第四章 -4-
その日の夜――。
珍しく早く帰宅した和磨は拓未の部屋で一緒に曲を作っていた。
同じマンションと言う事もあり、和磨はよく拓未の部屋にお邪魔している。
拓未もよく和磨の部屋には来ている。
「そういえば、唯ちゃんのマネージャーから電話があったんだって?」
曲作りが一段落したところで拓未が例の件を訊いてきた。
「……あぁ」
「まぁ、お前は“いつも通り”何も言わないでいるだろうけど、向こうはどうするって?」
「なんか唯の方も会見もコメントもしないってさ」
「へぇー、コメントくらいはするかと思ってたけどな?」
「しかも、既に向こうはパパラッチにこれ以上撮られないように手を回したって」
「うほっ、さすがは大手」
拓未がそう言って笑っていると、和磨達の目の前で心理学の本を読んでいた香奈の携帯が鳴った。
着信表示を見た香奈はすぐに電話に出た。
「もしもし、唯?」
(え……唯……?)
香奈は和磨に視線を向けるとすぐに「あっ! 今どこ?」と唯に訊いた。
「んじゃ、すぐに携帯に掛け直すから!」
唯の居場所を訊いた香奈は携帯を切り、家の電話から唯の携帯に電話した。
(……? なんで、わざわざ掛け直してるんだ?)
「あ、もしもし、唯? ごめん、携帯の電池が切れそうだったから」
香奈はそう言うと電話機のスピーカーボタンを押して、和磨ににやりと笑ってみせた。
香奈の携帯を見ると電池はまだたっぷり残っていた。
(そういう事か。俺にわざわざ唯の声を聞かせてくれる為に……)
香奈は……いや、和磨と唯が付き合っていた事、別れた理由を知っている人間は、
まだ和磨が唯の事を忘れられない事も知っている。
今さら和磨も隠す気もない。
「唯から電話してくるなんて珍しいじゃない?」
『う……うん、あのね……』
確かに唯はパリへ行ってから香奈から掛けても一度も電話に出なかったし、掛け直しても来なかった。
『この間、私と篠原くんが撮られたの……もう知ってるよね?』
「うん、空港で撮られたとか篠原くんが言ってたけど」
『その事でね……うちの事務所があらゆるところに手を回して
私を追っかけてたパパラッチを追い払ってくれたのはいいんだけど……』
「うんうん」
『その分、篠原くんの所に行ってるんじゃないかと思って……』
「あー、どーだろ?」
香奈はちらりと和磨の方を見た。
『それで……そのー、もし篠原くんと顔合わせる事があったらでいいんだけど……
ごめんねって言っておいて貰えないかな……?』
(え……)
和磨はまさか唯がその事でわざわざ電話を掛けて来たとは思っていなかった。
『ホントは直接言いたいんだけど……私が篠原くんに連絡取ったのがバレると
返ってまた迷惑を掛けると思うし……』
「……うん、わかった。ちゃんと篠原くんには伝えておくから」
香奈は和磨にニッと笑って見せた。
『……うん、ありがと』
「それより……唯」
『うん?』
「初スキャンダル、おめでとう!」
香奈はそう言うとプププッと笑った。
『何それぇ~?』
電話の向こうで唯も少し明るい声でアハハっと笑った。
そして香奈はまた和磨の方をちらりと見て、何か言おうと口を開きかけた時、
『あ、そろそろ授業が始まるから切るね。それじゃ、またね』
そう言うと電話を切ってしまった。
(学校からだったのか……時間的に考えてあっちは昼過ぎくらいだから休憩の合い間に掛けてきたのかな?)
「篠原くんに代わろうかと思ってたら切られちゃった」
香奈は受話器を置くとソファーに座りながら苦笑いした。
「あはは、いいよ。声が聞けただけで十分。……ありがとう」
電話越しだったけど和磨は唯の声が聞けただけで素直に嬉しかった。
(あの頃より、少しだけ大人っぽい声になってたな……)
「てゆーか、唯ちゃんも気にしてくれてたんだな、お前の事」
拓未は和磨ににやりとして見せた。
「……つーか、俺が謝りたいくらいだったんだけどな」
「先を越されたって訳か」
「うん、まぁ……けど、俺が直接連絡取る訳にも行かなかったし……」
「そうだな……それこそまた唯ちゃんに迷惑掛けるだろうし」
「あぁ……そう思ってどうしたもんかと考えてたトコだったのにな……」
(……てゆーか、こんな風に少しでも俺の事を気にしてくれていたんだと思うと、
唯の事を忘れないと……諦めないと……って思っている気持ちがどんどん薄らいでいく。
俺は……唯の事を諦められる日が来るんだろうか――?)
◆ ◆ ◆
――二月の終わり。
唯はパリのスタジオであのシャンプーのCM撮影をしていた。
三月から日本で流れる春バージョン。
今回はちょっと趣向を変えてBGMはクラシックではなくポップスの曲だ。
男性ソロアーティストの『初恋』。
唯も好きな曲だ。
しかも、歌まで歌う事になっている。
唯の初恋は孝太だった。
だけど、想いを告げられないまま孝太は双子の妹・舞と付き合い始めた。
そんな思い出と、この『初恋』の歌詞は見事にぴったりと合っている。
しかし、歌っている時に浮かぶのは孝太の顔ではなく、和磨の顔。
……と言っても、唯の中での和磨の顔は高校三年生のままだ。
空港で再会した時、和磨は薄いサングラスをかけてキャップを深く被っていたからよくわからなかったのだ。
それに初恋ではないけれど、唯は和磨に一度も“好き”とは言っていなかった。
と、言うより言えなかった。
唯自身、パリに行く事は高校一年生の終わり頃からすでに考え始めていた。
だから、離れてしまう事がわかっていたから言えなかったのだ。
言ってしまったら、きっと離れられなくなる……。
そんな気がしたから。
電話もメールも用事がない限りしないようにしていた。
それでも、日に日に大きくなっていく和磨への想いを言葉のかわりに何度も伝えようとした。
気付いてくれなくてもいいと思った。
寧ろ、気付いてほしくないと思っていた。
そんな“好き”と言えなかった想いが和磨を思い出させているのかもしれない。
(やっと少しずつ思い出す事が少なくなってきたのに……)
あの日、空港で再会してから唯は再び和磨の事をよく思い出すようになっていた。
三年前、パリに来た直後のように……。
「……神崎さん?」
撮影が終わり、橘が運転する車で帰っていた時、黙り込んだままずっと俯いている唯に橘が声をかけた。
「神崎さん?」
橘は無反応な唯に今度は少し大きな声で呼びかけた。
「……あ、……はい?」
唯はその声にやっと反応を示し、顔を上げた。
「体調でも悪いんですか?」
「……え?」
「最近ずっと元気がなさそうですし」
「……そうですか?」
唯は少しドキリとした。
「……何かあったんですか?」
「いえ……」
唯は少しだけ微笑むと
「大丈夫です。どこも悪くないし、何もないですから」
なんでもないフリをした。
「……そうですか」
橘はバックミラー越しに唯に視線を向けてそう言うと、
「何かあったら……言ってください」
と続け、再び視線を前に向けた。
「はい……」
橘はあれ以来、何も訊いてこない。
それがかえって余計に罪悪感を感じる。
自分には橘がいるのに……。
その橘にさえ心配を掛けている。
唯は橘に気づかれないように小さく溜め息を吐いた――。
◆ ◆ ◆
「そういえば、神崎さん」
唯のアパルトマンに戻り、再び橘が口を開いた。
「はい?」
「JuliusのKazumaさんとは高校の同級生だったという事は、他のメンバーの方ともお知り合いですか?」
「あ、はい」
「……だからなんですかねぇ」
「?」
「実はJuliusのプロデューサーの方から直々に共演の話が来ているんですよ」
「……へ?」
唯はぽかんと口を開けて驚いた。
「……私に、ですか?」
「はい」
「Juliusから?」
「はい」
「共演?」
「はい」
「私とJuliusが?」
「はい」
「冗談……ですよね?」
「本当です」
橘はきっぱりと言った。
「実は聞き間違い……とか?」
「そんなヘマはしましせん」
さらに橘はきっぱりと言って退けた。
「じゃ、じゃあ……何かの間違い……とか?」
「私が直接あちらのプロデューサーの方とお話したので間違いありません」
「……夢……だった……とか?」
「……神崎さん」
橘はそんなに自分は信用ないのかと言わんばかりの顔を唯に向けるとハァーッと溜め息を吐いた。
「だ、だって……!」
「まぁ……確かに私も最初は耳を疑いましたよ」
「……」
「今、日本で一番売れているロックバンドとピアニストの共演……ですからね。
……けど、有り得ない話ではないですし」
確かに有り得ない話ではない。
だけど、なぜこのタイミングで?
「Juliusのメンバーはなんて言ってるんですか……?」
これはプロデューサーの意思なのか……?
それとも……
「是非に……と言っているそうです」
という事はメンバーの意思?
「後は……神崎さんの返事次第……と言う訳です」
橘はそう言うと、
「『言葉のかわりに』と言う曲……ご存知ですか?」
唯の顔を真っ直ぐに見据えた。
「……っ!」
唯はその曲名を聞いた瞬間、体に電流が流れたようにびくりとした。
「まだ未発表曲だと言っていましたが……」
「未発表曲……?」
あの曲が……?
まだ……。
Juliusのアルバムとシングルは発売される度に拓未が送ってくれていた。
だけど唯はパリに来てから一度もJuliusの曲を聴いていなかった。
……というより、聴けないでいた。
だからデビュー前からライブでも人気があった『言葉のかわりに』は
絶対アルバムかシングルで発表していると思っていたから
未発表曲になっているとは思っても見なかったのだ。
「神崎さんならご存知のはずだと……あちらのプロデューサーがおっしゃってました」
確かに知っている。
「……知ってます、けど……」
あの曲は、和磨が唯の為だけに歌うと言っていた曲……。
プロデューサーはその事を知っているのだろうか?
「その曲で共演したいそうです」
「……っ」
(あの曲で……?)
他の曲ならともかく、『言葉のかわりに』だけは……。
今あの曲を聴いてしまうと、もう和磨の事を忘れられなくなるような気がした。
「……今は……無理です」
唯は俯きながら小さな声で言った。
「何故?」
「……卒業試験に……集中したいんです」
六月には卒業試験がある。
卒業試験は一度しか受ける事が出来ない。
最近は卒業試験に失敗しても一応卒業したとみなされるらしいが、やはり三年間頑張ってきたのだから失敗はしたくない。
だけどそれは言い訳。
……もう少し時間がほしい。
卒業試験に集中していればきっと和磨を思い出す事も少なくなる。
そうすれば――。