら、こいつのこんな顔を前にして俺は途方に暮れていただろう……
俺が徐々にミシュアの胸に顔を寄せていったらミシュアが俺の肩を押し戻そうとしてきたので、俺はそのかわいい抵抗を封じ込める。
ミシュアの細い両の手首を締めすぎないように掴んで両脇の草むらにそっと押しあて、俺はミシュアの胸に頭を預けた。
ミシュアの両手に力がこもるが、……俺があらためて力をいれるまでもない。
実はこの体勢、長く続けていると結構しんどかったりする。
俺の頭をミシュアの胸にまさかそのままのせるわけにもいかないので、ひそかに両肘で不自然なかたちでふんばっていたりするのだ。
なんでわざわざそんな思いまでしてこんなことをするかって?
それは、ミシュアが手で触られるのは頑なに嫌がるくせに、一応の抵抗はするものの、なぜかこれは許してくれるからだ。どう、違うのかは未だによくわからないが……
とにかく、俺の重みにミシュアのか弱い体が耐えられるはずもないし苦しい思いをさせて、これすら嫌がられてしまってはつまらない。
……と言うのが偽らざる俺の本音だ。
こうしていると、布越しでも驚くほどミシュアを感じることができる。
抱きしめているときとは、また違う。顔というのはこんなに敏感だったのかと、初めてミシュアの胸に顔を寄せたときは感動したものだ。
ミシュアは未成熟な胸を気にしているみたいだが、……頬で瞼で感じるその柔らかさとかわいらしいまるみは俺にたとえようもない甘美で優しい刺激をもたらしてくれる。着衣の存在などまるでないかのように触れているそこだけじんじんと熱さを増していく体温と、妙にはっきりと聞こえる小刻みに脈打つ鼓動の音に、俺はミシュアが愛おしくてたまらなくなる。
今日は、……薔薇? 見頃だと言っていたな。
褥にした草の香とミシュアの甘やかな匂いに混じり、お互いの上気した肌に温められた滑らかな絹からほのかにたちのぼる香りに、俺が気付くようになったのはいつの時からだろう?
ミシュアは館の庭園のその折々のお気に入りの場所をたどって、転移場所となっている東屋まで来る。
もともとミシュアが意図的にしていることではないので毎回とはいかないが、新緑や今日のように季節の花の香りを運んできてくれることもあって、出向かずとも俺はミシュアの庭園を共に散策している気分になれる。
いつしかそれを見つけて嗅ぎ当てるのも、俺の楽しみのひとつになっていた。
…………?
たまらず俺が布越しにミシュアの胸に唇を寄せたのに、――ミシュアの反応が薄い。
いつもなら、……固まるか、身をすくめて逃げようとするか。
俺がそうしようとほんの少し顔を動かしただけで、驚くほどの鋭さで察知してなにがしかの反応を返してくるんだが。
まして、今のは結構わかりやすかったはず……
…………
俺が酔いしれている間に。
俺はひとつ心中で大きな息を吐いた。
いつの間にかミシュアのテンションが落ち込んでいる。俺はミシュアの胸から唇を離した。
前髪がかかる位までいったん上体を起こす。
……この状況で俺だけがのぼせていたという事実は、少々こたえる。
どうにもミシュアの表情を窺う気になれなくて、俺は顔を上げずに少しの間そのままでいた。
また、気にしてるのか?
思い当たる原因は、――この状況では、ひとつしかない。
俺は気にしていないのに。……そりゃまったく気にしていないと言ったら嘘になるが、それでも受け入れることに腹を決めたし、自分の決断に納得している。後悔もしていない。
それなのに当のミシュアが、気に病んで自分で落ち込んでしまっているという現状は……
よっぽど、気にするな! と言ってやりたいが、「そんなことをすると返って気にするものだ」と釘を刺されてるし。
俺はゆっくりと顔をミシュアの胸に戻した。そっと額を軽く押しあてる。
さっきより少し大胆に頬ずりをしてみた。
今度はちゃんと反応があった。
恥じらいとためらいと……怖れなのか? 今お前が感じているのは?
……なんに対して?
俺に――じゃない。今、俺とこうしているというのに。
俺はミシュアの両手を解放し、右の手をミシュアの胸元へ近づけた。
「あ!」
狙ったわけではない。俺の指がたまたまミシュアの敏感な部分をピンポイントで押してしまった。
――押してそれと気付いた瞬間、俺も慌てた。ミシュアの高くひきつった声が、よけいに俺を慌てさせる。
痺れたように総身をひくつかせたミシュアの素直すぎる反応に、「まずい!」と血の気のひく思いとは裏腹に、一気に体が熱を帯びる。
…………
お互いに息を殺して硬直したまま、数分か数秒か……?
「…………くっ」
なんだか急に可笑しくなり、思わず声が漏れてしまった。
ミシュアもつめていた息を小さく吐きだしたのがわかる。
俺はミシュアの上に覆いかぶさるように上体を起こした。
瞬きを繰り返し見開いたミシュアの瞳が、俺の動きを追う。それにつれわずかに顎のあがったミシュアの顔を俺は両掌で包み込んだ。
ミシュアの両の目尻から涙が一筋零れ落ちて、ミシュアの頬を包む俺の掌を濡らす。
その熱さと肌の熱さと……
――愛しさがこみあげる。
「俺は、前にお前に言ったろう? お前はなにも心配しなくていい」
言い聞かせるように囁いて。俺は、目を伏せてかすかに震えるミシュアの顔にさらに近づいていった。
こいつと初めて会ったのは、巨人族との戦いのあと。
例によって俺はやりすぎて、山みっつと湖と、半島がなくなったとかで他の神々のひんしゅくをかっていた。
危ないときには最強の武神だなんだの持ち上げといて。
巨人が相手なんだ。手加減なんかしてられるか!!
ふてくされ結界のなかに閉じこもった俺のもとには、連日神々が交代で尋ねてきたけれど、俺は無視を決め込んだ。
そうして――。最後にやってきたのが、ミシュアだった。
――さわり。
なにがが触れた気がして、俺は閉じていた瞼を上げた。
……なんだ? もう来たのか? 今日はえらく早かったな。
俺がここに来てまだそんなに時間はたっていない。太陽はまだ東の空にある。
――だが?
こう毎日やってくれば、しかもこれが何十年と続いていれば、結界に触れたときの感触だけでだいたい誰がやってきたか、俺はもうわかるようになっていた。顔ぶれも決まっているし。
まったく。……ヘンな特技が増えてしまった。
俺は最前の、感触を思い出してみる。
……心当たりが、ない。
感触にも神によって個性があって、ピリっときたりスルっとしたものだったりと様々なのだが、今のは……。
繊細な羽毛でそっと撫でられたような。
そのふわりと風のように頼りない感触を俺がもっとよく確かめようとする前に、その相手は結界を通り過ぎてしまい、消えてしまった。
あとをひくような……余韻を残して。
俺は自分の目で相手を確かめることにした。まだそう遠くには行っていない。結界からそう離れていなければここからでも視認できるはず。
――いた。
なんとその神は、結界の前で立ち止まっていた。
ずいぶん小柄だ。もしかしてまだ子供じゃないのか?
だとしたら、偶然ここを通りがかっただけだったのか?
こんなところを? たった一柱で?
……なんのために?
――にしても。
なまなかの神なら。俺の張った結界の存在などに気づかず、さっさと通り過ぎているだろうに。
……と。
――さわり。
「!!」
またあの感触に、今度は俺の体は疼くような感覚に貫かれていた。
……な……んだ? 今のは?
……いったい、どういうつもりなのか?
こいつはさっきから、結界のある辺りを行ったり来たりを繰り返していて、その度にあのくすぐったいような感触が伝わってきて、……なんとも、落ち着かない。
――遊んでいるのか? なにが楽しいのかわからないが。
これでは……。
まるで知っていて俺の体を弄んでいるかのように、錯覚してしまう。
……そうこうしているうちに。
やっとやめたと思ったら。
「リプエ神、いらっしゃいますか~~?」
そいつの俺を呼ぶ声に、俺は驚いていた。
俺を尋ねてきてたのか?
いや待て。神々が、あんな子供を使いに寄越すだろうか?
さっきのあれで、俺は疑心暗鬼に陥っていた。
……からかわれているんじゃないだろうな?
子供に擬態できる神もいるが。だったらなおさら御免だった。
俺にも戦神としてのプライドはある。
正体を偽っている者に会ってやる義理はないし、これ以上わけもわからずかき乱されたくない。
俺はもう少し、相手の様子を観察することにした。
――で、そいつはというと。
俺のつくった結界の外で途方にくれた様子で、朝からずっと立ち尽くしている。
他の神々は、結界の外から二言三言呼びかけて返事がないと、一応の義務は果たしたとばかり早々に引き上げていったのだが。
なんだかこいつは、様子が違う。
というより。
俺はずっと考えていた。
――――こいつ、誰だ?
俺も性格上、付き合いの広いほうではない、……いや、付き合いが著しく偏っているというか。
それはともかく。
こいつは、ついぞ見かけたことのない神だった。
太陽は中天に達しようとしている。
どうも帰りそうもないので、俺は結界を一部解いて、そいつを通れるようにしてやった。
なのに、まったく気付いていないのか、そいつは相変わらず同じ場所で突っ立っている。
「…………」
細っこくて頼りなさげなその姿に、まがりなりにも神なんだから、ここで倒れたりはしないだろう?
――とは思ったのだが。
とうとう、そいつはその場で蹲ってしまった。
「…………」
俺は仕方なく、開けてやった結界の端まで出てきていた。
近くで見ても、そいつは小さかった。
しょんぼりと項垂れてしまった小さな顔は、柔らかな流れる金の髪と華奢な肩にすっかり隠れてしまっていた。
近くで、もっとよく顔が見たかった。
『泉の守護者』として、正体のわからない相手に警戒を怠るべきでないとわかっている。
だが……。
――あいつの昼食だろうか?
地面に置かれた籠には花やら瓶やら果実やらが入っている。
なにかお腹にいれれば、いくらか元気になるのではないのか?
なぜそいつがそうしないのか、俺は不思議だった。
「帰りたい……」
か細い声が聞こえた。
おお、やっと帰る気になったか。
そいつはふらふらと立ち上がろうとして、上体を支えきれず前のめりに倒れていった。
「――――あれ?」
俺の右腕に抱きとめられたそいつは、なんとも間抜けな声を出して、海老のように折れ曲がった態勢で地面をながめている。
もしかしなくても、さっきから俺が近くまで来ていたのに、気がついてなかったな。
仕方がないので俺はそいつを仰向けにして横抱きした。
横抱きにしたのは昔、とある女神を肩に担いで運ぼうとしたら、えらい剣幕で怒られたことがあったからだ。
荷物扱いするな! ということらしい。
女神――だよな?
キトンの着付け方からそう思ってずっと見ていたのだが。
たぶんこれは俺の気のせいでなく、年齢のわりに……起伏にとぼしい感じがする。
相当具合が悪いのか腕からずり落ちそうになったので、俺はもう一度今度はしっかりとそいつを抱え直した。
――胸に当たる、髪と吐息がくすぐったい。
密着しているせいでそいつの体が熱を持っているのに今頃気付き、俺は歯噛みした。
子供の体温は高いと聞いてはいるが……。
それにしても熱いだろう? 俺まで熱く、なりそうだった。
「あ、あの……」
半端なく美形だが幼さのほうが勝る顔が、目を大きく見開いてよけいにあどけなく見える。
こんな子供を寄越すな! と内心でこの場にいない神々に悪態をつきながら、俺は一歩足を踏み出した。
すると周囲の景色が一瞬ぐにゃりと歪み、瞬時に件の木陰へと移動する。
目をぱちくりとさせているそいつをそっとおろし、俺はそいつの額に手をやった。
手をやって、――俺の無骨な掌は女神の額どころか頭まで覆ってしまう。
その小ささにまず戸惑い、女神の触れた肌の熱さに驚いた。
思っていた以上に、……熱い。
――やっぱり昼間の太陽にあてられたか。
掌から女神の熱が伝わる。
熱っぽいうえにさらに女神の体温が上がるのがわかった。
と同時にその熱が、カァァッと俺の体内を一瞬にして駆け巡る。痺れにも似た熱さが脳天にまで達して、俺はとっさに掌を離した。
「……」
なんだ? 今のは……?
呆然と宙に浮いてしまった掌をながめる。
火照りうっすらと汗ばんだ女神の肌の感触がまざまざとよみがえる。
そして俺の胸に頭を預けていたときの、あのくすぐったさと俺を蕩かすあの熱も……。
さっきのは、いったい?
――俺と、女神の間に何がおこったのか?
確かめようとして……。
「……」
俺は掌を握りこんだ。もう一度女神の肌に触れようと、蠢く衝動を抑えこむ。
女神の、熱のせいで潤み輝きを増した瞳はひきこまれそうなほどだ。
俺が、……こんなになるまで放っておいたから。
良心がちくりと痛む。
「あの、リプエ神ですよね。お初にお目にかかります。わたし、ミシュアと言います」
ミシュア?
……って、あの、引きこもりの運命の女神?
俺は、首を傾げた。
ミシュア神って、こんな子供だったか?
それに、『お初にお目にかかります』?
俺は顔を近づけて、ミシュアと名乗ったそいつの顔をしげしげと見やった。
「俺は、ミシュア神に会ったことがあると思うんだが……?」
ミシュアの目が泳ぐ。すぐに不思議な色の瞳を伏せてしまった。
「……それ、わたしの姉です」
「……」
神とはいえど不死ではない。
しかし、いつの間に?
俺も、なんだかんだで結構引きこもり――じゃなくて、没交渉だったりするからな。
それにしても。
神である存在に、いったいなにがあったのか?
俺が言葉をなくしていると、そんな俺を気遣ったのかミシュアのほうから声をかけてくれた。
「ご挨拶もかねて、様子を見てくるようにと言われてきました。……お会いできてよかった。いったい何日ここに通うことになるのだろう? って不安になっちゃってたところだったので」
誰だ? こんな子供にそんな無体なことを押しつけたのは?
「じゃあ、もうこれで用はすんだな。少し休んで気分がよくなったらさっさと帰れ」
ミシュアの不調とその原因が俺にあるとの自責の念から、あんなところにおいておくよりはとつい連れてきてしまったが。
……守護者として、いささか軽率だったか。と俺は思い始めていた。
それですげなく告げて追い払おうとしたのだが、なにも今すぐ帰れと言ったつもりはない。
なのに俺の思惑は、ミシュアの予想外の行動によって、もろくも崩されてしまった。
「はい。ではそこの泉で水浴びをしてから帰ります。なんか体が熱持っちゃってるみたいで……」
言うなりミシュアは両手で地面を押して反動をつけ、座ったまま斜面を滑り降りていく。
「おい」
――忘れていた! 既視感に、舌打ちをする。
こんな無茶をする女神が他にもいたなんて!
ここの泉の結界は、触れただけで……。とても今のミシュアの体では。
呆気にとられている場合じゃない!
俺は咄嗟に、泉の周囲の結界を解いていた。
すんでのところで間に合って。
ミシュアは俺の苦労も知らずに、足から泉にドボン、と飛びこんでいった。
――失態だ……。
乗り出していた俺の体から、がっくりと力が抜ける。
俺の役目は、ここの泉に入ろうとする者がいたら排除すること。
さりとて、決して入ってはいけない。というものでもない。
入ろうとする側の問題で是非が決まるらしいのだが、そんなもの見ただけで区別のつくわけがない。
だから一律禁止! で俺は指示されたとおり、泉に結界を張っている。
……少々乱暴な話ではあるが、俺もそのほうが護りやすいので異存はなかったのだが。
ミシュアの小さな体が泉のなかへ沈む。
あいつは結界の外で立ちくらみをおこしていた。
――泉にいれてしまいました。溺れてしまいました。では、……目もあてられない。
俺が飛び込もうと身構えたとき、金色の頭が陽光を弾いて水面に浮かび上がってきた。
…………。
ミシュアは泳ぎは得意らしい。
滑るように泳いでいる。
あんなぞろぞろとしたキトンを纏ったままだというのに。
さながら、金色の花びらが流れていくようで……。
……って、感心している場合か。
清浄な泉の水が、ミシュアにこもっていた熱を洗い流したのか。すっかり元気になって、あいつは水遊びを満喫する気らしい。
……俺の立場は?
と、ミシュアが体を反転させて潜っていった。
――――?
って。ミシュアの近くに浮き上がってきたあれは何だ?
あいつ。――脱いでるのか?
勢いよく浮上してきたミシュアはうっとうしい衣服から解放され、魚のように伸びやかにジャンプした、
うねる波と金の髪の隙間からミシュアの白い肢体が露わになる。
…………?
ドッポン!
気がついたら、俺も泉に飛び込んでいた。
ミシュアが岸にあがってくるのを待てば良かったんだが……。
もっとも、そんな忍耐力を持ち合わせてたら、山ふっ飛ばしてないか。
好奇心に抗えず、俺は潜った。
水中から立ち泳ぎをしているあいつの姿を確認する。
「…………」
どうりで!
起伏がないのも、俺がいるのに衣服を脱ぎ捨てたのも納得する。
……にしても、男だっての差し引いても綺麗なもんだ。
あれでも成長したらそれなりに男らしい体つきになっていくのだろうか?
「…………」
なんだか、……惜しい気がした。
俺があのくらいの歳には、すでに並の大人より背が高く伸びていた。
ミシュアと俺では、体のつくりがぜんぜん違う。
戦神として生まれた俺と比較するほうがどうかしてるのかもしれないが、じゃあ他の男神達とならどうかって考えても、……とてもミシュアのようなヤツがいるとは思えない。
あんな、なまっ白くて線が細くて、なのに骨ばってもいないし……滑らかで、意外に触り心地がよくて…………
「……」
岸にあがったら、注意しておくか。
女神にしろ男神にしろ、節操のないヤツもいるからな。
ミシュアが水中にいる俺のほうに向かって潜ってきた。
目を輝かせて俺の周りを泳ぐ姿に、俺は急にむかむかと苛立ってきた。
ミシュアに近付き、驚くあいつの左腕を掴んで強引に水面に引き上げる。
恐怖にゆがむあいつの顔に俺がひるんだタイミングで、思いっきり水をひっかけられた。
…………。
油断した。
というか、さっきから俺はこいつに不意をつかれてばかりだ。面白くない。
顔にかかった水を振り払いながら、俺は腹立ちまぎれにミシュアに仕返しをする。
そうすると、もっと大きな水を浴びせられた。
――なにをやっているんだ? 俺は?
引っ込みがつかなくなったというか、やめどきがわからなくて。
ミシュアのペースにのせられた俺は、今水遊びに興じている……のか?
俺はこういう遊びはしたことがない。
俺が子供のころにした遊びといえば、危険と隣り合わせのものばかりだった。
今思い返してみても、あれは一般的な子供の遊戯の範疇には入らないのではないのだろうか?
――大人になって、川で水遊びをしている男女を山道から見かけたことがある。
とても楽しそうで、ただ水をかけあっているだけでなにがそんなに楽しいのだろうと思っていた。
そのうち雰囲気が怪しくなってきたので、その場を立ち去ったのだが。
……。
だが。ミシュアのはしゃぐ姿はかわいい。
ばしゃぁぁっ!
…………。
「こら! いい加減やめないか! しつこすぎるぞ」
あろうことか。俺はうっかり、キレてしまった。
俺が薙ぐ一振りで、とんでもない大波がミシュアに襲い掛かる。
しまった!!
俺の伸ばした手は、間に合わなかった。
金色の花びらがあっという間に流され遠ざかる。
……ごぼごぼごぼごぼ。
岸壁に打ち付けられたミシュアが波にのみこまれ沈んでいく姿を、俺はなす術もなく見ていることしかできなかった。
――泉に、他の神を近づけると、碌なことにならない。
岸に引き上げたミシュアの体を前に、俺は後悔していた。
今度はやり過ぎないようにじゅうぶん加減して、軽く頬をたたいてみたが反応がない。
もともと抜けるように白かった肌は生気を失って今にも消え入りそうだ。
唇はうす紫に変色し、わずかに開いた口の前に耳を近づけたが呼吸は完全に止まっていた。
仮にも神だ。この程度でどうかなるなどと言うことは……。
だが、こいつの姉は……。
時間にすればほんの数秒の短い間に、いろんな思念が俺の頭のなかで交錯する。
あの時とは違う。
ミシュアは、……女ですらない。
なにかが、引っかかっている。
なにかが……俺の意識の奥底でせめぎあっている。
…………。
――まぁ、男だし、問題はないだろう?
俺は無理やり、そのなにかをねじ伏せた。
俺は腹を括ると、ミシュアの冷たくなった頬を指でなぞりその細い顎に手をかけた。
氷のような冷たさをもちながら、感触は柔らかい。
その冷たさに慄き、柔らかさに安堵する。
俺の息を吹き込むため、さらにしっかりと……。
焦燥にも似た思いが俺を支配する。
猛然と沸き起こったのは――。
ふたつの感情だけだった。