第2話 言葉の刃
「はッ……!!」
質素なベッドで眠っていた若い女性――オリビアは勢い良く飛び起きた。
オリーブ色の長髪は乱れ、見開いた緑色の瞳には動揺が浮かんでいる。
起きたばかりのせいか、状況の理解が追いつかない。
目の前には炎に包まれた村もなければ、村人に襲い掛かる獣の姿もなく――ただ簡素な部屋の景色があるだけだ。
穏やかな朝の訪れを告げるように、窓から陽の光が差し込んでいる。
――夢だった。
あまりにも全てが鮮明で、まだ焦げた煙の匂いが残っているような気がする。
しかし、それは錯覚なんだとすぐには気付けなかった。
目が覚めてから時間は経っているのに、胸のざわめきから逃れることができない。
細身で引き締まった体に、冷えた汗で服が張り付いている。
まとわりつくような感触が気持ち悪かった。
まるで――あの声が、呪いの言葉が体の隅々まで染み込んでいくようで。
膝を抱え、深い溜息をつく。
(あれはただの夢……落ち着かなきゃ……)
静寂に包まれた部屋で一人。何度自分に言い聞かせても動悸が収まらない。
そんな時――
木製の扉を、拳で叩くような音が響いた。続いて、ハキハキした年配の女性の声が聞こえてくる。
「……オリビア、いつまで寝てんだッ!? いい加減起きてこいッ!」
同じ家で暮らす、師匠アテナの声。
驚きで一瞬体が震えたが、徐々に落ち着きを取り戻していく。
昔から師匠は怒ると怖かった。
修行も厳しくて、何度心が挫けそうになっただろう。
それでも、厳しい言葉や行動の裏に優しさが見え隠れしていることは分かってる。
だからこそ、この口調の荒々しさがあまりにいつも通りで安心してくるのだった。
「――おい、聞いてんのかッ!?」
「……いま行きます!」
オリビアは急いで立ち上がると、夢の余韻を振り切るように自室をあとにした。
***
彼女たちが住まう国の名は『ベルラーク王国』──王都を中心に東西南北で分かれている、広大な国土の島国だ。
そんな王国の南側。森の中にぽつんと建つ、木造の家。
身支度を整えたオリビアは、家の外で薪を割っていた。
一つに束ねた長髪を揺らし、斧を振りかぶって割り続ける単純な作業。
子供の頃からこういった地味な雑用で体の扱い方を覚えろと、口酸っぱくアテナに言われていた。
薪割り自体は慣れているのに、作業に身が入らない。
夢の残像が未だに頭の中にこびりついている。朝食だって、どんなものを食べたか思い出せないほど上の空だった。
振りかぶった斧が薪の中心を捉えられず、歪に割れた時――
「下手くそ」
「わっ……師匠」
振り向くと背後にアテナが立っていた。
短く切り揃えた、橙色のセンターパートの髪。金色のフープピアスが、彼女の耳元で一閃の輝きを放つ。
60歳を過ぎているにも関わらず、華奢な体は背筋が伸びていて若々しく見えた。
「朝から何ぼけーっとしてんだ。お前、なんか変だぞ」
「すみません、ちょっと……夢を見て」
「……夢?」
アテナに今朝見た夢の内容を伝えると、彼女は深い溜息をついた。
彼女のブルーグレーの瞳がいつも以上に鋭さを増す。
「……もうあれから一月だぞ? いつまでウジウジ考えてんだ。馬鹿だろ」
「でも……」
「反省すんのは勝手だが、後ろばっか見ても人は成長なんかしねぇんだぞ」
「……はい」
「ったく……」
アテナはオリビアの手から斧を奪うと、薪割りをしていた切り株に勢い良く突き立てた。
「……すぐ支度しな。行くぞ」
「え、行くってどこに……」
戸惑うオリビアに、彼女は表情も変えずに言葉を放つ。
「決まってんだろ。――カロナ村だ」
アテナがそう告げた瞬間、吹き抜けた風で木々がざわめき出した。
まるで、オリビアが感じている心のざわめきを映し出すかのように。
葉擦れの音と風が吹き抜ける音の中に、獣のような鳴声が混じる。
(……村を見に行くのが、怖い)
そんな恐れさえ、彼女の鋭利な眼差しに見透かされているようだ。
(でも……ちゃんと受け止めなきゃ……)
覚悟を決めたオリビアは、すぐ近くに置いていた剣を腰に差す。去っていくアテナの背中を追い掛け、急ぎ足で走り出したのだった。
***
カロナ村はのどかな農村だった。
訪れたことは何度もある。
村人たちは優しく迎え入れてくれたし、何かを手伝う代わりに食べ物を分けてくれたこともあった。
しかしあの夜から、オリビアは村へ顔を出すのを避けている。……近付けなかった。
罪悪感が消えなくて合わせる顔がないから。
「やぁ、アテナさん! オリビアも!」
「復興の調子はどうだい?」
「言われた通り、柵を作り直してました。家の建て替えも進んでいますし、みんな元気にやってますよ!」
カロナ村へ到着した直後、村人とアテナが会話を始めた横でオリビアは周りの景色を見回した。
焼け落ちた家屋はすでに取り壊され、新しい家が建てられている。
村の周辺を囲うように防衛柵を作っていたり、人々の明るい笑い声が聞こえたり、復興が着実に進んでいるのを感じた。
実際、この村では夢に見たような惨劇は起こっていない。
襲撃を受けたあの夜。アテナとオリビアが駆け付けたことで、被害が大きくなる前に魔獣が掃討されたからだ。
しかし――
「オリビアちゃん!」
ぼーっとしているオリビアに、若い女性と子供が駆け寄ってきた。
子供の頬に刻まれた痛々しい傷痕。女性の腕に巻かれた包帯。
その姿を見て、オリビアの心臓がぎゅっと掴まれたように苦しくなる。
「……あっ」
上手く言葉が出ない。そんなことなんて知る由もない二人はオリビアの手に温かく触れた。
「久しぶりね。ずっとあなたに会いたかったの。あの夜、私たちを助けてくれたこと……ずっとお礼が言いたくて」
「……いえ、そんな、私は……」
「本当にありがとうね。あなたは命の恩人よ」
(私が、命の恩人……?)
言葉を受け止めきれていないオリビアに、子供が無邪気に抱きついた。
「助けてくれてありがとう!」
純粋な感謝が、胸に深く突き刺さる。
屈託のない子供の笑顔。時が経ち、頬の傷口は塞がっている。
それでも痛々しくて、申し訳なくて――直視できなかった。
(……私のせいなのに)
自分は、命の恩人でもない。
正義の味方でも、なんでもない。
(私が――この村を滅ぼしかけたんだ)
オリビアたちが間に合わなかったら、夢に見た光景は現実になっていたかもしれない。
子供の顔から次第に笑顔が消えていく。
目の前に立つ《《命の恩人》》が、ポロポロと涙を流しているからだ。
「……ッ……ありがとう」
オリビアの頬に、涙が伝う。
(……本当に、ごめん)
口から溢れ出す言葉とは裏腹に、自責と謝罪が入り混じる。
命の重さを噛み締めるように――オリビアは膝をつき、子供を抱き締め返した。
「お姉ちゃん……?」
「……ありがとう」
(……絶対に、もう間違えないから)
涙を流しているそんな弟子の姿を、遠くからアテナはただ黙って見つめていた。
***
その日の夜――オリビアの就寝前の挨拶を途中でアテナが遮った。
座るようにと促されたリビングのテーブルには、ランプが一つ置かれている。
こうやって、師匠に呼び止められたのは初めてだ。
小さなランプの光だけがある暗い部屋で、不安を募らせながらオリビアが椅子に座った瞬間――
「……今日、村を見てどう思った?」
「えっ……」
言葉を詰まらせた弟子の様子を見て、畳み掛けるようにアテナは言葉を紡ぐ。
「村の人たちは嘆いてたか? 絶望していたか? いや、――ちゃんと前を向いていたよな」
「……」
「起きたことばかり気にしているのは、お前だけだったな」
師匠の言葉に何も言い返せない。
確かに、村の人たちは明るく笑ってた。
みんな前を向いて、強く生きてる。
それに比べて私は――村に行くことさえ避けてた。
現実を見るのが、たまらなく怖かったんだ。
俯くオリビアに、アテナは気付かれない程度に拳を微かに握り締める。
そして力強く、淀みのない声で――
「オリビア、お前……この家から出ていきな」
静寂な空気を、鋭利な言葉で切り裂いた。