行くわよ
マグカップのココアが冷めたころ、彼女はあたり前のように言った。
「海に行きましょう」
電子レンジの音がなるなか、今から行くのかと驚く彼を気に止めることなく彼女は玄関へと向かっていく。それに天気も曇りだ、いつ雨が降っても可笑しくない重い空。まだ朝食すらとってないのに、彼女は笑いながら車に乗り込んで行った。もちろん運転するのは彼である。
「唐突だな、海なんて」
「違うわ、前から考えてたのよ」
「朝食すらなしで、海へ行くことをか?」
「分かってないわね、乙女心よ。ハジメテの海にはステキな彼とって」
嘘か本当か分からないような話し方で、話題を強制的に終わらせた。気分屋な彼女は好きな音楽でも流そうとCDを漁る。そこには一枚一枚にアーティスト名に題名まで書かれていた。持ち主である彼の細やかさを感じられる。だが彼女にとっては、どれも同じらしく適当に引き抜いた。二人でいるとよくある風景である。そしていつもの冗談混じりのお遊びだなと考えた彼は、そのお遊びに付き合うことにしたのであった。しかしながら彼女は海に行ったことがあるにしても、本当に目にしたことはなかったのだが彼は今後も知ることは無いのだろう。
「パンケーキが食べたいわね、ふわふわのやつよ」
「はいはい、お姫様。朝食は当分先ね、高速のったから」
「別に今じゃないわよ」
「そうしてもらえると助かるよ」
車内には90年代の洋楽が聴こえるだけ、二人は口を閉ざした。二人にとって懐かしく感じる曲だが、そこまで古いものでもない。好みの曲調が居心地のいい空間をつくったのは確かだ。喋らなくとも、目を会わせなくとも、成立するものを二人は大切にしていた。一定の速度で走り抜ける車に二人は身を預け、思い思いの時間を過ごす。高速道路ではちらほらと車を見かけるだけで、渋滞もなくドライブとしては最高だった。
「海行ってどうするわけ、こんな寒い季節にわざわざさ。海には入れないぜ」
ちょっと、またその話?見えればいいのよと小さな声が響く。聞かれたくないのか分からないがこんなに近くにいるのだ、彼は苦笑を浮かべた。
「海はどんな感じかしら」
優しいのか、少し冷たいのか、それとも逞しいのか。彼女は楽しそうに、楽しそうに言う。海を表現する言葉に照れ屋が出たときは笑いだしそうになったが、彼はぐっとこらえた。なによりそんな彼女を彼は好いていたから。
「今日は空もどんよりしてるからな、海もそんなんだろう」
「どんよりって?」
「悩んでるんだよ、空も」
「そうなのね、空も大変だわ」
途中甘い匂いが彼の鼻をかすめ、少し空腹を感じコンビニへと車を止めた。お姫様を残し、買い物を済ませる。それ以外何もないドライブであった。匂いの正体は彼女の持っていたミニドーナツだったらしく、車内に戻ると食べていた彼女に少し笑ってしまった。ちゃっかり食べ物をもって来ていたからだ。彼はますます彼女の自分勝手さに呆れ、彼女を可愛いと思った。可愛いと思う。彼女のわがままは、彼がいて成立するのだ。彼女には彼が必要だし、逆もそう。上手く出来たものだ。
「ちょっと、サンドイッチ買ったでしょ。マヨネーズの臭いがするわ」
「これしか無かったんだよ」
「私、マヨネーズ嫌いよ」
「俺は好き」
「嫌い。隠し味としてなら認める」
「はいはい、ありがとうございます。お姫様」
ワンパターン。そして意味のないような馬鹿らしい話をしつつ下町を抜けて、緩やかな道のりをたどり海へと近づいていった。
「海の、しょっぱい臭いがする」
「うちのお姫様は、お鼻が良いようで」
海に沈むかのような感覚がした。彼女が言うにはそうらしい。表面が鈍く反射する海は少し切なく見えた。夏場と違い静かな海辺は波音を強く際立たせ、海の存在が近くに感じた。海辺の道の駅に車を置き海へと向かう。
「特別に私をエスコートさせてあげる」
「はいはい、ありがとうございます。お姫様」
彼女の手をとると、道路を渡り砂浜へと進む。こんな季節だからか、天気がよろしくないからか人が一人もいなかった。波の音が近づいたり離れたりを繰り返し、その音で体感温度が一度さがりそうだと彼は思う。彼女はというと、浜辺から海の方に顔を向け動かないでいた。
「何かあったのか」
「何もないわ」
彼女は少し眠そうに、小さく欠伸をした。それを見ていた彼もうつったのか欠伸をする。ゆっくりとした感覚はとても癖になるものだった。
「ねぇ、海ってどんな感じ」
海を前にし彼女は彼に問いかけた。
「何だよ。まぁ、よく母なる海なんて聞くよな。後塩っ辛くて、冷たいな。比較的青色で、今の曇りの天気じゃ空と海の境界線はよくわからない」
彼女は人によく訪ねる。それはいつも微妙な質問で、感情的な曖昧な答になることが多い。林檎ってどんな食べ物のか、犬はどんな動物なのか。
「にしても、その質問好きだよな」
「私の感じてることと、貴方が感じてることが全部同じなんてないの。言葉にしてもらえれば少しはしったきになれるじゃない」
「哲学の授業になりそうだぜ。じゃもしこの場所で宇宙船が追突したらどうするよ」
「どうしましょうかね」
「宇宙の生き物が、海から陸地に上がってくるぜ」
ちょっと待ってて。彼女は頬に手をあて考え出した。赤い唇が微かに動き、右足で砂浜を撫でる。ちらりと見える彼女の肌を彼は見つめていた。
「私にはそれがどんな生き物か分からないから、失礼な態度をとってしまうかもしれないわ。でもきっと出会いの瞬間は素敵なものよ」
「美化しすぎた内容で後世に残ったりしてな」
「あり得るわね。海辺で人類は宇宙の生き物と初めての交流をはかったとか」
「飛行物体が海の表面にあたり、一面は眩い水の粒が舞い上がってたとかな。俺たち美男美女設定で絵画になったりして」
「いつの時代よ」
彼は笑いながら彼女の頭に手をのせ撫でる。これは彼女が喜ぶとわかっていてやっていて、癖になりつつある行動だ。それを彼女も分かっているので、彼に寄りかかる。似た者同士であった。
「もしも、そいつらが悪意をもって向かってきたら俺は逃げるね」
「私はどうなるの」
「勿論連れていくよ。お姫様は俺がいないと何も出来ないからな」
「必要最低限のことは出来るわ」
「料理も必要最低限に入るんだぜ」
雲の隙間から少し、太陽の光がさす。夕焼け色の、切ない色を彼は眺めていた。厚い雲に隙間なんてなさそうに見えていたのだが、ほんの小さな隙間から強い光が漏れていた。
「貴方からしたら海ってどんなものなの。宇宙人が着陸する場所なんて言わないわよね」
「 そんなこと言わないから。俺からしたら海は、海だよ」
「もっとないの?」
「突然言われても言葉なんてでないぜ」
「じゃあ、宿題よ。家に着くまでに考えといて」
「はいはい、お姫様」
帰るわよ。彼女はそう言うと海に背を向け歩きだした。海風が彼女の髪をかきあげ揺らめく。水色のワンピースに砂浜のクリーム色と並び、パステルカラーのお菓子のようだ。彼はお菓子のような彼女を、本当は砂糖菓子で出来てるんじゃないかと考えたこともある。考えただけだが。
「海風はしょっぱいわね」
「海なんて塩水みたいなもんだしな」
離れ行く波音を背景に二人は歩く。声がかき消されるほど強かった音は次第に脳内に染み着いき、離れてもなお近くに感じた。
「俺さ、これだけは今でも言えるわ」
彼女は何のことよと聞き返す。彼は少し眠るねにやける口を押さえて言葉にした。
「海は嫌いじゃない」
「曖昧ね」
「好きだ」
「そう」
車に乗り込めば、ジャスミンの匂いが鼻をかすめた。なれた手つきで二人はサングラスをかけ、シートベルトをする。彼は細かい砂が車に入ったのが気に入らないのか、掃除しないとなと呟いていた。彼女は海に手を振り、さよならと声をかける。
「じゃ、帰るとしますか。ウミちゃん」
車のエンジンがかかり、景色が代わり行く。横目で彼女をみれば、頬が赤く染まっていた。彼女は我が儘だ。彼はそれを可愛と思っている。ふざけたようか会話の中で、彼らは不器用に愛を確かめるのであった。