3話
ゴガ グルァッ
ゴフッ ゴフッ
グルルル……
今まで聞いたどんな生物とも違う、異質な鳴き声。
嫌に耳障りのする声は、まるで悪意が音を持ったかのようだ。
ゴブリンは3匹。それぞれ手には鉈を持ち、黒いトゲのついたベストを身にまとっている。
体の色はエメラルドグリーンに墨汁を垂らしたかのような緑。
周りの草々よりは濃い色合いだが、それでもベストが無ければすぐに見失ってしまいそうだ。
ヤバい。
あいつらに捕まったら、まず生きては帰れないだろう。
本能がそう警鐘を発している。
体格こそ170cmの恭介より二回りは小さいが、恐らくそんなのはゴブリン達にとってハンデの内にも入らないだろう。
何せ、奴らは鉈を持っているのだ。防ぐすべがない以上、気付いて襲い掛かられたらひとたまりもない。
じっと身をすくめてゴブリン達が通り過ぎるのを待つ。
3匹は警戒するように辺りを嗅ぎまわると、しかし上の木々を見上げることは無くそのままどこかへと立ち去って行った。
取り敢えずは生き延びることのできた喜びに全身の筋肉を弛緩させる。
同時に、普段以上に歩いたことの疲れがどっと押し寄せてきた。
身の回りの安全を確保するためにやるべきことは多そうだが、とにかく今は眠ることにする。
久しぶりに悪夢にうなされることなく熟睡することができた。
木々のハンモックのせいで体の節々が痛い。
だがそれ以上に後悔したのは、疲れたからという理由で陽の沈まない内に眠ってしまったことだ。
夜の森はまるでジキルとハイド博士のように、木漏れ日の降り注ぐ昼間とは180度異なった様相を呈している。
直感で危険だと分かる。今下に降りることは出来ない。
恭介は未知のものに襲われるかもしれないという不安に怯えながら、じっと夜が明けるのを待った。
寒さで目が覚める。どうやらまた気付かない間に寝ていたらしい。
制服のカッターシャツしか着ていないのだ。何度かくしゃみをして体を震わせた。
小鳥のさえずりが耳に心地いい。うーんと伸びをしようとしたが、全身がこわばって節々が痛んだ。
木から降り、水を飲む。今日は寝る前に考えていた、ゴブリン討伐の方法を実行に移すときだ。
恭介は筋肉痛の体にムチ打って準備を進めた。
太陽が昇り切るまでに2度、ゴブリン達が恭介のいる木の下を通った。
全て3匹一組だ。恐らく、ここ周辺はゴブリン達の警らの範囲内と考えていいのだろう。
難易度は高いが、ゴブリンの知性が幼児程度のものであればきっと成功するはずだ。
時計がないので正確な時間は分からないが、体内時計に従えばおそらくは午後2時くらいになっただろうか。本日3度目のおでましだ。
ゴブリン達が気付いたのは水滴のしたたる音だった。
3匹の内、2匹が頷くと前に出る。1匹は後方で周りを見張っていた。
木の上から水滴が落ちることなんて、雨が降らない限り有り得ない。
ましてやここ数日雨は降っていないのだ。ならばこの水滴は不自然……などとゴブリン達が考えていたはずもなく。
彼らはただ、イレギュラーな事態に警戒を強めただけだった。
2匹が草むらをかぎ分け、水滴の原因を探すべく上を見上げる。
すぐに目についた。注意を払っていれば、遠くからでもすぐに分かっただろう。ニンゲンの服だ。
ゴブリン達は顔を見合わせ、お互いに短いうめき声を発する。
鉈を置くと、木に手をかけてするすると登り始めた。
木や崖を登るのは野に生きるゴブリンにとってはお手の物だ。
その短い体躯からは予想もつかない速さで登りきる。枝を伝い、ぶら下がっているニンゲンの服をぶんどった。
そのまま木から降りようと下を見る。
ニンゲンがいた。
登るのに夢中で気付かなかった。
ニンゲンの手には、ゴブリン達が木に登る際に置いてきた鉈が握られている。
3匹目、周りで見張っていたはずのゴブリンはどうしたのだ。
2匹は狼狽する。ニンゲンの上半身は裸だ。普段なら容易く切り裂くことができただろう。
だが、唯一の武器である鉈はニンゲンの手中にある。
ニンゲンは鉈を拾うと慌てて草むらに戻ったが、こちらからはバレバレだ。
この木から降りたが最後、戦ったとしても勝ち目はないだろう。
2匹の決断は早かった。
そのまま木の枝を伝ってその場から離れる。
仇敵の存在を、我らが主に伝えるために――。
恭介の考えた作戦はこういうものだった。
まずカッターシャツを川で十分に濡らし、木の枝にぶら下げる。
そうすることでシャツは水滴を落とすようになるし、乾いてからもシャツの下には不自然な水たまりが出来るだろう。
ゴブリン達がそれを見つけるかどうかは賭けだったが、それは取り敢えず成功した。
1匹が周囲の警戒をするのも想定の範囲内。
いくら周りを見ているといっても、こちらから視認できる以上、別の方向を向いている間に後ろから襲い掛かるのは容易かった。
脱いだズボンを後ろから一気に首にかけ、締め上げる。
ゴブリンは暴れようとするが、背後に攻撃が届くはずもなく。
当たり所が良かったのか、数秒もしない内にカクリと首をだらけさせた。
上半身裸でパンツ一丁の状態だが、そのままゴブリン達が鉈を置いた木の根元に向かう。
登ってる最中の彼らに気付かれる前に鉈を回収して草むらに逃げ込み、降りてきたところを切りかかる手はずだった。
しかし、ゴブリン達が予想以上に素早く木に登ってしまったため、鉈を拾っているのが気付かれてしまう。
いくらゴブリンの知性が低いとはいえ、丸腰で武器を持った恭介と戦うような愚行はおかさなかった。
ゴブリン達は恭介をじっと見つめた後、枝伝いにどこかへ行ってしまったのだった。
恭介はしばらく茫然自失としていたが、近くに倒れていたゴブリンが呻き声をあげるのを聞いてハッと我に返った。
呆けている場合ではない。やらなければいけないことは残っているのだ。
首を絞め落としたときにゴブリンの手から鉈は奪ってある。
恭介は起き上がろうとするゴブリンに近づくと、威嚇するように声をかけた。
「おい!そこのゴブリン!」
「グゴッ……ニンゲンめ。卑怯な真似を」
ゴブリンは額に手を当て、ゆらめきながら立ち上がる。
恭介はひとまず言葉が通じることに安堵した。
「なあ、一先ず落ち着いてくれ。俺は敵じゃない」
「敵じゃない?ゴガガッ、襲っておいて、よく言う」
「嘘じゃない。俺が本当に敵ならとっくにお前は殺されているはずだ」
勿論嘘だ。ゴブリンに止めを刺さなかったのは急いでいたのもあるが、恭介に勇気が無かったからに過ぎない。
「……グゴッ、ニンゲンは、信用できない!」
「信用できるかどうかは関係ないだろ。それよりも大事なのは、お前が今生きていることだ。
お前を殺す気はない。確かに武器は取り上げたが、こうして話し合おうとしている。
賢しいゴブリンよ、どうか俺の話を聞いてくれ」
「……ゴガッ、まあ、話だけなら聞いてやろう。俺は賢しいゴブリン、そう、賢しいゴブリンだ」
黒みがかった緑の顔がニヤリと笑う。
恐らく機嫌がいい証左なのだとは思うが、獲物を前に舌なめずりしているようにしか見えない。
とにかくなんとかなりそうだ。取り敢えずはおだてて話を聞いてみよう。
「まずお前と一緒にいた2匹のことなんだが、あいつら木に登るとどこかに行ってしまったんだ。
どこに行ったのか分かるか?」
「そんなの、答えるまでもない。ゴブリンロード様に、報告しにいったのだろう」
「ゴブリンロード?」
「グゴッ、我らの、主だ。ニンゲンは、敵だからな。窃盗とゴブリンの守護者、ドレークに誓って、次は逃げられんぞ、グゴゴッ」
やはり残りのゴブリンは救援を呼びにいったのか。
ならばこの状況は非常にまずい。
気は進まないが街へ戻った方がいいのだろう。
最も、戻り方は全く分からないのだが。
「なあ、ここから一番近くの街ってどうすれば行けるか分かるか?」
「ゴゴッ、教えるわけ、ないだろう」
「そうか、あなたのような賢しいゴブリンでも分からないのか……困ったな」
「グゴッ、そこまで、言うなら、仕方ないな。俺は、賢しいゴブリンだ。案内してやる」
やっぱコイツちょろいわ。
恭介は内心でほくそえんだ。
「こっちだ、着いてこい」
ズボンを履き、ゴブリンの後を追う。
この森を知り尽くしているのか、ゴブリンの動きは以上に素早かった。
何度も見失ってしまい、そのたびにゴブリンの方から迎えにきてもらうことになる。
「グゴッ、のろまな、ニンゲンめ」
「すまない、俺たちはあなたのように迅速には動けないんだ」
「……ジンソク?なんだ、それは」
「あー、素早いってことだ」
「ゴガガッ、当然だ。我らが一番、この森を、知っているのだ」
こんな調子で、おだてながら進んでいく。
15分ほど歩いただろうか。街の石壁が見えてきた。
随分森の深くにいたと思ったのに、意外と近かったようだ。
取り敢えずゴブリンに例を言っておく。
「ありがとう、あなたのような賢しいゴブリンのおかげでここまで来れた」
「グゴッ、良かったな、ニンゲン。お前のような、奴なら、いつでも案内してやる」
ことあるごとに「凄い、俺には絶対こんな風に進めない」「その防具格好いいね。人間の防具は格好悪し使いにくいし……」
などと褒めていたのが功を奏したのだろうか。やたらと上機嫌だ。
鉈のことは頭から抜けているらしい。返すのはやめておこう。
手を振って立ち去ろうとする。
すると、ゴブリンがピクッと耳を震わせた後、「感じるぞ」と呟いた。
「賢しいゴブリンよ、遠くからくる風の便りを受け取る者よ、一体何が聞こえたんだ?」
うむ、この短時間で俺のおべっかも随分と上達した気がするな。
だが、一人悦に浸っている場合ではなかった。
ゴブリンが口を開くよりも早く、木々の揺れる音が恭介の耳に届き始める。
「ゴガッ、同胞が来るぞ。それも、たくさん」
マズい、もう追いつかれたのか。
まるで森全体が一つの意思を持って襲い掛かってくるかのように、木々が揺らめく。
ここまで近づかれては街まで間に合わない。
恭介は鉈を構えた。
同時に、上空から次々にゴブリン達が姿を現した。