第四章 -11-
唯は三日間の入院で済んだ――。
寝不足と精神的なものからくる疲労と胃炎。
食欲不振だったから当然栄養不足。
退院してもしばらくは安静にしているようにと言われた。
だが、実家へは記者達が押し寄せてくる事を考えて戻れない。
退院する時も病院前にいる記者達を欺く為に夜遅くこっそりと裏口から山内が車で連れ出した。
そしてホテルにチェックインをした唯はようやく落ち着く事が出来た。
「しばらくの間はここでゆっくり休んでください。スケジュールの方もバッチリ調整出来てますから、
気にしなくて大丈夫ですよ」
山内はだから何も考えないで……と笑った。
入院してから……いや、和磨と展望台で撮られた日からずっと山内が唯のそばにいた。
橘がいない……。
いつもずっと傍にいてくれたのに入院中も一度も来なかった。
「あの……橘さん、は?」
「……後で……電話があると思います……」
少し間を空けた後、山内は伏し目がちにそう言った。
この時、唯は「……そうですか」と返し、深くは考えていなかった。
きっとまた別の仕事をしているのだろう……そう思っていた。
「それでは……また明日来ます」
山内はそれだけ言うと少しだけ唯に微笑み、部屋を後にした。
それからしばらくして唯の携帯が鳴った。
「……もしもし」
『もしもし……俺』
橘だ。
『山内はもう帰った?』
「はい、さっき帰りました」
『そうか……』
「橘さん……あの、私……」
唯は和磨との事をちゃんと謝ろうと口を開いた。
しかし、橘はそれを遮った。
『唯……今日は君にお別れを言う為に電話したんだ……』
橘の口から出て来た言葉はまったく予想もしていなかった言葉だった。
「……え?」
唯は頭の中が真っ白になった。
それほどまでに怒らせてたなんて……。
「橘さん、ごめんなさい……」
『……いや……謝らなきゃいけないのは俺の方なんだ』
(……どういう事?)
「どうして……ですか?」
『いつかはこんな日が来る事がわかってたんだ……』
(……何故?)
『俺が長男なのは知ってるだろ?』
「はい」
『君には何も話していなかったんだけど……俺の実家はね、会社を経営していて……要するに長男の俺が後継者なんだ』
橘の上には姉が一人いるらしい。
しかし、五年前にすでに他家へ嫁いだと以前聞いた事がある。
下はいない……つまり橘しか後継者がいないと言う事だ。
『本当は大学を出た後すぐに父の会社に入るように言われてたんだけど、当時の俺はそういうのが嫌で嫌で仕方がなかった。
それで、我侭を言って五年だけ待ってくれって言ったんだ。
……でも、その約束の五年が来る前にどうしても君と恋人として一緒にいたかった……。
たとえ、わずかな時間でも……』
「……橘さん……」
『君が誰かの事を忘れていないのはわかっていたよ。日本へも帰りたがらなかったし……きっと日本で何かあったんだとは思っていた。
それでも……恋人として一緒の時間を過ごしたかったんだ……』
「……」
橘のその気持ちは唯にも痛いほどよくわかる。
自分もパリに行く事を考えていたにも拘わらず、和磨と少しでも一緒にいたいと思った。
『……だけど、人間て欲が出てくるもので……約束の五年が来ても俺は君の傍から離れたくなくて、今までずっと家にも戻らなかった』
電話の向こうで橘は少しだけ笑った。
『もう少しだけ……もう少しだけって思ってて……でも、もう限界だ』
「……それじゃあ……」
『あぁ……実家に戻るよ……』
「……」
『だから……お別れだ……君を連れては帰れない』
「……どうしてですか?」
『俺はいずれ会社のトップに立つ人間だ……そして妻となる女性は、いつも俺の傍にいなくちゃいけない。
そうなると演奏活動なんて出来なくなる……君からピアノを取り上げる事なんて出来ないよ』
「……」
確かにピアニストをやめて橘と結婚など考えた事もなかった。
『……唯、ごめんな……』
「どうして橘さんが謝るんですか?」
『俺がもっと早く君をKazumaくんの元に返していたら……こんな事にはならなかった……』
「……っ!」
『唯に辛い思いをさせて苦しめて……倒れるくらいまで追い込んだ』
「それは違います!」
『違わないよ……俺が君に想いを告げていなければ、俺が約束通り五年で家に戻っていたら……Kazumaくんと……』
「それはないですよ……」
『……何故?』
「か、……篠原くんはもう私の事なんてきっと忘れてます」
『そんな事はないよ』
橘は少し強い口調で言った。
『もし、そうなら今回撮られた時だって、君の顔を隠そうとはしない。君の事を大事に想っているからそうしたんだ』
「……」
『唯……そろそろ自分の気持ちに素直になれよ』
「え……」
『君は今でもKazumaくんの事を想っている……そうだろ?』
「……それは……」
否定できない。
寧ろ……図星だ。
『隠さなくていいよ』
橘はクスリと笑った。
「……ごめんなさい……」
『唯が謝る必要は全然ないよ。それをわかってて告白したのは俺なんだし』
「でも……」
『それでも君は俺を愛そうと努力してくれただろ?』
「はい……」
努力はした。
……したけれど……。
『俺は……“忘れたい人がいるなら、俺が忘れさせてやる”って言っておきながら結局、君を苦しめただけだ……』
「そんな……」
『今まで……ありがとう……唯と一緒にいられて幸せだった』
(幸せだった……?)
「幸せだったなんて……そんな、私……まだ橘さんに何も……」
『何もしてあげていない……とか言わないでくれよ?』
「……」
何もしてあげていない。
あんなに傍にいてくれてずっと支えてくれたのに……。
『君はもう充分俺の我侭に付き合ってくれたじゃないか。たとえ恋人として少しの間しかいられなくても俺は幸せだった』
「……で、も……っ」
『唯……泣かないで……』
「……」
『じゃあ……一つだけ……最後に俺と約束してくれ』
「……はい」
『もうすぐ……そこにプレゼントが届くから、必ず受け取って?』
「え……?」
『俺から最後の“誕生日プレゼント”』
「……」
『今日、唯の誕生日だろ。忘れてたのか?』
「あ……」
そういえば……そうだった。
ここ最近ずっと日にちの感覚がまったくなかった。
『“ナマモノ”だから、ちゃんと受け取れよ?』
「……はい」
『唯、手の届かない場所で背中を押してるから……』
「……っ」
それは二人でよく聴いていたThe Salt Of The Earthの曲の中に出てくる歌詞だった。
『ホントは唯に直接会って言いたかったけど……会えば決心が鈍りそうだから』
「もう……会えない……?」
『……あぁ……』
「……」
俺から旅立て……という事か。
「……橘さん……今まで……ありがとうございました」
『唯……幸せに……』
「はい……橘さんも……」
『それじゃあ……』
唯は電話を切れるとその場に泣き崩れた――。