憧れを捨てる日
ばたばたと慌ただしい文化祭前日の校内で、数少ない静かな場所がある。明日、文芸部の部誌配布コーナーになる予定の、この教室だ。たった五人しかいないというのに、八割という脅威の兼部率を誇るだけあって、製本作業が一段落した部室にいるのは兼部していない僕と、兼部先ではもう引退している先輩だけだから。
状況だけ考えると女子と二人っきりという、僕ら男子高校生的にはすごく緊張する状況だけど、今の僕にはなかなか嬉しい状況なのだ。
夢の中で周りを傍観しているように、僕は喧噪を遠くに聞いていた。けど、そんな感傷は先輩に蹴り飛ばされる。
「浅川、ミルクティー買ってきて」
「またですか。立て替えてくださいね」
「しないわけないだろー」
純白の長い髪、真冬に積もる雪のような肌、ルビーか何かのように透き通った赤い瞳、それを守る羽のような長くて白いまつげ。その美しさは、初めて見た時、地上に舞い降りた天使かと思ったくらい。
けど、現実は残酷だ。
「何、ぼけっとしてるんだい。早くしなさい」
……いや、残酷っていうか、僕が勝手に夢見てただけなんだけれども、スカートで蹴ってくるのはいかがなものか。
「一分な」
「え、ちょっ」
「よーいドン!」
「ちょっと!」
慌てて教室を飛び出す。廊下に広げられている模造紙を踏まないように気をつけて、階段を駆け下りた。五段ほど飛ばして飛び降りたら、自分のくせっ毛がふわっと膨らんだ。先輩みたいな女子だったらいいのに。男子高校生の黒髪がふわっとしたって、可愛くも何ともない。
「よっ、と」
自販機で百二十円を入れて、いつものミルクティーを選んだ。がこんっ、と音を立てて白い缶が出てくる。キンキンに冷えたそれを握りしめて、階段を三段飛ばしに駆け上がった。もう、一分経ったんだろうか。
「おっそーい」
「いや、頼んだ人の言い草じゃないですよね、それ」
「ま、一分以内だから良いけどさ」
「無視ですか!」
ありがとね、と言いながら、先輩が僕の手から缶を奪う。暴君以外の何者でもない。
「あ、そうそう。はい、お金」
「あ、どうも」
お金がないわけでもないのに、どうしてこの人は僕をパシるんだろうか。
でも、この生活も、もうすぐ終わってしまう。先輩の引退の時期が近づいているから。三年生は、もう受験に専念しなくてはならないから。
「どうしたんだい、急に黙って」
「あ、いえ」
細くすらりと長い指がプルトップを開ける。僕はそれをぼんやりと眺めていた。走ってほてった身体がゆっくりと冷えていくのを感じる。教室は、静かだ。
「ところで浅川」
「はい」
「君はずっとここにいるけど、クラスの方に行かないでいいのかい?」
「ああ、僕は衣装係なので」
クラス劇なんて、基本的に役者以外は暇になるものだ。大道具係なら本番は忙しいかもしれないが、僕はそんな体力もない。だから、前日までに仕事が終わる衣装係になったのだ。幸い裁縫は不得意ではない。なかなかに重宝されていたし、楽しかった。自分と同じように当日はクラスにいない人も多かったし、彼らと喋るのも悪くはなかった。
「ふーん」
説明すると、先輩は興味なさそうに缶の中身を口に含んだ。
「それじゃ、当日の店番は、私と君が常駐する感じだね」
「え、先輩、受験生じゃ」
「いいのさ。どうせ来ても勉強できないし、家だとさぼるし。だったら、店番しながら絵を描いたりした方が有意義だ」
そうですか、と返すと、そうなのさ、と返ってくる。僕はひそかに喜んだ。憧れ、いや、尊敬している先輩と過ごせる時間は、少しでも長い方がいい。
「口元、緩んでるぞ」
「えっ!」
慌てて口を抑える。そんなにわかりやすかったか。
「嘘さ、いつも通りの仏頂面だよ。そこそこ格好いいくせにあんまり表情を変えないから可愛げのない、いつもの顔だよ」
「それ、褒めてるんですか、けなしてるんですか」
「褒めながらけなしてる」
「面倒くさい人ですね」
「うるさいな」
生意気だぞー、と額に手を伸ばされる。思わず目をつぶったら、案の定、軽い衝撃を感じた。あの指が自分に触れたのか、と思うと何か神聖なものに触れてしまったような気分になる。そっと、先輩の指が触れた場所に手を当てた。
「そんな、押さえるほど痛くはしてないだろ」
「いや、痛くはないですけど」
「あと、動揺したって事は嬉しかったのかい?」
「え、あ、まあ」
「素直だな」
ぽんぽんと言い合っていたら、ふと先輩が口をつぐんだ。
「にしても、君とこの部屋で過ごす事も、そろそろ終わりというわけか」
どきりとした。
「私はあまり感傷的なヤツを好まないけど、この部活に関しては思い入れがあるからね。ほんの少しだけど、寂しくもなるな」
「…………」
僕も寂しいですよ、なんて言ったら笑われるだろう。僕がこの部活を支えて行きますよ、なんてったら、もっと笑われるだろう。来年の事を聞いた鬼のように。
「来年の部長は、誰になるんだろうね。君かな、きっとそうだろう。何せ、もう一人の彼女はあまり来ないし」
独り言のように先輩は、自分たちのいなくなったあとの話をする。空になりかけたミルクティーを両手で包んで、机の上に腰掛けて、足を揺らして。
「浅川部長か。悪くないな」
先輩の目が、明日の朝、すぐ売り始められるように並べた部誌の山に注がれる。その視線から、彼女の思考を読み取れる事はない。真っ赤な瞳はいつも変わらず冷淡だ。無邪気に見えるときもあるけど、いつもどこか冷たい。
僕は、そんな先輩に憧れていた。
「……先輩」
そう、憧れて「いた」のだ。昨日まで。
「何?」
不思議そうに先輩がこちらを見る。かなり気恥ずかしいことを言おうとしている、と今更のように考えた。けれど、それはどこか人ごとのような恥ずかしさで、僕には関係ないように思えた。
小さく、息を吸う。
「……明日、開会式の前、早めに来てもらえませんか」
言いたい事があるんです、と続ける。きょとん、としたように、先輩は首を傾げた。
「それは、告白の予約かい?」
「違います」
「じゃあ、決闘の申し込み」
「物騒な発想ですね」
「あ、今のダジャレっぽかった」
「狙ってないです」
ふむ、と先輩は僕に向き直った。思わず背筋を伸ばす。開けっ放しの窓から風が入ってきた。金木犀の香りが、額の真ん中で分けられた先輩の髪を乱す。
「構わないよ。最初からそのつもりだったしね」
「ありがとうございます」
缶を机において、髪に手をかけた。先輩は、髪の分け目にこだわりを持っているらしい。
「さ、話はそれだけで終わりだね?」
「え、あ、はい」
「じゃあ、私、帰る」
「え、あ、はい」
「君はどこのマネージャーさんなんだい」
「ネタが古いです、ドラッカーって入れないとわからないです」
「あの子、地味だし誰も覚えてなさそうだよね」
「遠回しに僕の事、地味って言ってませんか、先輩」
「気のせいだよ」
そんなくだらないことを喋りながら、先輩は帰る用意を終えて、教室のドアをガラリと開けた。
「それじゃ、また明日」
「はい、さようなら」
小さく頭を下げて、僕は先輩を見送った。
明日、この教室で、ずっと言おうと思っていたことを言う。そして、明後日、先輩は正式に引退する。文化祭が終わったら、流れるように引退するのが通例らしいから、お別れ会なんてしないんだろう。三月にはどうかわからないが。
先輩達のいなくなったあとの部活は、どうなるんだろうか。考えられそうで、考えられない。
部長は今まで通り、三月まで頑張ってくれるだろう。同級生は同級生で、テニス部と文芸部を行ったり来たりと、慌ただしく過ごすだろう。
では、僕は?
そこまで考えて、頭を振った。それは、明日考える事だ。
やることもない。クラスを軽く覘いて、さっさと帰る事にした。
翌朝、七時に登校したら、先輩はもう来ていた。
「おはようございます。早いですね」
「おはよう。君が遅いんじゃないかな」
「そんな事ないですよ」
いつも通りだった。他の部員はまだ来ていない。
だだっ広い教室の窓は開け放されていた。昨日はきちんと閉めたから、先輩が開けたんだろう。時々風が吹いて、薄緑のカーテンを揺らす。よく晴れた秋空が、寝不足の目に眩しかった。
「それで、言いたい事って、何だい」
あ、と口を小さく開けた。忘れていたわけではない、僕から言い出そうと思っていただけだ。
先輩がまっすぐこっちを見る。血液の色をした目が僕を射抜く。苦手で、けれど大好きな目。いつもそらしてばかりだけど、今日だけは、絶対に目をそらさない。そう決めていた。
「……矢部川先輩」
まっすぐ、そらさないように、先輩の目を見た。名前を、呼んだ。
「僕は、あなたに憧れて、この学校に入りました。文芸部に、入部しました」
中学時代から、ある意味ずっと片想いをしていた。初めて先輩の文章を読んだ瞬間から。
「あなたの文章が、大好きだった。堂々と、誰よりものびのびと、優しく小説を書いていた。美しくて、面白い文章を紡ぐ先輩に、僕は憧れていました」
それは憧れというより、崇拝に近かったかもしれない。この人の書くような文章が書きたいと、この人と同じ学校で学びたいと、そして何より、この人と話してみたいと、強く思ったのだ。
「この学校に入って、あなたに初めて会って、人間離れした――言い方が悪いのは承知の上で言いますけど、人間とは思えないくらい美しい姿を見て、憧れはそれまで以上に強くなりました」
「……長い。本題は」
心なしか、先輩の口調がぶっきらぼうになる。人間とは思えない、なんて言ったから機嫌を悪くしたのか。それでも、言い切ると決めた。僕は続ける。
「一緒に部室で喋ったり、作品の読み合いとかしていても、やっぱり憧れだったんです。頭も良くて、運動もそこそこできて、小説も上手くて、本当に凄いなって」
楽しかった。先輩の文章を読むのも、批評してもらってそれをもとに物語を書くのも。一緒に遊ぶのも、喋るのも、パシられて文句を言ったのも。
けれど。
「けれど、そのままじゃダメだって思ったんです。憧れていたら、先輩を超えられないって。……いつまでも、後輩でしかいられないって」
先輩の目がわずかに見開かれる。それは単なる驚きというより、予想外のことが起こったのを楽しんでいるような。
「だから、文化祭を機に……先輩が引退するのを機に、『憧れ』を捨てようと思いました。『尊敬』はしても、『憧れ』ない。おこがましいかもしれませんけど、対等に先輩の小説と渡り合いたい。そう考えたんです」
楽しげに先輩の口元が歪む。それは決して冷たいものではなかった。
「矢部川先輩。僕は、近い将来、絶対に先輩の小説を上回る作品を書きます。期待、しててください」
口の中が乾いていた。一瞬のような、永遠のような時間が流れる。
「そうか」
先輩が僕を見上げる。それは彼女の作品のように優しく、どこか冷静だった。
「期待しているよ、浅川」
僕は黙って頭を下げた。
言いたい事は言い終えた、あとはそれを現実にするだけだ。先輩の期待に応えるのではなく、自分の目標のために。先輩を超えて、いつか自分の物語を世の中に出す、そんな夢のような目標のために。
「じゃあ、用意、しようか」
「はい」
尊敬する先輩との文化祭は、これが最初で最後だ。目一杯楽しんでやろう。
《Fin》
こんにちは、淡野浅葱です。
今回の話は、憧れてるだけじゃその人を超えられないから憧れるのやめよーぜ! でも敬意は忘れないでいこうぜ! てな話です。テーマが単純すぎる。
文芸部、もしくは文学部に入部した経緯って、人それぞれだと思いますけど、きっとこういう人もどっかにいるんだと思います。
色々な部活を経験してみて思うのは、やっぱり先輩の存在って大きいなってことです。先輩の背中を見て後輩は成長するものだと思います。ああいう格好いい先輩になりたいと思ったり、ああいう先輩にだけはならないようにしようと思ったり。参考の仕方は様々ですね。淡野のような先輩だと反面教師にしてもらうしかないのですが。
まず、矢部川先輩について。白い髪、白い肌、赤い瞳、と書いていますが、いわゆる先天性色素欠乏症っていうものを参考に書きました。遺伝子疾患だそうです。
そういや、アルビノって、往々にしてかなり特殊なキャラクターにされやすいじゃないですか。魔法が使えたり物語の謎を全部知っていたり。けど、彼女は全てを知っているわけではありません。受験生活に身を投じている、少し優れているだけの「普通の」学生です。……まあ、これはこれで思った以上に強烈なキャラではあったのですが。普通とは何だったのか。
ちょいちょいわき道にそれつつも、この二人に託した淡野の思いがどなたかに伝わって、面白がってもらえればいいなあ。
楽しんでいただければ幸いです。
では、またお会いできる日まで。