第二章 -12-
唯は順当に二次予選、三次予選、セミファイナルを通過した。
そして日曜日のこの日――、いよいよファイナルだ。
去年はセミファイナルにすら残れなかった。
リベンジに賭けた今年はそれだけに気合いを入れていた。
女子の控室で衣装のドレスに着替え、メイクを済ませて最終チェックをした後――、
いつものように楽譜を見ながら出番を待っていると、
「今回はファイナルまで残れたみたいね?」
不意に頭上から降って来た声に唯は顔を上げ、目の前の人物に視線を移した。
(あ……)
その人物は自身有り気に唯を見下ろしていた。
一橋美由紀。
唯と同い年で都内の有名な音楽高校に通っている。
以前からコンクールで一緒になる度に本番前にいろいろと言って来ていて、それが原因で去年唯はセミファイナルまで残れなかった。
唯の事を一方的にライバル視しているのだ。
「最近、コンクールで全然一緒にならないから、もうピアノやめたのかと思ってた。
てか、こんな本番前になってもまだ楽譜と睨めっこ? 往生際が悪いわね」
口の端を吊り上げ、美由紀はフンッと笑った。
相変わらず唯が何も言い返さないのをいい事に好き勝手な事を言ってくる。
しかし、ここまで言っても唯は顔色一つ変えなかった。
今までの唯ならとっくに泣きそうな顔になっていたり、控室を飛び出して行っているだろう。
「……」
美由紀は何も言い返しても来ず、ただじっと自分を見据えるだけの唯にムッとして、
まだ何か言おうと口を開いた時――、
……コンコンッ。
ドアをノックする音が聞こえた。
「十九番の方、舞台袖に待機してください」
十九番は美由紀の番号だ。
「はい」
美由紀は返事をして控室を出ようと踵を返した。
そして唯の方にもう一度振り返り、
「私、絶対に負けないから」
自信たっぷりに言い放ち出て行った。
唯は、はぁ~っと息を吐き出し、再び楽譜に視線を戻した――。
……その頃、和磨と拓未、香奈の三人もコンクール会場に着いた。
会場のロビーには唯の兄・雅紀がいた。
「雅兄~っ!」
香奈が手を振りながら雅紀に駆け寄る。
「お、香奈」
雅紀も香奈を見つけると優しく微笑み、軽く手を挙げた。
傍目から見ると本当の兄妹のように見える。
和磨と拓未も雅紀に近寄って「こんにちは」と言うと、雅紀は「やぁ」と笑顔を向けた。
「雅兄、唯には会った?」
「うん、今日は俺が連れて来たから」
「そうなんだ? どぉ? 落ち着いてた?」
「うん、朝メシも昼メシもしっかり食ってたし、車の中でも普通にしゃべってたよ」
「ふーん……。じゃ、大丈夫なのかな?」
「まぁ……去年が去年だけに心配だけどな」
そう言って雅紀は苦笑し、
「そろそろ唯の出番が近い、客席に行こう」
と、立ち上がった。
(去年? ……去年何かあったのか?)
和磨は香奈と雅紀の会話に怪訝な顔をした。
客席に座ると、丁度唯の一つ前の奏者・一橋美由紀が出て来た。
その瞬間、雅紀と香奈の顔が強張った。
「ま、雅兄っ、あれっ!」
「あぁ、あの子も出てたのか……」
すると、香奈が急に立ち上がった。
だが、雅紀が彼女の腕を掴み、それを制した。
「香奈、どこへ行く気だ?」
「もちろん唯の所に決まってるじゃない!」
「駄目だ、もう遅い……今頃は舞台の袖にいるはずだ」
そう言って雅紀は香奈を座らせた。
「大丈夫だ……唯は」
「で、でも……」
「もう他人の言葉に振り回されてた頃のアイツじゃない」
「……」
「大丈夫だ」
雅紀は香奈に優しく微笑んだ。
すると香奈も雅紀の言葉に「……うん」と頷いて大人しくなった。
和磨と拓未は何がなんだかわからず香奈の慌てぶりに首を捻っていた。
舞台の上では、美由紀が自信に満ち溢れた顔でピアノを弾き始めた。
雅紀以外はクラシックの事はさっぱりわからない。
やたらテンポの速い曲……それくらいしかわからない。
ただ、迫力はある。
あるけど……それ以外何も感じない。
「あ」
雅紀が小さく声を上げた。
「雅兄? どうしたの?」
不思議そうに香奈が雅紀に視線を移す。
「あの子……今、一音飛ばした」
(え……? こんなテンポの速い曲で一音飛ばしただけでもわかるのか……?)
和磨は驚きを隠せなかった。
しかし、舞台の上の美由紀も一音飛ばしたのが自分でもわかったのか、先程までの演奏とは違ってきていた。
最初に見せた自信満々の顔はどこかへ消え、焦りの色を隠し切れない顔で弾いていた。
結局――、
雅紀曰く、二曲目もミスタッチが多かったらしい。
一曲目の小さなミスが響いたようだ。
最後は苦渋の表情のまま、ピアノの前で一礼して舞台袖へ下がっていった。
舞台袖に待機していた唯は前奏者の美由紀が下がって来ると静かに立ち上がった。
美由紀は唯とすれ違う瞬間も睨みつけて来た。
とことん唯を追い詰めたいらしい。
しかし、唯はまったく動じない。
誰が何を言って来ようが自分は自分。
去年は……いや、去年まではそんな風に考える事が出来なかった。
その所為で唯は自分を見失い、自分らしい演奏がまったく出来なかった。
美由紀に散々好きな事を言われ、演奏を目の当たりにし、実力を見せ付けられた。
……というより、元々タイプが違う二人だから実力の差ではなく、美由紀の演奏そのものに圧倒されたのだ。
だけど、もう去年のような失敗はしない。
落ち着いて自分の演奏をすればいいだけ。
唯は自分にそう言い聞かせると目を閉じ、深呼吸をしてゆっくりと舞台へと踏み出して行った――。
舞台袖から出て来た唯の姿は、和磨が初めて唯の演奏を聴いた時と同じ顔をしていた。
「唯、落ち着いてるっぽいけど大丈夫かな?」
香奈が心配そうに口を開いた。
「あぁ、あの様子なら大丈夫だろう」
雅紀も少し心配そうな顔はしているもののそう答えた。
唯はストレートの長い黒髪をサラサラと靡かせて舞台の中央に歩み寄り、ピアノの前で一礼した。
濃紺のキャミソールドレスにビーズの刺繍がキラキラと輝いている。
一曲目は、ショパンの『エチュード10-4』
テンポの速い難易度の高い曲だ。
(大丈夫……私には応援してくれている人がたくさんいる……)
唯は小さく息を吐いてから弾き始めた。
鍵盤の上を走るように……踊るように……そして、流れるように動く指。
無窮動的に続く旋律と速いパッセージは迫力さえ感じる。
いや……迫力だけではない。
言葉に表せない何か……。
それを裏付けるかのごとく、客席のほとんどが唯のピアノに惹き込まれているかの様だ。
二曲目。
バッハの『コラール前奏曲 BWV645 目を覚ませと呼ぶ声が聞こえ』
一曲目とはまたガラリと曲調も雰囲気も変わる。
呼吸を整え、静かに鍵盤に指を置く。
そしてゆっくりと弾き始めた。
一音一音、教会のオルガンを弾いているかのように。
唯は一曲目の迫力のある演奏とは違い、穏やかな顔で弾いている。
教会の賛美歌を思わせるような旋律――。
唯の奏でるその柔らかい音に包まれ、ここがコンクール会場だという事を誰もが忘れてしまう程だった。
和磨が目を閉じて聴いていると、いつの間にか演奏が終わり、客席から拍手が沸き起こっていた。
唯が深々とおじきをし、舞台の袖へと下がる。
すると香奈はすぐに席を立ち、唯の控室へと向かった――。