第五章 初めてのお友達
家から図書館までは歩いて十五分ほど。
その道中、浅草寺から数分のところにある神社に、私は必ず立ち寄ることにしている。
学校帰りや土日に図書館へ向かうときも、欠かさずお参りする場所だ。
雷武神社の境内にある岩鉄静流社。雷武神社には三つの社があるが、その中でも私は岩鉄静流社が一番好きだった。雨が激しい日には前を通るだけで済ませるが、小雨程度ならきちんと参拝する。だから、ほとんど毎日足を運んでいるといってもいい。
今の私に、一番必要な神様だと感じている。
初めて見つけたときは、まさに奇跡のような出会いだった。運命的なものを感じたと言ってもいい。
ただ、私にとってお参りは『神様に何かをお願いする』ためではない。むしろ、自分の意思を貫きたいという決意表明に近かった。
お参りをするようになったきっかけは、ある休日のことだった。
雷武神社の前を通りかかったとき、大きな鳥居が目に入った。見上げるうちに、ふと『お参りしてみようかな』と思い立った。
意を決して鳥居をくぐろうとしたそのとき「正中は神様の通り道だから、真ん中を通っちゃダメだよ」
突然、そんな声がした。
「……えっ? せいちゅう?」
「真ん中って意味。鳥居の真ん中は神様が通る場所だから、人は端を通るんだ」
私が戸惑っていると、その子は真剣な顔でそう教えてくれた。
「へぇ~……知らなかったから助かりました。ありがとうございます」
なるべく淡々と答えたつもりだったが、彼はじっとこちらを見てくる。
「その様子じゃ、お参りの作法も知らなそうだけど」
「はい。一度もお参りしたことがないので……」
「親と初詣とか行かないの?」
「はい。行きませんね」
その子は目を丸くして驚いていた。
そんなにびっくりすることだろうか。他の家庭では、初詣が普通なの?かな……
「お参りしたことないなら、知らないのも当たり前か。よし、僕が教えてあげるよ!」
そう言って、彼は私の袖をつかんで引っ張ろうとした。
よく見ると、掃除をしていたらしく、もう片方の手には箒を持っている。
「掃除中なんですよね? 口で教えてくれれば大丈夫です」
「いいのいいの! 掃除はボランティアみたいなもんだから、箒を片付けてくるね! ここで待ってて!」
そう言い残し、彼は走り去ってしまった。
一人でも大丈夫だと思ったが、『待ってて』と言われた以上、待たないのも悪い気がするので、その場に残ることにした。
彼は、この神社の子なのだろうか?
子ども用の羽織袴を着ていて、普段洋服しか着ない私には、それがとても可愛らしく見えた。
しかも、五分刈りの坊主頭。
(……あれ、絶対に撫でたら気持ちいいやつ!)
思わず指先がうずうずしてしまったが、いきなり撫でたら変なやつだと思われるし、最悪通報されかねない。
(ダメダメ、我慢しなきゃ)
そう思いながらも、つい彼の頭に目がいってしまうのだった。
彼の話し方はしっかりしているけれど、身長を見ると……幼稚園くらいかしら?
頭も丸いが、顔も丸い。なんだかとても可愛らしい子だった。
しばらくすると、彼が戻ってきた。
「まず、鳥居の端の方に立つんだ。そして、入る前に礼をする」
彼はそう言って見本を見せる。
腰を深く折り、九十度ほどの角度でお辞儀をした。思ったよりも深い。私も彼の真似をして同じくらいにお辞儀をする。
「これでいいですか?」
「……うん。でも、なんで敬語なの?」
「え?」
「僕、お姉さんよりガキだから、普通に話してくれていいよ」
「その方がいい?」
「うん。お姉さん、顔の表情筋死んでそうだから、敬語だと怖く感じるし。だから、僕は普通の方がいいな!」
「……」
図星だったので、反論の言葉が出てこなかった。
「さっきも言ったけど、真ん中は神様が通る場所だから、人は端を通るんだ。鳥居の前でお辞儀するのは、『これから神様の領域に入ります』って敬意を表すためなんだよ」
「詳しいのね。でも、とてもわかりやすく説明してくれてありがとう」
(あぁ~……撫でたい)
「僕も父ちゃんから教えてもらったんだ。僕の父ちゃん、ここの宮司なんだよ」
「宮司って?」
「……うーん……」
彼は腕を組み、右手を顎に当てて考え込んでしまった。
(あれ? わかってないのね?)
「今は、お参りの仕方を教えてくれる? いっぺんに教えてもらっても覚えられないし、また今度、教えてくれる?」
「うん、わかった!」
彼は力強く頷いた。その無邪気な仕草に、なんとなく視線が引き寄せられる。
もし私にこんな弟がいたら……
歳が離れていた方が、兄弟ってうまくいくものなのかしら……?
そう考えながら、二人でゆっくりと境内へと足を踏み入れた。
「あそこの手水舎で、手と口を清めるんだよ」
彼が指さした先には、木枠に囲まれた水場があった。
「清めるって、どうやるの?」
「えーっとね……まず、右手で柄杓を持って……左手を洗う? ん? あれ、右を先に洗うんだったかな? どっちだったかな?」
彼は両手を見比べながら、交互に首を傾げる。
(あれ、意外と覚えてないのね?ふふふ……)
その姿をじっと見つめながら、私はただ黙って彼の次の言葉を待った。
そのとき、少し離れたところから、大きな声が響いた。
「和流、何してるんだ? 掃除はどうしたんだ?」
「……と、父ちゃん」
彼が小さな声でつぶやく。
声の方を振り向くと、そこにはとても大きな男性が立っていた。
彼が『父ちゃん』と呼んでいるので、実のお父さんなのだろう。
しかし、あまりに大きすぎて、小柄な彼の父親にはとても見えなかった。
「和流のお友達か? こんな可愛いお友達がいたんだな?」
そう言うと、彼のお父さんは私に向かって、驚くほど丁寧にお辞儀をした。
「お嬢さん、こんにちは。和流がいつもお世話になっております」
「いえ、お友達……というか……今、初めてお話したので」
「父ちゃん、このお姉さん、初めて神社にお参りに来たって言うから、僕が教えてあげていたんだけど……」
「……けど?」
「……けど、右手なのか左手なのか、わかんなくなっちゃって……」
和流は恥ずかしそうに顔を真っ赤にして、俯いてしまった。
「そうか! 和流はまだ一年生だから、覚えられなくてもしょうがない」
お父さんは豪快に笑いながら、優しく言葉を続ける。
「記憶するっていうのは、何度も繰り返しやらないと忘れちゃうもんなんだ。学校で漢字を覚えるのと一緒だよ。やらないと、すぐに忘れちゃうからな」
「うん……」
「私も最近、パソコンやスマホばかり使っているから、読めるけど漢字が書けなくなったよ。まあ、お互い忘れないように頑張らないとな! ハハハ……」
「僕も頑張るよ! ハハ……」
なんて優しいお父さんなんだろう?
他の家のお父さんは、みんなこんな感じなのだろうか?
比べるべきではないとわかっているけれど、羨ましい。
うちの親は、コミュニケーションを取るのすら面倒がって、仕事に逃げるような人だから……。
たったこれだけの会話で、彼の家庭の温かさが伝わってくるのが、余計にそう思わせた。
「で? 右と左の何がわからないんだ?」
お父さんが話を戻す。
「手水舎で、どっちの手を先に洗うんだっけ?」
「まず、右手で柄杓を持ち、左手を洗う。次に持ち替えて、右手を洗うんだ」
「だって! はい、どうぞ」
和流が誇らしげに言う。
「和流もやってみなさい。毎日やっていれば、自然と身につくからな。お嬢さんもどうぞ」
お父さんはそう言って、手水舎を指し示した。
「僕もやってみる。これから毎日お参りして、覚えていくよ」
「そうだな! 和流はこの神社の跡取りだもんな」
私たちは並んで、同じように手をすすいだ。
「で、また持ち替えて、左手に水をためて口をすすぐんだよ」
そう言って、和流は口をすすぎ始める。
私もそれに倣って、口をすすいだ。
「口をすすぎ終わったら、もう一度左手をすすいで、最後に柄杓を洗って元の場所に戻して終わりだよ」
彼のお父さんが穏やかに説明する。
その言葉に従いながら、私は再び和流の家庭の温かさを感じていた。
「お嬢さん、時間は大丈夫かな?」
和流くんのお父さんが、穏やかな口調で問いかける。
「お参りの作法を説明しながら、境内を案内してもいいかな?」
「時間は大丈夫ですが……和流くんのお父さんの方こそ、お仕事は大丈夫ですか?」
「大丈夫、大丈夫!」
「あっ!! 僕の名前、覚えてくれたの?」
突然、和流くんが嬉しそうに声を上げる。
「じゃあ、お姉さんの名前は?」
「和流! まずは自分から名乗りなさい」
すかさず、お父さんが優しくたしなめた。
「ちなみに私は、岩鉄 鉄太と申します。ここの神社で宮司をしております」
お父さんは落ち着いた口調で名乗ると、和流くんの方を向く。
「僕は、岩鉄 和流! 小学校一年生なんだ!」
胸を張って自己紹介する和流くん。
「お姉さんは?」
「私は、一片 雫です。小学校三年生」
「一片 雫かぁ~、すっごく綺麗な響きの名前だね!」
和流くんは感心したように頷いた後、ふと自分の名前を見比べて小さく首をかしげる。
「僕なんか、岩に鉄で『がんてつ』って……めちゃくちゃ硬そうだし、ごついし……」
「そんなこと言うな」
鉄太さんが豪快に笑いながら、ポンと和流くんの肩を叩く。
「『和流』の漢字は、『和やかに流れる』って書くだろう? すごく柔らかくて優しい名前なんだぞ!」
「でも、お父さんは?」
「俺? 俺なんか『鉄に太い』だからな!」
鉄太さんは腕を組み、どっしりと胸を張る。
「ガッチガチだよ。どうよ?」
「たしかに……」
和流くんはお父さんをじっと見上げ、納得したように小さく頷いた。
そして、二人して豪快に笑いあった。
「そういえば、雫って小学校どこなの?」
「ああ、浅草第一小学校よ」
「えっ!? 同じじゃん!!」
和流くんの顔がぱっと明るくなった。
「僕と友達になってよ! またいろいろ話そうよ!」
「私でよければ……いいけど。私なんかでいいの? 大丈夫?」
「僕がいいって言ってるんだから、いいの!」
そう言うと、和流くんは元気いっぱいに境内へ駆け出し、案内を始めた。