第一章 怪物の目覚め
私の両親は、文部科学省に勤めている。
父と母は職場結婚し、私たち双子を授かった。
私たちは一卵性双生児の姉妹で、姉の私が雫、妹が楓と名付けられた。
今思えば、雫と楓が9歳になるまでは、ほどほどに仲がいい姉妹だったように思う。普通の双子がどのようなものなのかは分からないが、幼い頃は二人でよく遊んだ記憶が残っている。
振り返れば、あの頃が私の人生で最も幸せだった頃なのかもしれない…
両親はどちらもキャリア志向が強く、仕事への情熱は並々ならぬものがあったようだ。特に母は、妊娠・出産で約一年のブランクを強いられたことを取り戻そうと、誰よりも遅く帰り、誰よりも早く家を出た。両親が仕事に没頭する間、私たちは母の母親、つまり祖母に育てられた。
祖母は昼間、保育園への送り迎えや食事の世話をし、寝かしつけまで担ってくれた。
だが、祖母のしつけは厳しかった。
私が何か粗相をすると祖母は裁縫用の竹尺で私のふくらはぎを打った。
『もうしません』と泣きながら謝るまで、それは終わらなかった。そのせいか、私はいつしか自分の意見を言えない子供になっていった。
それでも、楓とは保育園で遊び、勉強を共にし、仲が良かった。
少なくとも、私はそう思っていたのだけれど・・・
私は、7歳のとき初めての恋をした。
隣に住んでいた冬弥君。二つ年上の、優しくて、誰にでも分け隔てなく接する子だった。
——それからだ。
いや、違う。たぶん、もっと前から——私はおかしくなっていたのかもしれない。
いいや、違う!
私は生まれる前から、搾取されていたんだ。
そうとしか思えない。
——それこそ、一つの受精卵が二つに分裂したときから・・・
私たち、雫と楓。
受精卵が分裂し、それぞれの存在になったとき、楓のほうは子宮の中で一番心地よい場所を探し、そこに着床した。
私はそんなことも知らず、ただ、残された場所に着床しただけだった。
それが、すべての始まりだったのかもしれない。
『選ぶ』ということを、私は許されていなかった。
一度着床してしまえば、その場所から動くことはできない。
楓は上の方、私は下の方へ。
楓は自由に動き回り、私は身動きが取れないまま、ただ、時折、蹴飛ばされるだけ。
私はやり返すこともできず、せいぜい下から頭で押し返すことしかできなかった。
——栄養だって、そう。
普通の子なら全部もらえるはずのものを、私たちは半分ずつ。
でも、上にいる楓のほうが、きっといいものを多くもらっていたはずだ。
同じ一卵性双生児として生まれても、その根っこの部分はきっと違っていた。
そして、私は少し早く生まれた。
一時間後、楓も生まれた。
私が自由だった時間は、その一時間だけだったのかもしれない。
生まれたばかりの赤ん坊に記憶なんてあるはずがない。
でも、生まれた瞬間から、私の役割は決まっていた。
おむつを替えられるのも、ミルクを飲むのも、お風呂に入るのも・・・
絶対に、私のほうが後だった。
本当にそうだったのか?なんてわからない。
だけど、そうだったとしか思えない。
いつから、こうなったのか?
——自分でもわからない。
気づいたときには、もう取り返しのつかないところまで来ていた。
毎日、少しずつ、少しずつ、そういうことが増えていったんだと思う。
最初は、オムツやミルク。
言葉が通じるようになると、楓が泣くだけで『雫が何かしたんじゃないか?』と言われるようになった。
『楓のものを取ったんじゃないか?』
お姉ちゃんなんだから、貸してあげなさい!
お姉ちゃんなんだから、分けてあげなさい!
お姉ちゃんなんだから、我慢しなさい!
お姉ちゃんなんだから、遊んであげなさい!
お姉ちゃんなんだから、勉強を教えてあげなさい!
——お姉ちゃんなんだから、お姉ちゃんなんだから、お姉ちゃんなんだから!
たった一時間早く生まれただけで、楓の面倒を見るのは私の『仕事』として定着していった。
今思えば、両親も祖母もただ自分の時間が欲しくて、全部私に押しつけていただけだったんだろう。
それでも・・・
それでも私は、楓と遊ぶのは楽しいときもあった。
一緒に勉強するのも、悪くなかった。
でも、それすらも少しずつ、少しずつ楽しくなくなっていった。
そんなとき、私が救われたのは、お隣に行く時間だった。
お隣に行くと、楓は突然、大人しくなる。
我儘を言わなくなり、冬弥君がいれば、三人で普通に遊べるようになった。
冬弥君がいるときだけ、楓は「普通」になってくれた。
三人でおままごとをしたり、ボール遊びをしたり。
夏には小さなプールで水をかけ合って遊んだり。
その時間だけが、私にとっての救いだった。
私と楓は、両親や祖母でさえ間違えるほどそっくりだった。
泣きぼくろの位置まで、ほとんど同じ。
——でも、私のほうが可愛い位置にあるもん。
楓のほくろは、左目のすぐ下。
私のほくろは、それより3ミリだけ下。
そんなことを思う自分は、ひがんでいるだけなのかもしれない。
でも、それしか、私に与えられたものがなかったから・・・
——それくらい、考えたっていいよね?
そして、私にはもう一つ、誰にも言っていないほくろがある。
絶対に誰にも教えない。あいつらには、絶対に!
私たちはどこまでもそっくりだったけど、冬弥君だけは、いつも私を見分けてくれた。
何も言わなくても、迷わず私の名前を呼んでくれた。
それが、どれほど嬉しかったかなんて、私にしかわからない。
——私の初恋だった。
8歳のある日、学校からの帰り道。
テニススクールの脇の道を歩いていた。
数メートル先に、私と同じくらいの男の子がいた。
テニススクールのほうを見ながら歩いていたせいか、よそ見をしていて、足元のボールに気づいていない。
「危ない!」
そう思った瞬間——
男の子の足がボールの上に乗った。
ぐらっ
バランスを崩して、後ろへ倒れ、後頭部を地面に打ちつける音がした。
私は思わず駆け寄った。
「大丈夫!?」
男の子は、一瞬意識がなかったように見えた。
でも、痛そうな顔をしながら、ゆっくりと起き上がろうとする。
「動かないで!」
咄嗟にそう言った。
「頭を打ったときは、動いたらダメなんだよ! じっとしてて! 今、誰か呼ぶから!」
私は大声で周りの人に助けを求めた。
幸い、テニススクールで練習をしていた男の人がすぐに駆けつけ、救急車を呼んでくれた。その間、私は男の子のそばに座っていた。
すると、男の子がじーっと私を見つめてきた。
「……君は天使?」
——え?
「絶対、天使だよね?」
頭を打ったせいで、変なことを言っているのかもしれない。
私は少し戸惑いながらも、返事をした。
「天使じゃないよ」
「じゃあ、名前教えてくれる?」
「一片雫。」
「どこか痛いとこない? もうすぐだから、がんばって!」
「うん、ありがとう。……やっぱり、雫は天使でしょ?」
そう言いながら、男の子は私の髪をそっと触った。
でも、私は思わず笑ってしまった。
「ふふふ……」
私が笑うと、男の子もつられて笑った。
その笑顔は、とても眩しくて、可愛かった。
そのとき——
鼻の下に、何かくすぐったい感触があった。
……ん?
真下を見ると、男の子が私の鼻の下を触っていた。
——えっ!?
私は慌てて、鼻の下を手で隠した。
心臓がドキッとする。
「なんで——?」
誰にも見つかることはないと思っていた。
ずっと隠していた。
——私の秘密のほくろ。
この子に、見つかってしまった。
『あああーー!! 恥ずかしい!!』
きっと、私の顔は真っ赤になっていた。
でも、男の子に確認する勇気もなくてそのまま、救急車のサイレンの音が響いた。
すぐに救急隊が来て、男の子は病院へ運ばれていった。
その日、家に帰ると、祖母に酷く叱られた。
「楓の面倒を見なかったせいで、出かけられなかったじゃない!」
そう言われ、ふくらはぎを叩かれた。
——初めて、私の秘密の場所を知られてしまった日だった。
9歳になろうとしていた、その日。
その時は突然訪れた。
いつも楽しみにしていた、お隣に遊びに行く日だった。
いつもなら、おやつを食べたあと、三人で庭で遊んだり、冬弥君の部屋でゲームをしたりする予定だった。
でも、この日だけは違った。
おやつも食べずに、私は冬弥君に話したいことがあると言われ、すぐに部屋へ向かった。
そして、部屋に入るなり、彼は言った。
「俺は、雫にがっかりしたよ」
怒ったような声だった。
——え?
何が起こったのかわからず、私は黙ったまま立ち尽くした。
『私……何かした?』
先週、遊んだときは、普通だった。帰ってから今日までの間に何かあった?必死に思い出そうとするけど、心あたりはない・・・
「この間、俺の部屋に遊びに来たとき、父さんが出張で買ってきてくれた時計を見せたよな?」
「うん、とっても綺麗な時計だったよね? それがどうかしたの?」
「……遊びに来た日から、なくなったんだよ。」
「……えっ?大変! 探さないと! 一緒に探してあげる!」
「何が『一緒に探してあげる』だ?お前が盗んだくせに、何言ってんだ?」
——は?……何を言ってるの?
「えっ? そんなことするわけないじゃん! 冬弥君こそ、何言ってるの?」
「三日前……」
冬弥君は、冷たい目で言った。
「楓が、お前の部屋で見つけたって言って、返しに来てくれたぞ」
「……は?」
「もうバレてるんだよ。しらばっくれんな!素直に謝ったら許そうと思ってたのに」
——その瞬間、私は悟った。冬弥君の隣にいた楓。
口元が、いやらしく歪んでいる。
——ああ、やっぱり。
——お前か!
「私は盗んでないよ」静かに、そう言った。
「……楓は、お前のために泣きながら返しに来てくれたんだぞ?」
冬弥君の声が、さらに冷たくなる。
「お前の代わりに謝ってくれたんだ。何やってんだよ、お前は!!」
「……」
「ホント、がっかりだよ!」
——がっかり、……か。
私は、冬弥君を見た。
「……私も、がっかりだよ」
「……は?」
「冬弥君には、がっかりした」
「……」
「私以外は、みんなそう。何も見ようとしない。何も考えようとしない。
……もういいや、いろいろ迷惑かけてごめんなさいね……もう関わらないから、安心してください」
そう言って、私は静かに部屋を出た。
『絶対に、あいつの前で涙を見せない』
『誰の前でも、絶対に泣かない』
『誰も信用しない』
『感情に振り回されるな』
『私は何も感じない』
『悲しみなんて、絶対に感じない』
『私は絶対に傷つかない』
その時の私は、そんなことばかり考えていた。
違うことを考えると、涙がこぼれてしまいそうだったから・・・
祖母に叩かれても、両親にグチグチ言われても、もうどうでもよかった。
泣くのは、一人になってからだ。
『あいつの前で弱みを見せるくらいなら、死んだほうがマシ』
『心の中に蓋をして、絶対に漏らさない』
何が何でも……
その夜、私は一人、お風呂場でシャワーを浴びながら、静かに泣いた。涙を流していることが、誰にもバレないように。
そして——
この日から、私は感情を顔に出さなくなった。笑うこともなくなった。
——いつか、この怪物(家族)たちと離れることだけをただただ、願っていた。それだけが、私の唯一の希望になった。