第二章 怪物たちと離れる準備
雫は、あの日から感情を捨てた。
自分の心を守るために、戦うことを諦めた。そして、何も感じないようにと言い聞かせた。
感情だけではない。自分の欲求や欲望さえも、心の奥から締め出した。
そうでもしなければ、心が壊れてしまいそうだった。
『普通の家族』って、どんなものなのだろう?
私にはわからない。私にとっては、これが普通だったから。
けれど、なんとなく想像はできる。
この家族が普通ではないということを・・・
お隣の冬弥君の家を見ていると、何となく思うことがあった。
パパとママがいて、ママはいつも家にいて、私たちが遊びに行くと笑顔で迎えてくれる。そして、おいしいおやつやジュースを出してくれる。
そんなこと、この家では絶対にありえない。
うちでは、父も母も朝早くから家を出て、夜遅くまで帰らない。
祖母が面倒を見てくれるわけでもなく、手間のかかることはすべて私に押しつけられる。
共働きの家なんてたくさんあるのだろう。でも、普通の共働きの親は、きっと休みの日にはどこかへ連れて行ってくれたり、欲しいものを買いに行ったりしてくれるのだろう。
クラスの子たちが、雑誌を持ち寄って休み時間に見たり、テレビやゲームの話で盛り上がったり、家族と出かけた話をしているのを聞くと、前は羨ましいと思っていた。
でも、あの家族にそれを望むことは、絶対に無理だ。
そんなことを考えても仕方がない。
それよりも・・・
どうやったらこの家から出られるのかを考えた方がいい。
『この家を出た後の自由』の想像して、自分に言い聞かせる。
そうしているうちに、他の家と自分の家を比べることもしなくなった。
うちには自由に使えるお金もない。
パソコンや自分の携帯もない。
ゲームは冬弥くんと遊ぶときだけ触らせてもらえたけど、もうお隣に行くことは一生ないだろう。
テレビも好きな番組は見せてもらえず、家では教科書を開いて勉強するしかない。
こんなんじゃ、いつまで経ってもこの家から出られない。
あの日から一週間。そればかりを考えていた。
今思えば、こんなことばかり考えている9歳なんて、世の中にいるのだろうか?
きっと私だけじゃない──そう思わなければ、やっていられなかった。
少なくとも、衣食住には困っていない。
両親や祖母は、お金や近所付き合い以外には私たちに無関心なだけで、酒に溺れて暴力を振るうわけではない。いや・・・祖母には叩かれていた。それを暴力と言えば、暴力になるんだろうが、命の危険はとりあえずない。
だから、まだマシなのだろう……?そう思うしかなかった。
楓も、家での状況は私と同じなのだろうか?
実は、楓だけこっそりお小遣いをもらっていたりするのだろうか?
私が知る限り、そんなことはない……と思いたいけど。
ただ、今思えば、洋服だけは特別だった。
欲しいものを買ってもらえたことはないけれど、母親の見栄なのか、ブランド物の子ども服をお揃いで買い与えられていた。
学校では、きっと裕福に見えているのかもしれない。さすがに学校で同じ服は、簡便してほしいので、着てはいかないけれど・・・
学校では、携帯の持ち込みは禁止されている。
でも最近は、授業でタブレットを使うようになった。
そして、うちの両親はとにかく見栄っ張り。
何でも最新のものをそろえたがる。
中古や型落ちのタブレットなんて、絶対に買わないのだ。
そうだ・・・タブレットだ!
外ではWi-Fiに繋げられないが、家や学校では問題なく使える。
これは使わない手はない──。
ただし、履歴は必ず消さなければならない。
面倒だが、毎日の日課にするしかない。
授業の一環として、タブレットにはパスワードを設定することになっている。
初回の授業で、誰でも勝手に触れないように設定するのが決まりだ。
とはいえ、各家庭では話し合ってパスワードを決めることになっている。
ほとんどの家庭では、誕生日のような簡単なものを避けるらしいが──うちは違った。
両親が覚えられる数字は、私たちの誕生日しかなかったのだ。
だから、まず朝にやるべきことは決まっている。
タブレットのパスワードを、誕生日から自分だけが分かるものに変更すること。
楓がいつ勝手にタブレットを開くか分からない。
なるべく履歴はこまめに消すのが理想だが、うっかり忘れることもあるかもしれないから・・・
今後、考えていることを読まれるわけにはいかない。
危機感を持って行動するに越したことはない。私の考えがわかってしまうと楓に絶対にバラされてしまうだろう。
地域の図書館を利用するのが、一番いいかもしれない。
学校の図書室も悪くないけど、知っている人ばかりだし、図書館ならfree Wi-Fiで調べものができる。
時間制限はあるけれど、無料でパソコンも使えるし、なにより本の量が学校の図書室とは比べ物にならない。パソコンで調べた履歴も、消しておいた方が無難だろうなぁ~?
これからは、何も用事がない日は図書館で宿題や勉強、調べものをしよう。
タブレットを使わなければ、履歴を消す必要もないし、勉強以外のことを調べるのにも最適だ。
毎日のルーティーンを作って、なるべくそこから外れないように行動しようと思う。
世の中、虐待なんて腐るほどある。
9歳の子どもが誰かに助けを求めたら、どうなるんだろう?
まずはAI-CATで調べてみることにした。
AI-CATは、質問するとすぐ答えてくれる便利なツールだ。
『うちは普通なのか、それとも違うのか?』
《虐待の種類》と入力すると、すぐに『ネグレクト』という言葉が出てきた。
たぶん、うちはこれにあたるんじゃないだろうか?・・・
《精神的な放置》
•子どもに全く関心を示さず、話しかけたり関わったりしない。
•ほぼ毎日1人で食事をさせる(親が関与しない)。
•「どうでもいい」「勝手にしろ」など、極端に無関心な態度をとる。・・・か。
ネグレクトにも色んな種類があるらしい・・・
例えば、病気になっても病院に連れて行かない、義務教育を受けさせない、食事を与えない、不衛生な環境で育てる・・・
結局、親が長期的に責任を放棄している状態 を『ネグレクト』と呼ぶらしい。
うちは、まさにそれだと思う。
学校の道徳の授業で、虐待の話をすることがあるけど、先生はいつも同じことを言う。
「誰でもいいから、周りに相談しなさい!」
先生でも、スクールカウンセラーでも、児童相談所でも、警察でも・・・
でも、実際には相談して悪化するケースも少なくないらしい。
今は衣食住に困っていないけど、もし相談して逆に状況が悪くなって、食事すら与えられなくなったら……。
それが、一番怖い・・・9歳でしかない私は、生きていけない・・・
しかも、両親が『もうやりません。反省してます』って言えば、また家に戻されることもあるみたいだし・・・
『そんな言葉で本当に変わるなら、最初からやらないでしょ!』
って思うけど、中には反省する親もいるかもしれない。
でも、反省なんてせずに、もっと酷くなったら?
私はまだ9歳。
どうしようもないじゃないか……
少し調べただけでも、こんなにいろいろ出てくる。
でも、誰かに相談する勇気は……ない。
もし先生に話しても、私を引き取って守ってくれる親戚なんかは、絶対にいないと期待はしないほうがいい。
結局、自分のことは自分で守るしかない。
あの日の出来事で、楓も《怪物》だってことが分かってしまった。
双子なのに、どうしてこんなことになったんだろう?
楓は、両親の無関心のせいで、私を貶めて楽しむことを覚えてしまったんだろうか?
楓は私と違って、要領がいい。
自分が叱られないように、先に泣いて訴えたり、大袈裟に言ったり、私の知らないところで嘘をついたり……。
両親や祖母をうまく丸め込んで、自分だけが悪者にならないように立ち回っていた。
今まで、薄々気づいてはいたけど、見ないふりをしてきたんだ。
でも、これは楓に限った話じゃない。
仲のいい友達だって、似たようなことをするかもしれない……私には友達はもういらない。これ以上傷つけられたくない。家族にも・・・
そのためには、これから何をすればいいのか。
必死に考えて、自分で判断して、実行していかなければならない。
そして、私は『絶対に裏切らないもの』について考えた。
例えば、お金、努力した分の知識やスキル、時間の流れ、本や物……。
数え始めたらきりがないが、やはり真っ先に思い浮かぶのは 《お金》だろう。
そして 《知識》
でも、私はお金を稼ぐことができない。
お小遣いも貰っていないから、貯めることすらできない。
それなら、時間の流れに期待するしかない。
あと9年経てば成人する。
成人すれば、親に何を言われようと 《自由》 になれる。
あと5年。
中学を卒業すれば、アルバイトもできるようになり、お金を貯めることも可能になる。
義務教育が終わったら、どうするか?
芸者に弟子入りする?
住み込みで働ける旅館や料亭とかで雇ってもらう?
どこかで見た番組では、芸者見習いは給料はないけれど、住み込みで習い事をしながら修行できると言っていた。
ただ、未成年だと 親の許可なしでは無理かもしれない・・・
『中卒で働く』という選択肢は、本当に現実的なのか?
仕事を探すとき、学歴がないと不利になる可能性が高い。
あの 見栄っ張りな両親 のことだ。
自分たちは学歴があるのだから、子どもを中卒で働かせるなんて許すはずがない。
だったら、今できることを全力でやるしかない。
今は高校も無償化されている。
少なくとも 高校までは行けるはず。
それに、楓よりも 偏差値の高い学校 を目指せば、別々の高校に通える可能性が高い。
学力さえ伴えば、あの両親のことだから 学費を出さないことはないだろう。
万が一のときは、学費ローンという手もある。
なんとか大学までは行けると思いたいが・・・
学費を安く抑えるには国立大学を狙うしかない。
それなら奨学金を利用すれば、なんとかなるかもしれない。
そうと決まれば、やるべきことは一つ・・・勉強だ。
『将来、どんな職業につくのが一番いいのか?』
成人して働き、 親と楓と、最後には縁を切る。
そのためには、どんな職業が一番有利なのか。
やっぱり、法律を学ぶのが一番自分を守れるかもしれない。
弁護士か、検事か・・・
それが 私の未来を切り開く道になるかもしれない……。
先は長い。
でも、必死に頑張ろう。
そして、いつか──。
あの日から、1か月が経った。
私は、あの日を境に 楓の世話を一切やめた。
朝、起こしてあげること。学校の準備。宿題の手伝い。登下校の付き添い。
数え上げればきりがないが、そのすべてをやめた。
すると、楓は自分で起きられなくなった。
遅刻が増え、宿題や提出物も期限までに出せなくなった。
まるで、何から何まで私に依存していたかのように。
最初は先生も「次は忘れないようにね」と軽く済ませていたかもしれない。
でも、週に3回も遅刻し、宿題の期限も守れなくなれば、さすがに気づくだろう。
『何かおかしい』と・・・
やがて、学校から 親に連絡 が入ることになる。
それも、時間の問題だった。
そして今朝。
珍しく、朝食の席に 両親と祖母がそろっていた。
嫌な予感しかしない。
けれど、何の話になるのかは 予想がついていた。
――学校のことだろうと・・・
とりあえず、私は黙って朝食を食べた。
どうやら、今日の楓は 祖母が起こし、準備させたらしい・・・
食事が終わる頃、母が口を開いた。
「昨日、先生から連絡があったわ。楓が遅刻したり、宿題を忘れたりすることが増えているって。どういうことなの?雫?」
「……なんで、私なんですか?」
私は無表情のまま答えた。
「私は遅刻もしていないし、宿題も忘れていませんよ?」
母は少しムッとした顔になり、言い放つ。
「雫の妹でしょう?妹の面倒を見るのは当たり前でしょう?」
「そうかな?」
私は、淡々と返す。
「じゃあ、私の面倒は誰が見てくれるんですか?」
その瞬間、父が口を挟んできた。
「口答えするんじゃない」
怒鳴りはしないが、低く、威圧するような声だった。
『なんだそれ? なんだそれ? なんだそれ?……』
心の中で、私は何度もつぶやいた。
「楓が遅刻するのも、宿題を忘れるのも、楓のせいでしょう?」
私は淡々と続ける。
「私のせいではありません。いい加減、自分のことは自分でやるべきじゃないんですか?このままだと、何もできない人間になってしまいますよ。私はちゃんとやれています」
母は眉をひそめる。
「雫はお姉ちゃんなんだから、できて当たり前でしょう?今までやってくれていたんだから……」
『はぁ?』私は内心で大きくため息をついた。
生まれた時間は たった1時間 しか違わないのに、何を言っているんだ、この人は・・・
「これからは、私は何もしません。楓のためにならないと思いますので」そうはっきり言うと、楓が突然叫んだ。
「お姉ちゃん、なんでそんな意地悪するの?!意地悪でそんなことするの、やめてよ!!」
私は冷静に答える。
「意地悪で言ってるんじゃないの。楓のためにならないから言っているんです」
母は考え込むように祖母を見た。
祖母は 『私には関係ありません』 とでも言いたげに、黙ってお茶をすすっている。
「それもそうよね?」
母はゆっくりと頷きながら言った。
「いつまでも二人一緒にいられるわけじゃないものね。楓も少しは自分でも頑張ってみなさい。そういえば、私も自分で勉強の仕方を考えたりしていたわ」
楓は、顔を歪めて叫ぶ。
「ええーー!! 楓は雫と違うんだから、手伝ってもらわないと無理なの!!」
「朝は目覚まし時計で起きられるでしょ?勉強は先生に聞くのが一番いいんじゃない?」
私は淡々と返した。
「あっちはプロなんだから」
本当は、『私にやらせて楽をしようとしてるだけだろ!だまされないんだから』と思ったけど、表情には出さなかった。
「それに、やる前から無理って言うのはどうなの?」と私は言った。
母も楓の泣き言には呆れたのか、あっさり言い放つ。
「それもそうね。まずは一つずつやってみなさい。朝の支度くらいは一人でできるようにならないとね」
父はもうこの話に興味がないようで、さっさと席を立った。
「俺は仕事に行くからな。楓はお母さんの言うことをちゃんと聞けよ」
そして、そのまま出て行った。相変わらずの無関心っぷりだ。
母も祖母に向かって、さらっと言い放つ。
「雫は、無理そうなら少し手伝ってあげなさいね。じゃあ、お母さんも行ってくるわ。おばあちゃん、よろしくね。」
そして、母も家を出た。結局、母も 『人任せ』 なのだ。
祖母は、ため息混じりに私を見た。
「雫も、少しは宿題を手伝ってあげな?私の仕事が増えるじゃないか」
私は静かに言った。
「おばあちゃん、もう私の朝ごはんも夜ごはんも作らなくていいです」
祖母が目を丸くする。
「冷蔵庫に食材を入れておいてくれれば、私は自分で作るので。その代わり、楓の分は作りません」
祖母は面倒ごとが減ることに満足したのか、あっさり頷いた。
「そうね。もう9歳なんだし、料理くらいできるようになったほうがいいわね」
「えええーー!!私のご飯はどうなるのよ!?」
楓は大声で叫ぶ。すると、祖母は一瞬で態度を変えた。
「うるさい!! 弁当でも入れておくから、自分で温めて食べな!!私はもう歳なんだから、楽をさせて!」と言ってリビングから出て行った。
楓は怒りで顔を歪め、叫ぶように言った。「もう、あんたのせいよ!!なんでもかんでも私に押し付けて!!今に見てなさいよ!!」
そう叫ぶと、力任せに部屋のドアを閉めた。
――バンッ!!
私はその音に一瞬ビクッとしたが、大きくため息をつくと、食器を片付けに流しへ向かった。
我が家の怪物たちは、誰も『片付ける』という概念を知らないらしい。