話しかけないでほしいだけなのに、冷徹公爵がなぜか私にだけ甘すぎます
夜会というものは、どうしてこうも人が多いのだろう。
きらびやかなシャンデリア、磨き上げられた大理石の床、壁際にずらりと並ぶ花々。音楽はうるさすぎず、料理も上等で、招かれた令嬢たちは皆きれいに笑っている。
完璧だ。
完璧だからこそ、疲れる。
私は壁際で小さく息を吐いた。
「お嬢様、顔に出ております」
と、後ろに控えていた侍女のハンナが小声で言う。
「出しているのよ」
「せめて、もう少しだけ楽しそうに見せてくださいませ」
「楽しくないもの」
「正直すぎます」
私は視線だけで広間を見回した。
今夜の主役は王太子殿下の帰還祝いだが、令嬢たちにとっての本命は別にいる。
アウレリア王国でもっとも近寄りがたい独身貴族――ヴァルハルト公爵、ユリウス・ヴァルハルトその人だ。
背が高く、顔立ちは整いすぎるほど整っていて、表情は薄い。
無駄口を叩かず、笑わず、愛想もない。
そのくせ若くして公爵家を切り盛りしているものだから、社交界では「冷徹公爵」と呼ばれている。
令嬢たちはあの人を恐れている。
そして、恐れているくせに近づきたがる。
まったく理解できない。
「お嬢様も、今のうちにご挨拶なさっては」
「嫌よ」
「即答」
「だって面倒だもの」
「その“面倒”をもう少し上品な言葉で包んでいただけませんか」
「無理ね」
私はそう言って、壁際の観葉樹の向こうに半分隠れる位置へそっと移動した。
ここなら視線も通りにくいし、誰かに捕まる可能性も減る。
夜会で一番大事なのは、目立たないことだ。
少なくとも私はそう思っている。
「お嬢様、今お帰りになるのはおすすめいたしません」
「帰るつもりはないわ。出口を見ていただけよ」
「本当でしょうか」
その時、広間の空気がわずかに変わった。
令嬢たちの視線が一斉に一点へ向かう。
ああ、来たのねと思って顔を上げると、案の定、冷徹公爵がこちらへ歩いてきていた。
正確には、広間を横切っているだけなのだろう。
そう思いたかった。
だが現実は違った。
黒の礼装を隙なく着こなしたユリウス公爵は、まっすぐ私の前で立ち止まった。
「こんばんは、ローゼンベルク嬢」
「……こんばんは」
しまった。
とりあえず返してしまった。
私が返事をしたことで、周囲の令嬢たちの目がさらに丸くなる。
まるで珍獣が会話をしたところでも見たような顔だ。
「今日はずいぶん奥まった場所にいるな」
「壁際が好きなのです」
「そうか」
「はい」
会話終了である。
私はそう判断して視線を外したのだが、公爵はなぜか動かなかった。
嫌な予感がする。
「何か」
「いや」
ユリウス公爵は本当に何でもないような顔で言った。
「君が私を見ていたから、用があるのかと思った」
「見ていません」
「そうか?」
「出口を見ていました」
「なるほど」
公爵はうなずいた。
何がなるほどなのかは分からない。
だが、なぜかその口元がほんのわずかにやわらいだ気がした。
「帰りたいのか」
「できるなら今すぐにでも」
「正直だな」
「取り繕う意味がありませんので」
「そういうところは嫌いではない」
私は思わず公爵を見た。
今、何と?
嫌いではない?
その瞬間、少し離れた位置から押し殺した悲鳴のようなものが聞こえた。
見なくても分かる。令嬢たちだ。
やめてほしい。
別に何も起きていない。
「私は失礼してもよろしいでしょうか」
「だめだ」
「なぜです」
「まだ二言しか話していない」
「十分では?」
「君とはいつもそうだな」
「いつも?」
私が眉をひそめると、公爵はごく自然に答えた。
「話しかけるたびにすぐ逃げる」
「逃げているのではなく、必要がないので切り上げているのです」
「それを一般には逃げると言う」
「では公爵様は一般を改めるべきです」
そこまで言ってから、私ははっとした。
少し失礼だったかもしれない。
だが、公爵は怒るどころか、なぜか機嫌がよさそうに目を細めた。
「やはり君は、私の前では容赦がないな」
「公爵様が頑丈そうだからです」
「信頼されているということか」
「違います」
今度ははっきり否定した。
だが公爵はまったく気にした様子もない。
どういう人なの、この人。
するとそこへ、扇子を片手に友人のミレーユがふらりと現れた。
「まあ、セシリア。こんなところにいらしたの」
「ええ」
「失礼いたしました、公爵閣下。セシリアは少々愛想が足りませんの」
「知っている」
「それはもう、よくご存じで」
ミレーユはにっこり笑った。
やめて。
その含みのある笑いは本当にやめて。
「では私はこれで」
と私は会話を終わらせようとしたのだが、
「待て」
と公爵に引き止められた。
「まだ何か」
「君は甘い菓子が好きだったな」
「……なぜご存じなのですか」
「前回の茶会で、君が焼き菓子だけ先になくしていた」
「見ていたのですか」
「見えていた」
そう言って公爵は、給仕から皿を一枚受け取った。
そしてごく当然のように、それを私へ差し出してくる。
小さな蜂蜜菓子が三つ載っていた。
「食べるといい」
「結構です」
「遠慮するな」
「遠慮ではありません」
「では警戒か」
「はい」
「それは残念だな」
残念そうに言う顔が、まるで残念に見えない。
というより、少し面白がっているように見える。
しかも周囲の視線が痛い。
痛すぎる。
「お嬢様」
とハンナが後ろから小声で囁いた。
「受け取った方が傷は浅いかと」
「どういう意味」
「もう手遅れという意味です」
そんな馬鹿な。
けれど、このまま押し問答を続ける方が目立つのも事実だった。
私は諦めて皿を受け取った。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
公爵は満足そうにうなずいた。
本当にどういう人なのだろう。
「では、今度こそ失礼いたします」
「また逃げるのか」
「会話が終わったからです」
「私はまだ終わっていない」
「私は終わっています」
「それは困るな」
困ると言いながら、少しも困っていない顔だった。
その時、王太子殿下の到着を告げる声が広間に響いた。
ようやく助かった、と私は内心で深く息をつく。
「公爵様もそろそろ主役の方へ行かれるべきでは」
「君がそう言うなら行こう」
「そうしてください」
「だが」
ユリウス公爵は一歩だけ近づいて、低い声で言った。
「その菓子は、ちゃんと食べるように」
「命令ですか」
「お願いだ」
「どうして」
「君は食べている時だけ少し機嫌がいい」
私は固まった。
後ろでミレーユが扇子の陰で吹き出す音がした。
ハンナは完全に遠い目をしている。
公爵はそれだけ言うと、本当に満足したように踵を返した。
広間の中央へ向かう後ろ姿は相変わらず堂々としていて、令嬢たちは一斉にその背へ視線を送っている。
私は手元の皿を見下ろした。
蜂蜜菓子が三つ。
ほんのり甘い香りがする。
「お嬢様」
とハンナが静かに言った。
「何」
「もう遅いようです」
「何が」
「公爵閣下が、お嬢様にだけ甘いという噂が広まるのは時間の問題かと」
「ただ菓子を押しつけられただけでしょう」
「その認識でいらっしゃるのは、おそらくお嬢様だけです」
「そんなはずないわ」
「では、周りをご覧くださいませ」
恐る恐る視線を上げると、令嬢たちがものすごく複雑な顔でこちらを見ていた。
嫉妬。
驚愕。
動揺。
そして少しの好奇心。
嫌な予感しかしない。
ミレーユがにこにこしながら言った。
「セシリア」
「何」
「おめでとう」
「何も始まっていないわ」
「そう思っているの、あなただけよ」
私は無言で蜂蜜菓子を一つ口に入れた。
甘かった。
そして、とても面倒な予感がした。
*
その予感は、翌日には現実になった。
「セシリア様って、冷徹公爵閣下と特別なご関係なのですって?」
「まあ、公爵閣下の方からお菓子を?」
「昨日、あんなに長くお話しされていたものね」
学院時代の知人たちから次々に声をかけられ、
私は朝の茶会が始まる前にもう帰りたくなっていた。
「違います」
と私は三回は言った。
「でも、見ましたわ」
と五回は返された。
世の中は、こちらの否定より自分の見たいものを優先して見るらしい。
私はティーカップを置いて、疲れた目でミレーユを見た。
「助けて」
「嫌よ。面白いもの」
「友人失格では?」
「今さらでしょう」
ミレーユは楽しそうに焼き菓子をつまんだ。
「でも分かるわ。あなたが困っているのは」
「なら止めて」
「無理ね。だってヴァルハルト公爵閣下、今日は来るもの」
「……なぜ知っているの」
「主催の伯母様が朝から落ち着かないもの」
その時、会場の扉が開いた。
私が嫌な予感を覚えるより早く、侍従が高らかに名を告げる。
「ヴァルハルト公爵閣下、ご到着」
やめてほしい。
どうして本当に来るの。
令嬢たちが一斉にざわめき、視線が入口へ向かう。その中を、昨日と同じく無駄のない歩き方で公爵が入ってきた。
そして迷いなく、私の前で止まる。
「おはよう、ローゼンベルク嬢」
「……おはようございます」
「昨夜の菓子は食べたか」
「食べました」
「そうか」
公爵は満足そうにうなずいた。
だからその、満足そうな顔を人前でしないでほしい。
「今日は顔色が悪いな」
「だいたい公爵様のせいです」
「私のせい?」
「はい」
「詳しく聞こう」
聞かなくて結構である。
だが公爵は当然のように私の向かいの席へ座った。令嬢たちの悲鳴が、今度は隠し切れずに小さく漏れる。
「閣下、あの、こちらは――」
と主催の伯母が何か言いかけたが、
「問題ない」
の一言で押し切られた。
すごい。
ことばの圧と冷徹なにらみで、他の人はああやって一言で片付けてしまう。
「それで」
と公爵が私を見る。
「なぜ私のせいなんだ」
「皆が勘違いします」
「何を」
「何もかもをです」
公爵は少し考える顔をした。
「君が私を嫌っているのに、という意味か」
「嫌っていますとまでは言っていません」
「では嫌いではない?」
「好きでもありません」
「それなら問題ないな」
何一つ解決していない。
「お嬢様」
とハンナが後ろから囁いた。
「閣下の中では、かなり好意的な結果になっております」
「聞こえているぞ、侍女」
「失礼いたしました、閣下」
失礼いたしました、ではない。
私がこめかみに手を当てると、公爵は本気で心配したように言った。
「頭痛か」
「ええ、少し」
「なら甘いものが必要だな」
「必要ありません」
「ある」
公爵は給仕に合図をし、蜂蜜をたっぷり使った小さなタルトを私の前へ置かせた。
どうしてこの人は、私に甘いものを与えることにこんなに迷いがないのだろう。
「召し上がってくださいませ、セシリア様」
と侍女まで笑顔で言う。
完全に敵である。
仕方なく一口食べると、公爵がじっとこちらを見ていた。
「……何ですか」
「やはり機嫌がよくなった」
「なっていません」
「少し口元がやわらかい」
「気のせいです」
「そうか。なら、もっと食べるといい」
周囲で何人かの令嬢が扇子を落とした音がした。
私は本気で帰りたかった。
*
決定打になったのは、その三日後の庭園散策会だった。
噴水の近くで休んでいた私の前に、数人の令嬢たちが立ちはだかったのである。
「ローゼンベルク嬢。少々やりすぎではなくて?」
「何の話でしょう」
「閣下の気を引くために、わざと冷たい態度を取るだなんて」
「は?」
意味が分からない。
「でしたら、今ここではっきりおっしゃればいいのですわ。閣下に気を持たせるつもりは一切ないと」
好都合だった。
誤解を解けるなら、この場で終わらせたい。
私は振り返り、ちょうど現れたユリウス公爵を見た。
「申し上げます。私は閣下に気を持たせるつもりは一切ありません。むしろ、これ以上話しかけないでいただきたいと何度も思っております」
令嬢たちが勝ち誇ったようにざわめく。やっと終わる。そう思ったのに。
「なるほど」
と公爵は言った。
嫌な予感しかしない。
「セシリア嬢」
「はい」
「君は、私が中途半端な態度を取り続けているから迷惑だと言いたいのだな」
「違います」
「分かった。私の落ち度だ」
分かっていない。
そう思った次の瞬間、公爵は私の前に片膝をついた。
令嬢たちの悲鳴が上がる。
「ちょっ」
「これなら誤解はないだろう」
何が。
「セシリア・ローゼンベルク嬢。私は君に正式に求婚する」
「は?」
「話しかけるなと言われたのは、曖昧なままで君に近づきすぎたからだと理解した。ならば順を踏む」
「理解していません」
「私は君を妻にしたい」
「り か い……できません」
「……どちらがだ」
「全部です!」
私は生まれて初めて、公爵の前で声を荒げた。
「私はただ静かに暮らしたいだけです! 夜会で壁際にいても放っておいてほしいし、勝手にお菓子を渡されるのも困るし、社交界中に噂を広げられるのも迷惑です!」
「なるほど」
公爵は真面目な顔でうなずいた。
「つまり、静かに暮らせるなら私でもいいと」
「なぜそうなるのですか」
「条件の確認だ」
「違います」
だがそこで私は言葉に詰まった。
嫌いかと聞かれれば、もう多分違う。
面倒で困るし、勝手に前向きに解釈するし、心臓に悪い。
でもこの人は、私が冷たくしても無理に笑わせようとはしない。妙な方向にずれてはいても、私の言葉自体はちゃんと聞いている。
……一部、聞き方がかなりおかしいだけで……。
黙った私を見て、公爵はほんの少し目を細めた。
「嫌なら、君は即答で切り捨てるだろう」
「ずるい言い方です」
「そうかもしれない」
「冷徹公爵とは思えません」
「君の前ではあまり冷徹でいられないらしい」
そんなことを平然と言うのだから、本当にずるい。
周囲の令嬢たちは呆然としているし、遠くでハンナは額を押さえているし、いつの間にか見物に来ていたミレーユは楽しそうだった。
「セシリア」
とミレーユが言う。
「その顔、もう半分落ちているわよ」
「落ちていない」
私は公爵をにらんだ。
「……条件があります」
「何だ」
「静かに暮らしたいのです」
「分かった」
「夜会で無理に目立たせないでください」
「努力する」
「不安です」
「では、君が嫌がることはしない」
「本当に?」
「できる限り」
少しずつ譲歩してくるあたりがずるい。
「それから」
と私は続けた。
「甘いものを餌のように使わないでください」
「それは難しい」
「なぜ」
「君が食べている時は、少しだけ機嫌がいいから」
やっぱりこの人は駄目かもしれない。
でも、その時の私はたぶん少しだけ笑っていたのだと思う。
公爵はそれを見て、静かに息をついた。
「その顔だ」
「何ですか」
「私は、その顔が見たかった」
ずるい。本当にずるい。
私は視線を逸らした。
「……返事は、少し待ってください」
「ああ」
「でも、勝手に広めないでくださいね」
「もう無理だろう」
「どうして」
「見られている」
言われて周囲を見ると、令嬢たちは誰一人として視線を外していなかった。
終わった。
私は片手で顔を覆った。
「お嬢様」
とハンナが静かに言った。
「何」
「おめでとうございます」
「まだ何も決まっていないわ」
「そう思っているのは、やはりお嬢様だけかと」
*
翌朝、ローゼンベルク伯爵家には分厚い封書が届いた。
差出人はヴァルハルト公爵家。
嫌な予感しかしない。
封を切ると、中には整然とした文字で書かれた紙束が十枚入っていた。
『静かな場所候補一覧』
庭園、別邸、図書室、東屋、湖畔、温室、離れの小会食室。
ご丁寧に、時間帯ごとの静かさ、日当たり、菓子を持ち込めるかどうかまで細かく書き込まれている。
私は無言で一枚目をめくった。
二枚目にも静かな場所。
三枚目にも静かな場所。
四枚目にも、やはり静かな場所。
「お嬢様」
とハンナが遠い目で言った。
「閣下は本気のようです」
「見れば分かるわ」
「しかもとても丁寧に包囲してこられますね」
「その言い方はやめて」
私は紙束を見下ろし、深く息を吐いた。
どうやら私の平穏は、想像していたよりずっと丁寧に包囲されているらしい。
けれど、紙束の最後の一枚を見て、私は少しだけ黙った。
そこには他より短い一文だけが書かれていた。
『君がいちばん落ち着ける場所を、私も知りたい』
ずるい。
本当にずるい。
「お嬢様」
「何」
「顔が少しだけやわらかいです」
「気のせいよ」
「では、その紙束は捨てますか」
「……捨てないわ」
「さようでございますか」
ハンナは静かに微笑んだ。
私は机の上の紙束を整えた。
話しかけないでほしいだけだったはずなのに、気づけば冷徹公爵は私の前で少しも冷徹ではなくなっていた。
面倒で、困って、予想外で、心臓に悪い。
それでも以前のように、ただ逃げたいだけではなくなっている自分がいる。
どうやら私の平穏は、もう戻ってこないらしい。
でも、その代わりに少しくらい甘い日々が来るのなら。
……ほんの少しくらいなら、悪くないのかもしれなかった。




