第1話 筋肉は裏切らない
深夜のジムに、重い鉄の音だけが響いていた。
竹助内人は、今日も最後の一回に挑んでいた。
バーベルには、常識を超えた重量が乗っている。
八十余年。
彼は生涯を筋肉に捧げてきた。
年齢を考えれば、無謀と言っていい。
だが竹助にとって、年齢とは言い訳でしかない。
筋肉は、誤魔化せない。
息を吸う。
背を張る。
脚を踏む。
持ち上げる。
鉄が軋む。
空気が歪む。
(まだ足りない)
腕は震えている。
だがフォームは崩れない。
(これでも、真理には届かない)
視界が白くなる。
鼓動が遠のく。
(死ねない)
膝が笑う。
汗が滴る。
(私はまだ――)
意識が途切れる、その瞬間まで。
(筋肉の真理に辿り着いていない)
バーベルは、落ちなかった。
竹助は立ったまま動かなくなった。
両腕を伸ばし、完全にロックアウトした姿勢のまま。
静寂。
彼の人生は、筋肉の収縮とともに終わった。
――だが。
終わらなかった。
*
次に目を覚ました時、竹助は白い天井を見上げていた。
知らない場所。知らない匂い。
だが――
「……軽い」
身体を起こした瞬間、理解した。
関節に軋みがない。
呼吸が深い。
何より、身体の内側から湧き上がる確かな感触。
「……戻っている」
腕を見る。
張りのある筋腹。
血管の浮いた前腕。
全盛期。
二十歳前後の肉体。
竹助は小さく頷いた。
「よかった」
「これで俺はまた、筋肉の真理に近づける」
状況確認は後だ。
筋肉がある。
それだけで十分だった。
*
そこは、剣と魔法が支配する異世界だった。
竹助は勇者として神殿に召喚されていた。
白亜の神殿。
祭壇の前で、神官たちが水晶板を囲んでいる。
その後ろで一人の少女が慌てていた。
青髪の補助神官。
小柄で胸元は控えめな少女。
セリアーナだ。
「カイシン様、本当に勇者なんですか!?」
少女の視線の先には、白髪の老神官がいた。
神殿の長老。
賢者と呼ばれる博識の男。
カイシン。
カイシンは静かに水晶板を見つめている。
「……」
沈黙。
セリアーナが恐る恐る聞く。
「カイシン様……結果は?」
カイシンは顎に手を当てた。
「ふむ……」
「この職業は聞いたことがない」
神官たちが顔を見合わせる。
カイシンは続けた。
「“聖”の文字が付く以上、神聖系の肉体職と考えられる」
「筋肉に神の加護が宿った戦闘職……」
神官が頷く。
「なるほど……」
セリアーナが首を傾げた。
「つまり?」
カイシンはもう一度水晶板を見る。
そして静かに言った。
「……分からぬ」
「結局分からないんですか!?」
神官が慌てて竹助に聞く。
「お、お名前は……タケスケ・ウチト様で間違いありませんね?」
竹助は頷いた。
「いかにも」
一拍。
胸を張る。
「通りすがりの筋肉だ」
「……は?」
神官は咳払いをした。
「職業……『聖筋肉』」
沈黙。
セリアーナが聞く。
「カイシン様、聖筋肉って何ですか?」
カイシンは腕を組む。
「……分からぬ」
「またですか!?」
神官は続ける。
「スキル……なし」
「魔法適性……なし」
「加護……筋肉?」
セリアーナが悲鳴を上げた。
「筋肉って加護なんですか!?」
カイシンは少し考える。
「……」
「分からぬ」
「もうそれしか言ってません!」
竹助は静かに言った。
「筋肉に不可能はない」
神殿が静まり返った。
*
神官は勇者装備を持ってきた。
聖鎧。
聖籠手。
聖剣。
「では……こちらを」
鎧を着せた瞬間。
バキン。
鎧が裂けた。
「壊れました!?」
籠手。
ガキン。
壊れた。
聖剣。
握っただけで柄が砕けた。
神官は膝から崩れ落ちた。
「こ、こんなことは……」
その時。
ピシッ。
小さな音が響く。
水晶がひび割れていた。
「え?」
次の瞬間。
バキン!!
水晶が粉々に砕け散った。
「な、なぜだ!?」
竹助は静かに言う。
「少し」
「力を入れただけだ」
竹助は両腕を上げた。
胸を張る。
背筋を反らす。
――モストマスキュラー。
ドンッ!!
空気が爆発した。
旗が吹き飛び、書物が舞い、燭台が倒れる。
「きゃあああ!」
「な、なんだ今のは!?」
竹助はポーズを解いた。
「ただの」
「筋肉だ」
沈黙。
セリアーナが震える声で聞く。
「カイシン様……今のは?」
カイシンはしばらく考えた。
そして頷く。
「……筋肉じゃな」
「それは分かってます!」
竹助は拳を握る。
筋肉が応える。
「筋肉は」
「裏切らない」
世界はまだ知らない。
この男が――
常識という名の幻想を、筋肉で破壊する存在であることを。
竹助は腕を組み、静かに呟いた。
「プロテインが足りていないようだな」
足りていないのは――
この世界の方だった。




