1話
予兆がないと言えば嘘になる。
数日前から、萩谷恭介は毎日のように悪夢に襲われていた。
内容はほとんど思い出せないのだが、どれも最後は彼方からこちらを連れ去ろうと手が伸びているのが印象的だった。
普段は夢を見たくらいでは疲弊しないのだが、ここ最近の夢はどうにも精神にくることが多い。
幸い不眠症にはならなかったものの、学校の退屈な授業が死神の鎌となる程度には、恭介の疲れは溜まっていた。
机につっぷし、講師の抑揚のない声が徐々に遠くなっていくのを感じる。
現実と泡沫の区別もつかなくなってきたころ、ビクンッと体が跳ねた。
これ自体は学校で寝ていたら時たまある現象だったのだが、その後急激な目眩に襲われる。
足元の感覚がなくなり、自分が今上下どちらを向いているのかすらも分からない。
永遠のような一瞬の浮遊感は、しかし突然終わりを告げる。
恭介は思わず倒れこんだ。草むらの上に。草むらの上に?
思わず手をつく。土と草の感触。
現代社会の均質性を象徴するかのような木目の床はそこにはなかった。
不可解だとは思いながら、眼光の奥で瞬く残滓を振り払いようやく目を開ける。
目の前には鬱蒼と木々の生い茂る森が広がっていた。
遠くからはせせらぎの音すら聞こえる。
は?
いやいやいや、ちょっと待てよ。
ゴクリと唾を飲み込む。
俺は今まで確かに教室で授業を受けてたはずだ。
まあ確かに真面目な受講態度だったとは言えないけれど、だからってこんな仕打ちはないだろ。
こんなことをやらかすのは神様か?
それともこれが、噂に聞く水槽の脳ってやつか?
自分の目の前に広がる世界は実は、誰かが脳に電極ぶっさしてねつ造してるだけかもしれないという。
世界五分前仮説はこれで棄却されることになるな。まさに今世界が目の前で変貌したんだから。
いや、余裕ぶっこいてテツガクしてる場合じゃねえ。
とにかく立ち上がる。靴は教室で履いていた上履きのままだ。
鞄も机も一切合財は向こうにある。つまり財布もスマホもだ。
持っているのは五体満足の体と、制服と、上履きだけ。
これで一体どうしろっていうんだ。
まあ確かに現実逃避したいと思ってた時期はあったけどさ、これはいくらなんでもあんまりじゃねえの。
非現実的にもほどがある状況だが、夢でないことは確信が持てる。
こうして考えることが出来ているのがその証明だろう。
夢の中は絶対者の司る世界だ。そこでは考える自由すら与えられないから。
幸いというべきか絶望が深まったというべきか、少し歩いただけで人の営みを感じる建造物は発見できた。
感じるとは言っても、現代からは程遠かったのだが。
恭介の目の前には、見上げるほど巨大な壁がそびえ立っている。
高さは恭介の近所にある3階建てのイ○ン程だろうか。だが、横幅はそれとは比べ物にならない。
これが全て城だとは考えにくい。
恐らくこれはただの防壁で、その向こうには人が活動しているのだろう。
恭介は壁づたいに道を進む。森と壁の間には、何人かが連れだって歩けるほどの道が出来ていた。
どれだけ歩を進めただろうか。
運動部に所属せず、普段から余り動かない恭介が翌日の筋肉痛を心配し始めた頃になって、ようやく壁の端が見えてきた。
これだけデカい壁なんだ。恐らくヨーロッパのどこかに飛ばされたんだろうと思う。
確かに珍しい話だが、あり得ないわけではない。
実際、魔の三角地帯なんかでもその中に入った飛行機が全く別の場所で発見されたことだってあるんだし。
自分の身に降りかかるまで、こういうのは全くのフォークロアだと鼻で笑っていたが。
義務教育で英語を習っていて本当に良かったと思う。
聞き取れる自信はないが、エクスキューズミーとヘルプミーくらいなら言えるだろう。
大使館から都市へ連絡してくれれば、大事になるにしても日本に帰れるはずだ。
記者会見が開かれたりしたらどうしよう。自分だって狐につままれた気分なのだ。
若干の余裕を感じられるようになって、ようやく端へと到達する。
中央にはゲームやイラスト、写真でしか見たことのなかった巨大な門扉。その前には全身を鎧で固めた門番が立っていた。
石壁の上に更に建造物があるわけではない。つまりここは城ではないということだ。
なのに門番が立っている。大分凝った真似をしているなと恭介は思った。歴史的には有名な場所なのだろうか。
近づいて話しかける。遠くからは豆粒にしか見えなかったけど、よく見るとこの人大分でかいな。180cmは優に超えてるだろう。流石外人だ。
「あの、え、エクスキューズミー?」
友人が聞いたら爆笑されるだろうたどたどしい発音で話しかける。
クソッ、俺だってやりたくてやってるわけじゃないんだぞ。
というか、同じ言語圏の相手ですら余りコミュニケーション取らないってのに。
だが、返ってきたのは意外にも流暢な日本語だった。
「ん?端からくるとは珍しいな。気付かなかった。ここはテルヘレムの街だ。なんか用か?」
聞いたことのない名前だ。まあ、そもそも世界遺産の知識自体ほとんど知らないし、こういう街があったっておかしくはないだろう。
門番が日本語を話せるのだから、日本人観光客もきっと多いはずだ。
恭介は安どのため息をついた。
「すみません、説明しにくいんですが、気付いたら近くに倒れていたんです。その、日本に帰りたいんですが」
「ああ、ニホン?どこだそりゃ」
「あなたが喋ってるのは日本語でしょう?僕はその出身なんです」
「知らねえな。聞いたこともねえ。まあいいや、とにかく通行証を出しな」
通行証だと?一気に雲行きが怪しくなってきたぞ。
門番は露骨に顔をしかめた。
ガキが訳の分からないことを喚いてやがる。気付いたら近くに倒れてただと?浮浪者は決まってそう言うんだ。
顔を見る限り17歳の、成人したてといったところだろう。
だがそれにしてはこれまで苦労したことがないってのがアリアリと分かる面構えだ。気に食わねえ。
武器も持ったことがなさそうな貧相な体つきだし。ん?貧相?
ちょっと待て。このご時世貧相な体つきの奴なんて物乞いか貴族と相場が決まってる。
だがコイツが物乞いって柄か?まずそれはない。服装だってよく見れば一度もお目にかかったことのないものを着てやがる。
殿上人の間ではきっとこういうのが流行なんだろう。
おい俺、てめえ貴族様を相手になんて口ききやがる!こんなことが領主様に知られてみろ、一発でおまんまの食い上げだ。
なんとしても貴族様のご機嫌を損ねてはならねえ。門番はこれまでの人生で最も素早く表情を切り替えると、直立不動で敬礼した。
「いえ、なんでも御座いませんッ 大変失礼致しましたッ」
自分はこれほどまでに丁寧な仕草が出来たのかというくらい柔和な動作で貴族様をお通しする。
貴族様はどうにも不可解なお顔をしてらしたが、腹の底では何考えてるか分からねえ。
笑顔で税を釣り上げるのが貴族様のやり口だからな。ケッ、俺は知ってるんだぜ。どうせそのあどけない顔は仮面なんだろ?
だが助かった。俺の名前を聞いてこなかったのだから、領主様に告げ口されるようなことはないだろう。
よくやった俺、今日はパーッと飲まねえとな。
門番は心地よい満足感に包まれながら恭介の背中を見送ったのだった。
業務的な対応から軽蔑する目つきになったと思ったら一転してへつらいはじめた門番。
最初こそ不可解だったが、後になってようやくあの態度の意味が分かった。
まず門をくぐった瞬間、ここは元いた地球とは別の世界だと確信した。
街並みや行き交う人々の服装が明らかに中世……というか、典型的なファンタジーもので見かけるそれだったのだ。
長いしっぽを揺らしながら歩く、頭頂部に耳の生えた人間が当たり前のように道を歩いている。
日本ではポピュラーだったはずの制服が、ここでは明らかに奇異の視線を集めている(向こうでも、昼間から制服で道端を歩こうものなら警官がすっ飛んでくるが)。
恐らく、俺を高い身分の人物だと勘違いしてるんだろう。
そう捉えれば、さっきの門番の豹変ぶりも、人々がこぞって道を開けてくれることも説明がつく。
獣人間がコスプレの可能性は否定できないし、更に言うならこの町自体が何かの映画セットの可能性も否定できない。
ハリウッドならこれくらいやってもおかしくない……かもしれない。
もしかして、本当に俺は誰かに連れてこられて、今の動きも全部フィルムに納められているのか?
これはドッキリ映画の一環?いや、多分そう考えることの方が非現実的だろう。
とにかく分かっているのは、俺は着の身着のままヘンテコなところに放り出されて、当てもなく彷徨わなければいけないということだ。
このままでは1日持つかすらあやしい。なんて言ったって糧食すらロクにないんだから。
考えろ。考えなければならない。この場を凌ぐためになにをするべきか。